今さら「戻ってこい」と言われましても
とある平和な夕方。
いつも通り可波は華子をゆるく監視しつつ、同じリビングで自分の作業をしていた。
彼のかたわらには大量に積まれた紙の束。
それと睨めっこしながら、種類ごとにわけ、ソファの上や床に並べ直していた。
一方、華子は同じソファで執筆をしていた。
可波に背中を向けるかたちで座り、膝の上に乗せたクッションにパソコンを置いて眉を寄せる。
「はああ!? 赤字多すぎなんだけどこの編集っ! だったらAIにでも書かせとけっつの! あーだめだ、心がひとつ死去ぉ……」
「今日も感情が忙しいね〜」
「もうちょっとパワー溜めたら書くから、よろしくぅ」
「はいはい〜」
ろくに後ろを見ずに倒れた華子だが、ぽすんと可波の肩に着地した。
そのときに可波が積んでいた紙の束が目に入ったらしく、何気なく話題にした。
「かなみんはさっきから何してんのー? 紙の束とか相変わらずアナログだなぁ」
「んー。華ちゃんの書いた記事をプリントアウトしてき」
「なにやってんだよ、バカかよおめえええ!!」
華子は跳ね起きると、可波が持っていた紙をひったくってビリビリに破り捨てた。
ソファや床にある紙については、投げたり蹴ったりとバイオレンスに処理。
仕上げに、ぽかんと一部始終を見ていた可波に詰め寄った。
「嫌がらせか!? あ゛? 紙に! 残すな! こんなものをっ!!」
「でも携帯だと見づらくて」
「スマホがないならパソコンで見ればいいだろ! いや見なくていいんだよ!」
「でも華ちゃんと仕事してるんだし、どんなもの書いてるのかは知っておいたほうがいいでしょ?」
「それはっ――! ……せめて、本人の前ではダメっ!」
いまいちピンと来ていない顔をしている可波に、華子は紙の一部を丸め、投げつけた。
どうして仕事の成果物なのに見られるのが嫌なのかと、可波は首をかしげる。
他人の感じ方、考え方、受け取り方――。
それらすべてを共感できれば人間関係は楽になるだろう。
けれど、人と人は相容れないというのが、そもそもの人間の初期設定である。
受け入れるか。
それとも否定するか。
その選択は、相手との関係性やタイミングで変わるもので――。
可波はカーゴパンツのポケットから、震える携帯を取り出した。
「え。あれ。もしもし?」
ディスプレイに出ていた文字は、今では懐かしい、可波の前の雇い主。
『……
気だるそうな男の声に、当時のことがよみがえる。
(この人は、あまり僕のことを好きではなかったような気がする……)
心がざらつく。
解雇から4カ月も経っている今、電話をかけてこられる理由がまるで思い当たらない。
電話の向こうで、男性が小さく咳払いをした。
『単刀直入に言うが、またウチに戻ってきてくれないだろうか』
本当に。
他人の考えることはよくわからないものだ。
◆◇◆◇◆◇
元雇い主の電話から3日後の昼過ぎ。
可波は、指定されたコーヒーショップにいた。
駅前が見下ろせる2階の窓際の席。
数カ月前はほぼ毎日通っていた道を、無感情で眺めていた。
「どうも」
時間より遅れて、グレーのジャケットを着た元雇い主がやってきた。
起業家として成功している彼・安東は、50代半ばだが美容には気を使っている方である。
白髪もこまめに染めているし、目の下のクマとたるみを取る美容整形も受けていると自慢していた。
そして、相変わらずどこか胡散臭かった。
パーマがかかった前髪をかき上げて、安東は可波の向かいの席についた。
それから店員を呼びつけると、メニューのアイスコーヒーを無言で指差した。
店員が離れてから、ようやく可波へと視線を向けた。
「元気だったかい? 改めて、あのときは申し訳なかった。だが、うちにも事情があったことをくんでもらえるとうれしい。それでまた事情が変わって、きみに戻って欲しいと連絡をしたんだが、話を考えてくれたか?」
謝罪そこそこ保身に走る、横柄な態度だった。
しかも仕事中に抜け出して来たのか、何度もスマホで時計を見るという傲慢さも隠そうとしない。
いち大学生に時間を取るのが惜しい。そんな本音が垣間見える。
その姿を見て、可波の心の奥につっかえていた申し訳なさが、スッと消えた。
「ええっと、電話でも言いましたけど、僕、住み込みのバイトを始めたんです」
「それならうちにも部屋は余っている。家がないならこちらに住めばいい」
安東は視線を外に向けると、苦虫を噛み潰したような顔で愚痴り出す。
「きみの後に入った子を妻がクビにして困っているんだよ。家政婦のサービスも使ったが、家事の途中でも時間が来ればすぐに帰ってしまう。それに犬を怖がらない人間となると、なかなか難しくてな」
事情を知っている可波は思わず、「あー」とこぼした。
働いているとき、奥さんが頭を抱えて「夫が愛人の子を雇うかもしれない……」と言っていたけど、おそらくクビにしたのがその子だろう。うまくいくわけがない。
それに時間内で帰るのは労働者の権利だ。
可波が時間外労働をしていたのは大好きなサモエドのハッピーのためであり、それを当然だと思ってもらっても困るのだが。
「ハッピーは元気ですか?」
今日、彼がここに来たのは仕事を受けるためではなく、ハッピーの様子を知りたかったからだった。
安東は運ばれてきたアイスコーヒーを一口飲んだあと、ゆっくりと考えるように答えた。
「……そういえば、きみがやめてから元気がないかもしれないな」
「えっ」
試すような目が可波に向けられる。
「きみがうちに住みこめば、ハッピーも喜ぶだろう。きみも急いで帰る必要がないから、今まで以上に家事を頼めるじゃないか?」
安東が初めて嬉しそうな表情を見せた。
経営者は交渉が大事だというのに、余裕がなかったのか、
「心配しなくていい。急な解雇は申し訳なかったが、きみも若い男じゃないか。妻の不倫を心配した俺の気持ちもわかって欲しい。だが、俺は妻を信じることにしたんだ。もうきみをやめさせるつもりはない」
不倫を可波が知らないと思い、自分に都合のいい話を作り上げる。そのときのドヤ顔は滑稽でしかなかった。
可波は苦笑を漏らさないように微妙な顔で耐え、少しうつむいた。
「僕は大学生なので、安東さんが思っているほど長時間の労働はできませんよ」
「たかが三流大学だろう。掛け持ちできない能力の人間が、社会で通用すると思わない方がいい」
安東はあざけるように鼻で笑う。
「それにきみは親なしだったな。安定した生活が欲しいだろう? ゆくゆく、私の会社に引き上げてもいい」
「それは……」
「なにか勘違いをしていないか」
安東の重く静かな声が、場を支配する。
「経営者から言わせてもらえば、きみには生気を感じられない。そのまま就職活動をして、世の中に必要とされるとは思わないな。そんな人間を、こっちは『雇ってやる』と言っているんだ」
じわりじわりと、可波の弱い部分を絞り上げる。
言い返せずにそのままうつむいていると、安東は「それに……」と挟み、声色を弱々しく変えた。
「ハッピーだってこのままだと保健所行きだぞ。満足に世話ができるものがいないんだからな」
可波は目を見開いた。
その前で、安東のすするアイスコーヒーがみるみる減っていく。
ごとん。と、わずかだけ残してグラスが机に置かれた。
「きみはハッピーを見捨てるつもりか?」
蜘蛛の巣がまとわりつくように、鈍い光を放つ瞳が可波の体をがんじがらめにする。
逃げ出したくても動けない。
捕食者はとうに獲物を捕まえていた。
「黙って
それはとどめを刺す一言だった。
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