もう、書かなくてもいいよ

 雨がカフェの窓を叩いて、傘を持っていない二人は慌てて解散した。


 電車に乗っていると、雨の威力がどんどん強まっていった。

 最寄駅に降りたときにはもう本降りだった。コンビニでビニ傘を買うか少し悩んだけど、走って帰ることにした。


 自分の部屋で体を拭いて着替えてから、華子の部屋にお邪魔する。

 真っ暗な玄関を通ってリビングに入ると、珍しく人の気配がした。

 髪を下ろし、パジャマ姿の華子が、ソファに座っていた。

 そばには数本、ストゼロが転がっている。


「華ちゃん」


 呼びかけると、うつろな表情で華子が可波を見た。

 助けを求めるように瞳を濡らし、唇を震わせる。


「カナミ……ごめん、進んでない」


 彼女の口から出たのは、怒りでも保身でもないそんな言葉だった。


「華ちゃん」


 もっと本音で話してくれてもいいのに。

 急に距離が開いた気がして、可波はそれが悔しかった。


「ちょっと休んだら元気になったから。がんばる……」


 そうは言うけれど、身体も心もガタガタの彼女を見ていると、できるとは思えない。


「さっき、事務所にすげー怒られた。カナミも言われたんでしょ。ごめん、あたしがサボってたせいで迷惑かけて」


 服の袖で目元を拭って、華子は立ち上がった。

 ろくに食事もしていないのか、寝ていないのか。ふらついて倒れそうになところに駆け寄って支える。


「華ちゃん……もう、書かなくていいよ」


 腕の中で華子がぴくりと動いた。

 だいぶ痩せている。不安になるほど体が薄い。


「書きたくないものを、書くのはやめよっか」


 表情は見えない。けど、戸惑っているのか華子は黙り込む。


「これからは本当に書きたいもの書いてみよう」

本当に・・・? ……そんなものないから」


 自嘲するように、華子は否定した。

 でも可波は、それが嘘だということを、もう知っている。


「本当は、小説家になりたいんでしょ」

「っ!?」


 どこにそんな力が残っていたのか。

 強く突き飛ばされて、可波はよろけた。

 華子はすっかりと窪んでしまった目で、恐ろしげに可波を見つめていた。



 カフェで、千織に頼んで華子の記事を見直すことにした。

 今の記事は、本人が言うようにアダルト系の記事タイトルばかり並んでいた。


 千織はそれを見て「本名で探してみたら、裏サイトとかあるかも?」と提案。検索は『泥酔のはす』ではなく、『結野ゆいの華子はなこ』に。

 そこで出てきたのは、7年前のブログだった。


 それは、彼女が可波と同じ年齢のときに書いていたもの。

 それは、胸を締め付けるほど優しい言葉でつづられた物語だった。



 可波は本棚に視線を走らせる。


「! やめてっ!!」


 華子も気づいて手を伸ばすが、可波のほうが少し早かった。

 本棚から以前「門外不出」と言われたファイルを抜き取ると、邪魔されないよう彼女に背中を向けて開く。


「……やっぱり。プロットだったんだ」


 仕事のプロットを必ず手書きする彼女は、自分の小説のプロットも手書きし、ファイルで保管していたのだ。


「返して!」


 可波からファイルをひったくるがもう遅い。


「書きたいんでしょ、本当はこういうお話が。だったら書こうよ。自分を偽るのがつらかったんでしょ」

「ねえ、まじでなんなの……。やめて、関係ないじゃん」


 可波に背中を向けた華子は、絞り出すように声を出した。


「泥酔のはす先生」

「あ……」


 くるりと振り返った顔は、絶望の色で染まっていた。


「な、んで急にそう呼ぶの……? やだ……」


 今にも泣き出しそうな表情で、責めるようにつぶやく。

 けれど可波は、彼女との関係を疎遠にするためにそう呼んだわけではない。


「この名前の語感、どこかで聞いたことあると思ってたんだよ。……汚れた環境の中でも影響されず、清らかさを保っている蓮をたとえて『泥中でいちゅうはす』っていうよね。自分自身がそうあり続けるために、自戒としてもじったんじゃないの? ねえ、華ちゃん」


 華子の顔が歪んで、ファイルに顔を埋めてしまった。

 静かに彼女は泣いた。


「あたしの好きなんて関係ないの。そんなゴミの生産、誰も望んでないからっ。みんな、バカがバカみたいなことしているのを見て、『ああ、自分のほうがマシだな』って安心したいの。あたしはそういう役割でしかこの世に存在価値がないんだ!」


 華子は泣きながらも、言葉を続ける。


「前に小学生がお姉ちゃんみたいになりたいって言ってくれたけど、こんなみっともない姿、どうして見せられるの? 仕事のやる気もない、笑われるしか脳がない、こんな人間ゴミ以下だよっ!」


 ファイルを乱暴に開いて、のはすは中の紙を闇雲に引っ張った。

 びり、と中央が裂けたのを合図に、一気に紙が分断される。


「ちょっと華ちゃん!」

「こんなのさっさと捨てれば良かった! こんなのに未練があると思われて! だっさ、あたし超だっさーーーっ!!」


 可波がファイルを奪い取ろうとするが、華子の馬鹿力でひったくられて、どんどん中身を破かれる。


「やめなよ、自分がなにしてんのかわかってんの?」

「わかってる!」


 華子は可波をにらみつける。


「プロはね、書きたくないことも書くの。ほとんどの人間がそう。書きたいものだけを書いてお金をもらっている人は、世の中にいない。あたしはプロだから……こんな幻影に惑わされていちゃダメなんだよ!」


 床に落ちた紙切れを両腕で拾い集めて、ベランダに走った。


「じゃーね、あたしの足枷!! あははははっ!!」


 叫ぶと、紙切れを空へとばら撒いた。

 夢のかけらは美しく舞うことはなく、無常にも雨が地面へと叩きつけた。


「……させない」

「カナミ? えっ」


 可波はベランダとは逆方向へと走る。


 このままだと、彼女は“華子”を手放すだろう。


 せっかく、彼女自身で見つけたものなのに。

 それだけは絶対にさせたくない。

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