僕はバイトをやめない
「こらぁ、そこなにやってるんだ! やめなさいっ!」
5曲目のイントロが始まったばかりというとき、誰が呼んだのかそれとも通りかかったのか。駅前の交番から出てきた警官が向かって来るのが見えた。
「チッ、これからがいいところだったのにーっ! 行くよバイト、撤収撤収〜!!」
ドレスをひるがえすと、後ろに置いていたリヤカーにマイクをぶち込むのはす。
それにならって可波も機材を一気に詰め込むと、人だかりをかきわけて脱兎のごとく退散した。
このバイト、思っていたより力仕事な件。
数分ほどリヤカーを引いて全力で走り、可波は後ろを振り返った。誰も追って来ていないことを目視する。
絶対に捕まると思っていたが、どうやら途中の信号でまいたらしかった。
力が抜けて、どこかもわからない道の真ん中にしゃがみ込んだ。
息は絶えだえ。身体能力凡凡な自分にしては頑張ったと思う。
「おつかれーい。ど? あたしのお
ひょいっと、荷台からのはすが顔を出した。
スピーカーに肘をついて、可波のつむじを眺めながらけらけらと笑っている。
言い返す余裕もない可波は、ハンドルに腕をかけたまま呼吸を落ち着かせる。
「だから、今のうちに辞めてもいーよ?」
にまにましているが、のはすは目をキラリと光らせた。
彼女は試している。
インフルエンサー事務所でのバイト。
学生なら誰もが憧れる、キラキラした業界。
まだ可波のことを、ミーハーで仕事を受けた人間かもしれないと警戒しているのである。
可波は汗を拭ってマスクを下にずらした。
どうやら彼女に試されている。
呼吸を整えるために、うつむいたまま軽くまぶたを閉じる。
初夏特有のベタつく暑さに奪われた体力が、夕方、少し冷めはじめた風に肌を撫でられることで少し回復してきたように思う。
リヤカー? 路上ライブ? 警察に追いかけられた?
わずか数時間でありえないことが起こりすぎて、まるで、映画のようだった。
思い出して、可波は密かに笑みをこぼした。
「……うん、別に。おもしろいからいいよ」
「あははは! そうでしょそうでしょー! って、はあ!?」
フライングして間違ったのはすが間の抜けた声を上げた。
そして、納得できないとばかりに食いさがる。
「だってバイト、これからもっと恥ずかしいことさせられるかもしれないんだよ?」
「それは、イヤですけど」
今度の答えには満足したらしい。
のはすはうれしそうにリヤカーから飛び降りると、膝立ちでハンドルに寄りかかる可波の前でしゃがみ込んだ。
うつむく可波の顔は見えなかったが、ニヤニヤして両肘をヒザの上に立て、手にあごを乗せ、小首をかしげる。
「でしょぉ? じゃあキミドリに言っとくからさー」
そこまで言ったとき。
ノーモーションで可波は彼女の細い腕をつかんだ。
のはすは目を白黒させ、自分の腕と可波を交互に見比べる。
「……僕、せんせーといると楽しいから」
「ちょ、ちょっとなにっ!?」
「どこにいても目で追ってしまうし、まだ、そばにいたいです」
真剣な目で、のはすに訴えかけた。
元バ先のハッピー(犬)に似ていて、どうしても目が離せない。
ハッピーロスな今の可波にとって、のはすが唯一の癒しである。
……そういう話のつもりだったのだが。
「……は? は? は? はあああっ!?」
ほぼ求愛とも取れる可波の言葉を、のはすはド直球に受け取って固まった。
ぱちぱちと、何度も何度もまばたきさせて、言葉の意味を反芻して考えている。
可波もそんなのはすを見て、さすがに「あれ?」とは思ったが、言葉に他意はないけど嘘もない。
(……ま、いっか)
だから特に訂正もせず、みるみる真っ赤になっていく彼女のことを、まだ落ち着かない呼吸を整えながら眺めた。
◆◇
そのころ可波の大学では、午後の講義を終えた
スマホを見ていた金髪ギャルが、「あっ」と声を上げてテーブルに身を乗り出す。
「ねえねえ、これ隣の駅じゃね? ライバーがゲリラライブしてたらしいよ!」
金髪ギャルはスマホをテーブルに置いて、動画を再生した。
知ってるライバーかな?と、淡い期待を抱いて千織も覗き込む。しかし、映っていたのはフリフリのゴシックな衣装。
すぐに興味を失い……かけて、奥のタンバリンに目が釘付けになった。
「あれ? こっちの人……マスクで顔隠れてるけど、可波くんに似てない?」
「え? 土塔??」
友人二人は渋い顔をして、再び画面を食い入るように見る。
スクショした画像を拡大して、巻き髪ギャルが目を丸くした。
「あ、ほんとだ! でもなんで土塔くんが? あの大人しい人、実はライバーなの?」
「可波くんはそういうんじゃないと思う。……こっちの子は誰?」
「ちょ、千織の目がガチじゃんw えっと、泥酔のはす、だって」
いつもふわふわにこにこしている千織が、無表情のままササッとSNSを立ち上げ、泥酔のはすを即ウォッチリストに入れていた。
時間にして5、6秒。
只事じゃない空気を感じた金髪ギャルは、思わず声を上擦らせる。
「そ、それにしてもよくわかったね千織ぃー。土塔のこと好きすぎっしょ?」
「え? も、もーやだー、やめてよぉ〜」
千織はぱちくりとまばたきをすると、いつも通りふにゃっと体をくねらせて真っ赤な顔を手で隠した。
友人たちは顔を見合わせる。
――さっきのは、見なかったことにしよっか。
――おっけ、把握。
そんなわけで。
SNSでライブ映像が爆散されていただけでなく、人物特定もされて大学でも広まってしまったが、可波がそれを知るのは約17時間後のことである。
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