僕はバイトを――
可波は膝の上に置いた拳を見つめた。
不幸が重なった可波を拾ってくれた君取や華子には恩がある。
それに今のバイトは楽しくて、好きだ。
(だけど――)
可波は自分の役割を考えてみる。
仕事を辞めると、華子は少しくらい寂しがってくれるかもしれない。
けれど、バイトがひとり居なくなったくらいで生活は変わらないだろうし、すぐに慣れるだろう。
高校が別になった中学の同級生と、卒業式で約束した「絶対に集まろう!」を実行したのは最初の数カ月だけ。
会わなくなって4年以上経つが、今ではお互い連絡も取らない。
(僕たちもそうなるのかな)
寂しい気持ちを抑え込むように、強く拳を握りしめる。
それがスイッチだったかのように。
突如、可波の肩が重みで沈んだ。
可波が驚く前に、耳元でよく通る高い声が発せられる。
「ハッピーを不幸にしているのは、カナミじゃなくて、あんただよ!!」
「ぐあっ!?」
おだやかじゃない怒号と悲鳴。ゴツンという鈍い音。
弾かれるように顔を上げると、目の前で安東があごを上げて後ろにのけぞっていた。
通路には紙ナプキンが散らばり、周りのお客さんの視線が可波に集まっている。
(いや……僕、じゃない?)
肩に置かれている小さめな誰かの手。
その“誰か”を主張するように、黒い毛束が可波の頬をさらりと撫でた。
恐る恐る、頭の上を見上げる。
「うちのバイトに大層な物言いだな、オッサン」
「……華、ちゃん?」
あごをしゃくって安東をにらみつける華子が、可波の椅子の背に膝をかけて身を乗り出している。
「華ちゃんもしかして、僕のことつけてきた?」
振り返れば机の上に、パフェを食べた痕跡が見えた。
朝から緊張していたせいだろうか。ありえないことに、全く気配に気づかなかった。
「あああ、あたしだってカフェくらい行くし。そしたら、
視線を泳がせて弁解するが、こちら隣の駅のなんでもない喫茶店である。
その言い訳は苦しいなと、二人は同時に思った。
「だ、誰だきさま!」
机に落ちたメガネを拾って、安東が怒鳴った。
可波たちの空気が張り詰める。
可波は安東から華子をかばうように立ち上がるが、華子は可波の肩から顔をぴょこんと出して。
「どーもぉ。こいつの今の雇い主でぇーす」
煽る。
得意の煽りが出た。
両者は黙ってにらみ合う。
間に挟まれた可波は、気まずいったらない。
「勝手に解雇しといて、戻って来いだぁ? おいおい、オッサン。虫がいいな」
「解雇は、こいつが妻と浮気をしないか心配だったからだ!!」
「はァン、それ自己紹介ってやつじゃないの?」
「ぐっ!? ななな、なにを根拠に! 無礼だぞ!!」
勘が冴えてしまった華子に対し、安東は顔を真っ赤にして、みっともなく大声でなんとかしようとしていた。
だが、華子は大声くらいではひるまない。
「失礼なのはテメーだろ。カナミが優しいからっておまえのいいように使おうとするな。ふざけんなよ。世の中に必要とされてないって誰が決めた? あたしは必要なんだよ、こいつのことが!!」
「ちょ、華ちゃん、危ないって!」
興奮して身を乗り出す華子を、可波は慌てて押さえる。
「自分が捨てたんだろ! それをなんだよ、言い訳ばっかで自己愛がお強いですこと。こっちはカナミじゃないとダメなの! 絶対に手放さないからな!」
「お客様っ。ほかのお客様のご迷惑になりますので、大きな声はご遠慮くださいっ」
一気にまくしたてたところで、店員が止めにきた。
安東は体裁を気にして、こほんと咳払いをしてから座り直す。
それを見て、可波は押さえていた華子の背中をタップした。
「ありがとう華ちゃん、もういいよ」
「カナミもカナミだよ。こんなヤツどうでもいいじゃん! ヘラヘラしてないで、自分の気持ちをハッキリぶつけなよ!」
華子の言葉が、可波の頬を打った。
――元雇い主だから?
――ハッピーを交渉材料にされていたから?
ぜんぶ関係ない。
それは争いごとを避けるための言い訳にすぎない。
言い返さないのは優しさじゃない。
ただ意気地がないだけだ。
可波は振り返る。
煩わしそうに表情を歪める安東に向かって。
「すみません。ハッピーが気になったので来ましたが、安東さんの家には戻りません。僕は今のバイトが好きなんです。僕がいないとダメなのは深刻な事実で……」
「おいっ!」
華子の声を無視して、可波は苦笑いを浮かべた。
「それに、こうやって僕のためにおせっかい焼くほど、大事にしてもらってるので。……だから、すみません。どうかお引き取りください」
「オッサン、家が大変なのはカナミのせいじゃないよ。こいつを手放したあんたのミス!」
これ以上煽らないでよ……と呆れるが、止めなかった。
不謹慎だが、彼女のおかげで胸がスッキリしたのは事実だったから。
「ふん! こんな下品で気が触れた女と知り合いのやつなど、恐ろしくて雇えるか。もういい。話はなかったことにしてくれ!」
机の上にお札を叩きつけて、安東が立ち上がる。
「おいオッサン! もう、一度受け入れたものをホイホイ手放すなよ! ハッピーだけは幸せにしてやれ。自分の都合で振り回すな。選んだおまえが責任を持てよ! カナミと違って、ハッピーは飼い主を選べないんだからなーっ!」
叫ぶ華子を一度も振り返ることなく、安東は足早にカフェを出て行った。
「……たく、大丈夫かな、ハッピー」
「うん、きっと。ハッピーの心配もしてくれてありがとうね」
安東の家は豪邸で有名だ。
近所でこれだけ注目を浴びれば噂になるだろうし、ハッピーのことも見張られるだろう。
そして可波たちも、すぐに店を追い出された。
至極真っ当である。
◆◇◆◇◆◇
並んで帰り道を歩く。
いつもは喋り続ける華子だが、無言でふてくされていた。
怒っている。だいぶ。
「華ちゃん、ごめんね」
「なにが」
「僕が華ちゃんとこのバイトをやめようとしたの、気づいてるんでしょ」
「えっ、やめるつもりだったの!?」
あ、気づいてなかった。
可波はいよいよわからなくなって首をかしげた。
「じゃあなんで怒ってるの?」
「あいつに腹立ったのもそーだけど! ……あたしだって、カナミにひどいこと言ったから」
不安げに、もごもごと。華子は語尾を消極的にする。
可波は想像していなかった理由に驚いていた。
なにか言われたっけ? と、自覚なしである。
「カナミのこと、不幸を知らない顔って言ったことあるでしょ。ご両親がいないの、知らなくて……」
「あー!」
そういえば、華子がいっぱいいっぱいのときに、そんなことも。今まで忘れていたくらい、全く気にしてなかったのだが。
「ううっ、カナミごめんね……」
華子は泣きそうな顔で許しを
……なんというか、きまりが悪かった。
「えっと、いるよ?」
「……え?」
「二人とも今も四国で元気にペットショップ・ドトーを営んでる」
「は? だって親がいないって、あいつ……」
「うん。必要以上に干渉されるの苦手だから、元バ先では、両親がいないことにしてただけー」
カジュアルに笑っている可波の隣で華子はしばし固まり、その意味を考えた。
全てを理解した瞬間。みるみるフグのようにふくれっ面になり、勢いよく可波を突き飛ばした。
「はああ!? 心配してソンッッしたぁ!!」
ぽかぽかと殴られて、可波は身をよじらせる。
「ごめんごめん! でもっ」
やったことはめちゃくちゃだったけど。
「突然現れて助けてくれて、ヒーローみたいだったよ。ありがとね、華ちゃん」
彼女の干渉は嫌だと思わなかったし、むしろうれしかったから。
殴る手を宙で止めて、あわあわと口を震わせている華子に、可波は穏やかに語りかける。
「もうどこにも行かないから安心して?」
「ひゃわっ!? ち、ちがっ! べつにっ、偶然あんたが絡まれてるのを見たから口出しただけで……! っ思い上がんなあっ! どっか行け、バカ!!」
見事に顔を真っ赤にさせてプイッと先を歩いて行く彼女を、可波はのんびりと追う。
どっかって言われても。
どうせ、帰る道は同じだ。
どこからかキンモクセイの香りが、風に乗って運ばれてきた。
いつかバイトが終わっても、華子とは縁が切れなければいいな。と、可波は思う。
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