まずい自覚ありますか?

「だーれだっ。えへへ」


 講堂で寝ていた可波の背中に、人が抱きついてきた。

 ついでに背中にやわかいものが当たっている。

 というか全体的にやわかいそれは、いつも通りお菓子みたいないいにおいがした。


 普段なら「ちょっとちょっと。嫁入り前の女の子がうんたら〜」なんて説教垂れていたかもしれないが、今日の可波は「お布団みたい……」と癒されていた。


「??」


 ぼんやりしていると、上でもぞもぞされる。


(はっ。なに堪能しとんねん。変態みたいじゃんか)


 やっと、俊敏に理性をはたらかせる場面だったと気づく。

 けれど、そこまで慌てる元気もないのも事実。可波はのんびりと、学校で自分を構ってくれる唯一の女子の名を呼んだ。


「ちーちゃんだ」

「せーかい!」


 背中から重みが抜け、後ろから乗り出した千織に顔をのぞき込まれる。

 キラキラした瞳がまぶしすぎて、思わず目を細めた。


「あれ、可波くん疲れてる?」

「ちょっとだけ。でも平気ー」


 伸びをひとつして、体を起こした。

 千織は猫みたいにしなやかな身のこなしで、可波の隣の長椅子にするりと座った。そして、愛らしく小首をかしげる仕草。


「ねね、このあとひま? みんなで飲みに行こって話になったんだけど、可波くんにも来て欲しいなぁ」


 かわいい。

 そこらのアイドルよりもかわいい千織のお願いに、断る男はいないだろう。


 だけど可波はすぐに返事ができずにいた。

 最近、大学の友人とも遊べていない。付き合いもあるし、たまには顔を出しておきたいところだが……。


「んん……やっぱりごめん。締め切り前だから、抜けられなくて……」

「え? 急ぎの課題なんてあったっけ?」


 まじで今日はやばい。

 再び可波は机に突っ伏す。


 本日締め切りである華子の3万字コラムの進捗が、昨夜の時点で0文字だった件。




 このところ、バイトは順調だった。

 華子の仕事が締め切りに間に合うよう、気持ち作りも加味してスケジューリングし、提出日よりも早めに出せるようにハンドリングして、事務所の君取からも褒められた。


 最近は華子も自ら毎日パソコンに向かうようになっていたため、ようやく自分の仕事に責任を持ってくれたのかと安心し、可波も特に声をかけなかった。

 しかし、それが大誤算だった。


 昨夜、華子に進捗を確かめたら悪びれる様子もなく「うーん、やってないw」と言われたのである。


 言い返そうとして、可波は君取との会話を思い出す。



『ドトーくん、10分後にまだあの状態だったら、パソコンの画面確認してもらえる?』


『のはすせんせー。なんでZOZO洋服見てるんですか?』



(……やってしまった……)


 彼女が画面を見ているからといって、イコール仕事をしているとは繋がらない。これは単純に可波の監督ミスだ。



 と、ここまでが昨夜の話。そこから少しでも進めてくれていたら良かったのだが――。


 祈るように大学から直帰してきた可波を見るなり、「これは本当にあった恐ろしい話なんだけど……」と前置きをして、華子が真剣な顔で語りかけてきた。


「まばたきをしているだけで1時間、2時間が過ぎていて、気づけばもう半日も時間が経っていたんだ……。これは霊の仕業かも」

「いいからSNSの画面を閉じて」

「は? 正気!? 死ぬぞ!? あたしの穏やかな精神が!」


 どうやら、進捗は0のままらしかった。


「でも、書けないのそれ見てるせいだよね?」


 可波的には普段と変わらないやり取りのつもりだったけれど、焦りというものはどこか言葉に小さな棘を生み出すものだ。


 そして冗談めかしてはいるが、華子にもさすがに進捗0はヤバいという自覚はあるらしい。


 いつもより少しピリついてる程度だった空気が、どんどん重みを増していく。


「はあ〜。あんたにあたしのなにがわかるんだよ、えらそーに」


 わざとらしく大きなため息をつくと、華子はソファに背をつけてふんぞり返った。

 まったくやる気がないときは、こうして10時間でもねばる。

 そのパワーを、執筆にあててほしいものだが。


「華ちゃんー」

「最近は毎日書いて、ちゃんと締め切りも守ってるだろぉ。たまにはちょっとくらい遅れたって平気だって。今、まじでやる気出ないのー」

「でも……信頼関係は積み重ねだから。やろうよ?」

「どーせ間に合わないって。無理無理。ほら、プロットも真っ白〜」


 笑いながら華子が机を足蹴にして、かろうじて開いていたノートが床に落ちた。

 可波は無言でノートを拾うと、机の上に戻す。


「……なにその目。あーあ、嫌味ったらしーよね、ほんと!」


 さっきより強く机が蹴られ、戻したノートがまたバサリと落ちた。


「そんなつもりじゃないよ」


 ノートを再び拾う可波の丸い背中に、華子は不満をぶつける。


「書きたいならあんたが書けばー? あたしは今そういう気分じゃないの。バイブス的に無理つってんの!」

「僕にはできないって。華ちゃんががんばらなきゃ」

「だったら黙ってろよ!!」


 叫んでから、華子はしまったという表情を見せた。

 言いすぎたとバツが悪そうに、可波の顔色をチラチラと見ている。


 だけど、可波が落ち込むことはなかった。

 なぜならこれが仕事なのだから。


 可波は時計を一瞥いちべつし、華子へと朴訥ぼくとつな無表情を向ける。


「――あと10時間あるから。プロットと3万文字、終わらせて」


 そう言って、華子の鼻先へとノートを突き出した。


 華子は一瞬、ショックだというような表情を浮かべた。

 けれど、すぐに忌まわしげに奥歯を噛み、目の前のそれを邪険に振り払う。


「そんなの、間に合うわけないじゃん!」

「それでもやらなきゃダメ。そういう契約でお金をもらっているんだから」

「絶対やだ! 人でなし! サイコ野郎っ!!」


 華子はソファのクッションやら空き缶やら、手の届くところにあるものをむやみやたらに可波に投げつけた。

 腕で顔をかばいながらも、可波は言葉を止めない。


「華ちゃんが苦しんでるのもわかってるよ。できることなら僕だって手を貸したい。でも、書くのは華ちゃんにしかできないんだよ」

「うるさい! うるさいうるさいうるさいっ!!」

「僕だって悔しいよ。一緒にいるのに、華ちゃんの嫌がることしか言えないんだから」

「そうだよ、おまえのせいだ! その不幸も苦労も知らないボーッとした顔、見てるだけでむかつくんだけど!?」


 物が飛んで来なくなった。

 可波が腕を下ろすと、ソファの前に立った華子から、殺意に近い憎しみの目が向けられていた。


「ていうか、やろうと思ったときに『やれ』って言われてもやる気出ないんだけど。あんたもお母さんに勉強しろって先に言われたら、やる気出なくなる気持ちわかるでしょ?」


 自分を正当化するための詭弁。

 こうなったときの華子は、作家なだけあって言葉が止まらない。


「それにあたし、基本ダウナーだから。精神を凪からアッパーに持っていかないと書けないの! その準備に時間がかかるんだよね。誰かさんのせいで外にも自由に行けないからSNSで発散してんのに、邪魔されたからまたダウナーなんですけど。ほんと、どーしてくれんの!?」


 都合の悪いことを可波のせいにしたとしても、気分が晴れるのは一瞬だろう。


 けれど刹那的な彼女は、今、この場を乗り切ることしか考えられない。

 何かのせいにしてそれを糾弾きゅうだんすることでしか、焦燥感からのがれる方法を知らなかった。

 

「つか、あんたがいるから書けないわ。人が考えているときに隣にいて、いっつも気が散って邪魔だったんだよね」


 だったら奥の部屋にこもればいいだけのこと。

 華子は自分の矛盾にすぐに気づいて、視線をそらした。

 けれど、それを取り下げることも、「言いすぎた」と自省することもない。


 きっとこれ以上話してもらちが明かないだろう。

 そう思った可波は聞き役を終えた。


「……わかった、部屋に戻る。……あとで進捗聞きに来るから」


 それだけ言って立ち上がると、玄関へ向かった。

 靴を履いてドアを開け、外に出る前に振り返る。


「どうして華ちゃんも着いてくるの?」

「コンビニ。着いてこないでよ」


 二人の視線が強くぶつかる。


「……いいけど。逃げてもすぐに連れ戻すよ」


 中指を立てると、華子は可波の脇の下をくぐって先に玄関を飛び出し、エレベーターへ走って行った。


 その後ろ姿を最後まで見届けて。

 可波はため息をつくと、自分の部屋の玄関を閉めた。

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