喫茶店じゃないやんけ!!

 夕飯を歌舞伎町の居酒屋チェーンで済ませて外に出ると、すでに空は暗くなっていた。

 すれ違うサラリーマンたちからも、かすかにアルコールの匂いが漂う。


 昼からストゼロを飲み、居酒屋でもじゃんじゃん安酒を頼み、コンビニを見つけては酒を買う。――そうして、軟体動物みたいにふにゃふにゃに酔っ払ったのはすを半分背負うようにして、可波は土地勘のない街を歩いていた。


 これで帰宅かと思っていたが、彼女がそう簡単に可波を解放するはずはない。


 歩いていると、のはすのスマホが震えた。

 可波も気づき、教えようと足を止める。

 すると、うつむいていたのはすがゆっくりと顔を上げ、可波から離れた。


「……ふっ、時間ね」


 ひとりつと、毅然きぜんと可波を見上げた。


「バイト! そのリュックの中身の服に着替るろろ」


 キメてるのに全然舌が回っていなかった。


「あんたの服も入ってるろら」

「のはすせんせー、もうゲリラライブはやらないって約束したよね」

「ちゃうんす。もっとカブキぽいとこゆくんす。てかあんたあいでー持ってゆ? せーじんしてたよめぇ?」

「……」


 可波はリュックを肩からおろして覗き込んだ。

 レースのワンピースと、前回、可波が路上ライブで着たセットアップが入っている。


 もう絶対に、この時点でいい予感はしてない。



  ◆◇◆◇◆◇



 夜の歌舞伎町で身分証明IDが必要な場所といえば、大人の遊び場的な店だと勘繰ることは容易たやすい。

 しかし成人して間もない可波にとって、そんなとこ恐怖の対象でしかない。


 せめてもの抵抗に……と着替えなかったが、ワンピース姿でトイレから出てきたのはすは、気にせずTシャツのままの可波の手を引いてずんずん進んだ。

 うん、多分、酔っ払って見えてない。

 可波に逃げ場はなかった。


 連れて行かれるのは、最悪ホストかキャバクラだろう。

 だったら、そもそもの主役は泥酔のはすだ。付き添いの自分は黙っていつものようにモブに徹すればいい。

 そうして、可波は心に鎧をまとうことにした。


 傷に塩を擦り込むようだが、可波の最悪な予想を1億倍ほど上回る最悪は、歌舞伎町にはいくらでも存在する。




 のはすのナビゲーションのもと、二人は歌舞伎町の奥へと足を踏み入れた。

 場所がわかりづらく、人通りの少ない通りをしばらくウロウロしていたが、のはすが細長いビルの入り口にネオンの看板を見つけた。指の先に「カップル喫茶」と書いてある。


 隠れ家的な喫茶店なのだろうか。

 とりあえずカフェならと可波は警戒心を解いて、のはすに続いてエレベーターに乗った。


 しかし扉が開いた瞬間、女性のなまめかしい声が耳に飛び込んできた。

 こんな喫茶店、知りません。



 受付の強面こわもての男性に求められて書類を書き、免許証を提出する。免許と可波をじろりと見比べると、男は奥へと引っ込んだ。

 受付が無人になった隙に、二人は顔を寄せ合う。


「ちょっとなにここ。のはすせんせー?」

「バカ! ここで名前を呼ばないでよ、バレるでしょ!?」

「どういうこと?」

「潜入取材っ! 言ったでしょ?」


 そういえば出がけに、取材があるとは言っていた。

 そして、少女たちの聞き取り調査がそれなのだと、可波が勝手に思い込んでいただけで。


「いい? ここではカップルのふりをしておいて。絶対に作家名を出したらダメだから!」


 のはすが可波から離れた。

 同時に受付の男性が戻って来て、ロッカールームへの扉を無言で開ける。


「できるだけあたしの近くにいて」

「りょーかいです……」


 緊張しているのか、のはすも酔いが覚め、目に力が入っていた。



 ロッカールームから出た二人は、びくびくしながらカーテンをくぐった。

 最初に、照明の薄暗い上品なラウンジのフロアが現れた。

 古い外観からは想像できないようなきらびやかなバーには、静かに談笑する大人の男女が何組か座っていた。


 ――ただし全員下着姿である。


「!? ギブギブギブ!」

「声が大きい! もうちょっと頑張ってよ!」

「きっと僕みたいな大学生が来たらダメなとこだよ!」

「ふ、服、着てれば大丈夫だからっ。取って食われたりはしない……はず」

「泣くかも」

「あんたがいないと困るの! お願い、協力して!」


 腰が引けていた可波だが、のはすに無理やりバーチェアに座らせられた。

 そこで気づいたのだが、さっきからかすかに聞こえる女性の嬌声の出どころは、奥の部屋からのようだ。

 絶対にまずい。

 可波は文字通り頭を抱えた。


 後ろを通りすぎるほぼ裸の大人たちが、二人を物珍しそうに見ていく。

 年齢が若いのもそうだが、ここでまともに服を着ている人間は可波たちしかいない。

 服を着ていて不審がられるなんて、原始時代か銭湯かここでしか味わえないのではないだろうか。

 謎の恥辱。


 だけど今さら悔いても、来てしまったものは仕方がない。

 充満する色のにおいに、胃の奥がむかむかする。

 しかしここでトイレに行くと、もっととんでもないことが起こりそうな予感がしたので、可波は我慢することにした。


「きみ、大丈夫? 顔が真っ青だわ。お水もらいましょうか?」


 声をかけられて隣に視線を向けると、きれいな大人の女性が心配そうに可波をのぞきこんでいた。


 彼女も薄着ではあったが、セクシーなワンピース型のランジェリーを着ている。ここではまだ衣類をまとっている方で、裸族らに感覚がバグっていた可波には、それだけでもまともな人だと思えた。


 バーテンが差し出す水を受け取ると、可波はゆっくりと口にした。

 そこで初めて気づく。グラスを持つ手が震えている。


「もしかして、こういうところ初めて?」


 女性が隣に座った。優しげな微笑みを浮かべている。

 質問に勝手に答えてもいいものかと困って隣をチラリと伺うと、のはすは逆隣に座ったダンディな男性と会話を弾ませているところだった。

 40代くらいだろう。清潔感のある、優しそうな紳士だった。

 しかしパンツ1枚パンイチである。

 それに自分の父親とあまり年が変わらないと思うと、再び吐き気が込み上げてきた。


 彼女は一体何を考えているのか。

 露出の多い男と話して、嫌じゃないのだろうか。

 のはすは可波に背を向けているため、表情を読み取ることはできない。


「ああ、彼は私のパートナー。いい人だから心配しないで」


 隣で女性が微笑む。

 付き添いで来ただけで、誰かと会話するなんてまっぴらだった。

 けれど、自分を気遣ってくれた女性を無碍にするのも……。


 どうするべきか決めきれず、可波はあいまいに笑顔を浮かべた。

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