この取材、経費で落ちますか?
普通に生きていたら、きっと一生に一度も来ることはなかっただろうと思う。
そんな大人の“喫茶”にて、可波の隣に座ったランジェリー姿のセクシーな女性の前にカクテルが届いた。
「乾杯」
女性がグラスを可波の前へ上品に差し出す。
それを見つめて、しばし
「あら。バーでは、隣の人と乾杯するのは普通のことよ」
くすくすと笑われてしまった。
自分の無知を指摘されたようで、恥ずかしくなる。
中の人たちとは極力関わりたくはなかったが、悪い人ではなさそうだし、乾杯くらいなら……。
差し出されたグラスに、自分のグラスを軽く当てた。
女性はグラスに少し口をつけたあと、カウンターに頬杖をついた。
「きみって、彼女とは長いの?」
「いえ。最近知り合いました」
「そっか、初々しいわね。私は彼とは15年の付き合いでね。ちょっとマンネリしていて、こういうところに顔を出すようになったのよ」
「え。お姉さんおいくつなんですか」
「もお、女性に年齢を聞くのは野暮だよ? ……30代よ、おばさんでしょ?」
信じられずに、思わず二度見する。
肌もきれいだしスタイルもいい。笑顔も可愛らしいし、正直、こんな場所にいるのが不思議なくらいの美人だ。
そう伝えると、女性は照れ笑いを浮かべた。その姿も愛らしい。
「彼女とは恋人関係?」
「あーはい。カップルです」
「自分でカップルって言っちゃうんだ。かわいいわね」
「あー、僕より彼女のほうがかわいいですよ」
かぶせるように可波は答える。
「あら」
「わがままで手がかかるんだけど、どこかほっとけないんですよねぇ」
「うんうん」
可波の話に、女性は優しい眼差しで丁寧に相槌を打った。
ゆったりと色気のある声色が、可波の緊張を少しずつほぐしていく。
しかし彼女が刺激的な格好をしているのは変わりない。油断は禁物である。
うっかり目に入った紺色の下着を頭から追いやり、話を続けた。
「ダメな子に思われがちで損してるけど、ただ、僕らと視点が違うだけだと思うんです。なんでもそつなくこなす器用さも、自由な発想力も、間違いなく彼女の魅力で、一緒にいて飽きないですよ。それに、僕のごはんを美味しそうに食べてくれるのがかわいいです」
「そっかぁ。好きなんだねぇ」
「そですね〜」
「ふふふ、かわいい。私もきみがいいな」
「え?」
カウンターに乗せていた手に女性の手が重なり、空気が変わった。
血管をミミズが這い回るかのような、ゾクゾクとした違和感。
「私の彼も、きみの彼女ちゃんのこと説得してるはず。奥の部屋はこれからでしょ?」
女性の顔が耳元に近づき、吐息がかかる。
手を引き抜こうにも、体が固まって動かない。
――やばい。
頭の中が真っ白になる。
どうして気を抜いたんだろう。ここはおそらくそういう場所なのに。
可波は息すらできず、女性の視線をまっすぐに受け止めていた。
――そんな時。
「彼に気安く触らないでくれる?」
身体が後ろに引かれたかと思うと、同時に女性の手から逃れた。
背後から抱きしめられるような体勢になった可波は、混乱したまま目をぱちぱちとまばたかせる。
「期待させて悪いわね、お姉さん。今日は二人で楽しむ予定なの」
「あら、そうだったの。それは残念ね」
女性は柔らかな表情を変えずにすっと席を立つと、連れの男性と腕を組んで行ってしまった。
――それはもう、さっくりと。
「のは……華ちゃん、ありがとう。怖かったぁ〜!!」
「っ!?」
可波は振り返ると、思いっきりのはすを抱きしめた。
緊張感から解放され、ドーパミン量が半端なく飛び出した反動である。
「あっ、華ちゃんのほうは? 何もされなかった??」
はっと気づいて一度離れ、のはすの顔を覗き込む。
肩を掴まれて真っ赤になったのはすは、唇を一文字に結び、体をこわばらせていた。
「え、え? どうかした? 華ちゃん?」
「ちょ、名前……」
「え、なに? 華ちゃんでしょ? あ、本名がだめだった!? ごめんね華ちゃん!!」
「もぉ、いいっ。……あたしは何もされてないから、大丈夫、だから……」
のはすは可波を押し退けると、そっぽを向いて黙ってしまった。
可波はわけもわからず拒絶されたまま、しばらく彼女の後頭部を見せつけられていた。
エレベーターを降りて外へ転がるように出ると、可波は路地の真ん中でへたり込んだ。
のはすの手前我慢していたけれど、あの空間、人生ダントツでつらかった。
情けないことに足が震えて、しばらく立てそうにない。
「ごめん……なさい」
小さな声に振り返ると、ビルの入り口でのはすがうつむいていた。
様子がおかしい。
のはすは自分を抱くように腕を組み、わずかに震えている。
「嫌な思いさせて、ごめん……。もう、こういうの絶対に同行させないから。本当に、ごめんなさいっ」
のはすの目の端が、小さな宝石を携えているかのように光った。
怒られたり笑われたりするのは覚悟していたけど、まさか泣いて謝られるとは思ってもみなかった。
ポカンと開いた口を閉じ忘れて、可波はのはすから目が離せないでいた。
彼女は震える唇をわずかに開けて。
「だから……っ。バイトやめないで、
街のネオンが目に染みて、のはすもとい華子の輪郭が曖昧にぼやけた。
◆◇◆◇◆◇
『いやー、3939、ドトーくん! 最近、泥酔先生が締め切り守ってくれるから、世の中が震撼してるよ。助かるっす!』
だから、あれはどういうことなのか確認しようと、可波は事務所に電話をしたのだが。
「それで、歌舞伎町の取材なんですけど」
『あー、そうなんだ、おつかれ! もちろん経費は請求してね! じゃあ、これからもよろしくぅ!』
「ちょっと。あ、切れた」
なんだかうまくあしらわれたような気がする。
彼女はいつも、あんな怖い取材に体を張ってるのだろうか。
今まで知らなかったのも、可波が華子の仕事内容を把握していないせいでもある。
もしかしたら、いや、もしかしなくても。華子の監視役をしているのに、何をしているのかを知らないのはまずい。
可波は反省した。
そして、もう二度とこんなことがないように。彼女のことをもっと知ろうと決意した。
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