きみがクジラなら、僕はフジツボで
「水族館にクジラがいない理由、カナミは知ってる?」
「え、ううん」
可波の隣にぴたりとついた華子は、返事を聞いて得意げに答える。
「4メートル以下がイルカ、それ以上をクジラっていうから、だいたい水族館にいるのはイルカなんだって」
「へー。大きさで名前が変わるなんて、出世魚みたいだねぇ」
華子が目を向けた壁一面の大きな水槽には、白いイルカが泳いでいた。
小さなホールには水槽に向けて、150人ほど入れるチェアが段差になって並んでいる。
ショータイムが終わったあとなのか、お客さんの数はまばらだった。
「この子たちはベルーガって名前で、人間の言葉をマネするんだよ。あたしより賢いかも」
「へ〜」
「そこはフォローだろがい」
華子は肘で可波の脇をこづくと、水槽に手を当ててうれしそうに中を見上げた。
無意識に可波も同じように手を触れていた。水に触っているわけではないのに、じわっと指先が湿る気がした。
頭のずっと上方を、白いイルカが悠々と横切っていく。
「あたし、クジラが大好きなんだ」
「うん」
「だって800km離れた相手ともコミュニケーションできるんだよ? だいたい東京から札幌くらいの距離かな」
「それなら聞いたことあるかも。えっと、テレパシーだっけ?」
「あはは、なにそれ。周波数……圧力波ってのを使ってるんだよ」
餌の時間なのか、水槽を自由に泳いでいた白いイルカたちが天に登るように上へと集まって行く。
それは一斉に。
白が浮かび上がる様は神秘的だった。
「でもあながち、テレパシーでも間違いないかもね。見えない相手に声にならない声を届けるんだし。きっとそこには、何の偏見もなくて……」
華子の声が震えているのに気づいたとき、彼女は空っぽになった水槽の、天井の一点を見上げたまま涙をこらえていた。
「ねえ、カナミ。あたしクジラになりたいんだと思う」
可波は黙って小さく相槌を打つ。
「見た目とか、環境とか、肩書きとか。そういうので判断されて苦しいよ。あたしは高校生のころから何も変わってないのに」
絞り出すような悲痛な声が、後に続く。
「20歳すぎたら大人だって常識を押し付けられて、社会に放り出されて。なのにさ、仕事では非常識なあたしを求められるの。そんなのすごく矛盾してる。窮屈だよ。それにうまく順応できない自分も嫌だ」
苦しみを噛み締めるように、華子の口元が引き結んだ。
その心にこびりついた痛みが。
可波にも伝染するように、指先から冷たさが体に広がる。
「――うまく生きる必要なんてないよ」
それは心が発するままにこぼれた素朴な言葉。
華子はすがるように可波を見上げる。
「自分の心に嘘をついてまで、なにかになろうとしなくても良くない?」
「でも、あたしが生まれた世界はここなの。郷に従わないと爪弾きだ」
「それでいいじゃん」
「いいわけない」
「いいよ。それでも離れない人は必ずいる」
彼女のツインテールを崩さないように、可波は頭を撫でた。
やさしく、何度も。彼女を安心させたかった。
「本当に困ったとき、そばにいるのはその他大勢なんかじゃないよ。華ちゃんだから好きだって人が、最後には残るから。テレパシーなんてなくても、ちゃんと声は届いてる」
「えええ。そんな人、いる、かなぁ……」
「だいじょーぶ。見てよ僕なんて、華ちゃんがどこに行こうと必ず見つけるコアファンだよ?」
冗談めかしたつもりなのに、華子は目に涙を浮かべ、真っ直ぐに微笑んだ。
思った反応と違って、可波は急に気恥ずかしくなり、耳を赤くする。
「……あとさ、とりあえずここ離れない?」
「? なんで?」
「いやだって。目立ってるし」
可波は顔を隠すように水槽に向けた。
華子が
「おわっ! ちょっ!? 違うから! 撮るなっ! か、彼氏とかじゃないからね!!」
「気にするのそこかーい……。はいはい、行きますよー」
華子の背中を押して、そそくさと可波たちは退散する。
またSNSで拡散されて、事務所に怒られるかも……。と、考えるほどげんなりだった。
「待って、カナミのことも教えて!」
順路に沿って通路へ出たとき、華子が頭を後ろに倒して可波の胸に寄りかかった。
「え? 僕?」
「うん、そういえば今まで一生あたしの自分語りだったから」
「え、あー」
「あんたのことも知りたい。……ダメかな」
可波は何もない宙に視線をさまよわせてから、華子の隣に立った。
「ダメじゃないけど、うーん普通? モブみたいな人生だよ」
「モブって、その他群衆ってこと?」
「フジツボって自分で長距離移動できないから、クジラに寄生して海を渡るんだって」
「うん」
「華ちゃんがクジラなら、僕はフジツボなんだと思う」
華子が首をかしげる。
彼女のような主役には、可波の気持ちはわからないだろう。
だから今まで、可波は自分の考えを誰かに話すことを避けていた。
例えば。
「戦場に立つヒーローが脱ぎ捨てたコートを誰にも見られないように回収する人は、物語には必要でしょ?」
別に自分を卑下しているわけではない。
本気でそう思っている。
それはわりと早い年齢から。
自営業の親の代わりに妹をほとんど育てたこととか、器用貧乏でそつなく人助けをこなしていた中高生時代とか。
そういった経験を重ねて、可波は自分がモブの立場だと自覚していた。
「僕の人生はとても穏やかで、逆に言うと、大きなドラマがないんだよねぇ」
だからいつしか、可波は、誰かの人生に乗っかろうと思った。
高校のときに好きでもない子と恋人になったことも。
怪しいインフルエンサー事務所に住み込みで働くことも。
可波にとってはドラマを見るためにごく自然な行動だった。
「……あんた、実はこじらせてる?」
ため息をついて、華子は可波の手を取った。
いつもと違うのは、指を絡ませていたこと。
いわゆる恋人つなぎってやつ。
指の細さや手の柔らかさや体温など……彼女という生命が手のひら全てから伝わってきて、どきりと胸を打つ。
「あたしのそばにいなよ」
水槽を見つめる彼女の声からは、いつもの棘が抜けているような気がする。
「絶対に、あたしがあんたをモブなんかにさせないから」
……言っていることは高圧的だけど。
普段ともさっきまでの気弱な雰囲気とも違う、穏やかだけど芯を感じる口調。
なにか吹っ切れたのか、そうでないのかはわからないけれど。
ただ、彼女が。
華子が、華子自身であることを選び取ろうとするのなら。
可波はいつだって支えたいと思うのだ。
(強がってるのに、手が震えちゃってるもんなぁ)
そんな野暮なことはもちろん口に出さない。
視線を合わせようとしない彼女の隣で、そのかわいらしい震えが止まりますようにと願いながら。
いつの間にか愛おしさを感じるようになっていた小さな手に、自身の体温を込めた。
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