僕はもう、ここにいらないね
華子がコンビニに出かけてから数十分後。
自分の部屋で寝転んでいた可波は、彼女が帰ってきた気配に少しだけ頭を持ち上げた。
(ひとまず、街を駆けずり回る心配はなくなったかぁ……)
世間に顔が知られている破天荒な彼女。明るい時間にひとりで外を徘徊しているのも、可波をヒヤヒヤさせていた要因のひとつだった。
無事に戻って来たことにホッと胸を撫で下ろす。
なにもない部屋で、ふたたび天井を眺める。
どこにも出掛けられず、かといってなにもすることもなく、給料も出ないこの時間。
――虚無だった。
時間はさらに過ぎ、日が落ちて電気が必要になるギリギリまでねばりにねばって。
そろそろ食事の用意をしないと。と、可波は薄暗闇の中、体を起こした。
しかし華子の家の玄関を開けてすぐ、胸がざわついた。
玄関が暗い。
それだけでなく、その奥の部屋、リビングまで明かりがついていないのだ。
彼女は帰ってきているはずだったが、もしかしてまた見誤ったのか。
不安を胸に、電気をつけて廊下を進み、リビングの扉を押し開けた。
途端、ツンとした刺激臭が鼻につく。
黙って部屋の電気をつけると、答え合わせのようにフロアライトが状況を照らし出した。
だらしなくよだれを垂らした華子が、ソファでいびきを立てて寝ている。
「……」
ソファに転がるストゼロの空き缶を拾い、机の上にひとつずつ並べていく。昼間と変わらず真っ白なノートが目に映った。
いつもより強めに、華子を揺り起こす。
「んー……」
眠りから覚めた華子が、小さくうなった。
「なにしてんの」
思いがけず語気が強くなってしまう。
けれど、華子はのんびりと目を開けて「にへっ」と笑い、場違いに舌足らずな声を上げた。
「あー、カナミぃ」
「華ちゃん飲んでるね」
「ぜんぜん、ちょっとだけだよぉ」
「ちょっとって、ロング缶3本空いてるじゃん」
「えへへ、カナミが怒ったぁー」
華子はへらへらしたまま、可波が腕を引くのに身体をまかせ、自分の力で起き上がろうともしない。
しかも、ソファでライブ中に寝落ちしていたらしい。
華子が起きたことでコメント欄の動きが加速した。
「信じてたのに……」
可波は力任せにパソコンを閉じると、床に座った。
「……人のこと勝手に信じといて、騙されたみたいに言われる筋合いないんだけど。バッカじゃね?」
ソファに寝ころんだ華子と目が合う。
「ほらよく見て。これがあたしなの。ふはっ。締め切りで潰れるような、心が弱い人間でえーっす。勝手に理想を押し付けないでくださーい」
ケラケラ笑って、人差し指で可波のひたいをつつく。
もうだめだと思った。今度こそ、本気で。
悔しさか、失望か憤りか……。どれもうまくハマらない言語化しづらい感情が、胸の真ん中で燃え上がる。
今までの行動とか、全部、見返りを求めていたわけではないけれど。まさか届いてもいなかったなんて。
それはちょっと、あんまりじゃないだろうか。
「……そっか。僕が華ちゃんのプレッシャーになってたんだね」
可波はつぶやくと、ふらりと立ち上がった。
機械のような動きで、リビングに置いていた私物をリュックに次々に詰め込んでいく。
最後、ポケットの中から華子の家の鍵を出して机に置いた。
そこでようやく華子も可波の異変に気づく。
笑うのをやめて、様子を伺おうとわずかに首を伸ばした。
「ごめんね。もうここには来ないから。君取さんにも僕から伝えとく」
「……ふんっ」
気まずそうに寝返りを打って、華子は可波に背を向けた。
このまま出て行こうとも思ったが、彼女と話すのもきっと最後になるだろう。
ここに来て楽しいこともあったのは事実だから。
可波は大きく深呼吸をして、彼女の背中に向かった。
「この数カ月、いろいろあったけど、楽しかったよ。華ちゃんには物足りなかったり、嫌な思いもさせたと思うけど……僕は感謝してる。今までありがとう」
最後まで背中は動かない。
「邪魔してごめんね。それじゃ」
「……だって、家はどうするの?」
可波がリビングを出ようとしたところで、華子が声を上げた。
振り返ると、華子はそっぽを向いてソファに座っていた。
「満喫とか……友だちの家とかに泊まらせてもらうと思う」
「別に、すぐにバイトやめなくても。ちょっとあたしも強く言い過ぎたっていうか、その……」
「考えたんだけど、華ちゃんの言う通りだと思う」
華子の言葉にかぶせるように、可波は少し声を張った。
怪訝そうな目がゆっくりと向けられる。そして、その大きな瞳がハッと見開かれた。
そのとき可波はうまく笑えずに、中途半端に泣きそうな顔を見せてしまったのだ。
「そもそも僕がいないときから活躍してた人だし、僕がいても意味ないんだよなって」
「ま、待ってよ。そんなこと」
「僕なんていない方がいいって、さっき華ちゃんが言ったじゃん」
「そ、それはぁ……」
目を泳がせる華子に、可波ははっきりと伝える。
「じゃあね、さよなら」
「え! ちょまっ!?」
別れの言葉を置いて、呼び止める声を無視して可波はリビングを出た。
後ろからドタンバタンと音がするのを振り切り、玄関まで一気に歩く。
「待ってよカナミ!? ちがっ」
華子の言葉を遮るようにして、後ろ手で思いっきり玄関を閉める。
ドアを背にし、うつむいたまま呼吸を整えた。
静まり返ったマンションの廊下が、心臓の音を際立たせた。
浸りたくもない感傷が、可波の身体に手を伸ばそうとする。
「…………さてと」
可波はドアから一歩ずれて壁に寄りかかると、ポケットから携帯を出して時計を確認した。
息を殺してしばし待機。
そう待たないうちに、爆発が起きたのかと思うくらい乱暴にドアが
「あたしがんばるから! 行かないでカナ……どわっ!!」
勢いよく飛び出してきた華子に手を伸ばして受け止めて、可波は時間を確認する。
「うん、ハッピーより0.5秒早く飛び出してきた。さすが華ちゃん、いい子だねぇ」
「んが!?」
状況がわかっていない華子は、去ったはずの可波の腕の中で口をぱくぱくとさせている。
「それにがんばるって言ったよね?」
「だってそれは! っ!? ……い、言った……ました」
すべて可波の打った芝居だったと気づいてから、華子の勢いは風船の空気を抜くようにしぼんだ。
すっかり観念すると、華子は小さな声でとても苦しげに、胸中を
「ううー、ごめん。あたし、やること多いとパニックになって、まじで無理なの。つらくて死んじゃいそうなの」
「うんうん、焦るよね。僕にもなにかできる?」
「……松岡修造とかギャルばりに『大丈夫!』『できるよ!』って、無責任に言い続けてほしい。あとたまに褒めてくれたら、それでいい」
「あはは、そんなのお安い御用だよ〜」
元気をなくし、素直に
そんな彼女をあやすように背中をぽんぽん撫でていると、華子の手が可波の背中へと回された。
「うん。でももうちょっと……もうちょっとだけ、このまま。どこにも行かないで」
逃がさないとばかりに、ぎゅっと抱きしめて。
消えそうな声で、可波の胸に顔を埋めてぐりぐりとしている。
ああ、このかわいさって、なんていうか。
本当に、放っておけないんだよなぁ。
「甘えんぼさんだね、華ちゃんは」
「はぁあ!? これには全く意味はないんですけど!?」
なぜか噛み付く勢いでキレられた。
結局、華子はサボらずに努力はしたが、その日中に原稿を提出することはできなかった。
「天才だからやるもん!」と泣いていたけど、可波が独断で無理だと判断し、事務所に電話して状況を説明した。
締め切りを調整をし、禁断の翌8時提出に変更させてもらって、完成するまでは華子に付き添うことに。
きちんと仕上げてくれるなら、別に朝まで付き合うのは全然構わないのだけど。
「カナミ、吸わせて!」
たまに吸っていくのだけは、ちょっとよくわからなかった。
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