君取さん、お察しです

 新築の匂いがかすかに残る部屋の隅で、朝日に顔を照らされて土塔どとう可波かなみは目を覚ました。


 むくりと布団から起き上がり、大きく伸びをする。

 彼の部屋はとてもスッキリとしていた。 


 どれくらいスッキリしているかというと、9帖の部屋に家具もなければカーテンすらない。ただ布団が1セット敷かれ、枕元にはゴミ箱とポケットティッシュ、メガネと携帯が置いてあるのみ。

 もはやスッキリと表現するのもおこがましいほどの質素さである。


 機密保持のために他人を呼んではいけないと言われているとはいえ、腐っても高級マンション。

 男子の一人暮らし。

 おしゃれな生活くらい夢見たいよね。

 でも、当の本人が無欲の貧乏学生であれば、これが現実である。


 そんな彼のバイト先は、隣の部屋。

 現実逃避と逃走へきのある作家、泥酔のはす先生を缶詰にし、なんとしてでも締め切りまでに原稿を書いていただくという珍奇な仕事である。


 のはすが午前中に起きるときは主に撮影日で、君取が付き添う。

 基本的には夜型のため、何もない日はいつも昼過ぎに起きてくる。


 だから、彼が大学に行っている間は監視が必要ないわけだが。


 可波は布団から出ると足早に玄関へ向かい、勢いよくドアを開けた。


「おっはようございまーす、のはすせんせー! 進捗どうですかー!?」

「は? なんで!? 怖いんだけど!?」


 同じタイミングで玄関を開けたのはすは、朝とは思えない可波の声量クソデカボイスに目を見開いて固まった。

 目深にかぶった黒いバケットハットの奥の瞳は、ヘンタイを前にしたかのように怯えている。


「ど、どしてあたしが出ていくのがわかったの……。あっ、もしかしてウチに監視カメラとか盗聴器とか仕掛けてるんだな!?」

「ううん。せんせーが出て行きそうな気配がしたから」

「もっと気持ち悪い理由だった!」

「で、どこ行くの? コンビニ? だったら僕も一緒に行こうかなぁー」


 ふわーぁと、可波はぼさぼさの頭をかきながら大きなあくびをする。


「……」


 のはすは無言で家の中へと戻り、玄関を閉めた。

 用事はもうよかったのだろうか。可波はぼんやりしながら頭をかいた。


 まあ、そんな感じで。

 かわいい隣のお姉さんとはうまくやれている可波だった。



  ◆◇◆◇◆◇



「おじゃましまーす」

「ドトー! くん!!」

「あ、君取さんだ。おつっすー」


 大学から帰ってきた足で隣の部屋バイト先に直行すると、のはすのマネージャー君取きみどりが泣きそうな顔で、飛び出す絵本さながら勢いよく玄関から出てきた。


「午前中はなんとか阻止したよ! まだせんせー、いるからね!?」


 あまりにも必死な形相という感じだが、これはのはすに対する彼の通常モード。可波がいなかったころ、君取はいつもこうして神経を張り詰めて監視をしていた。


 それでもまんまと逃げられていたものだから、精神的におかしくなるのも道理だろう。

 完全に相性が悪いだけだが、本人は知るよしもない。


 すでにへとへとな君取先導のもと可波がリビングへ顔を出すと、のはすはのはすで、キッチンカウンターにうつ伏せになって停止していた。

 ピンクのブラウスにグレーのサスペンダースカート。

 衣装を着て君取がいるところから察すると、午前中は外の仕事があったらしい。


「あーしんど。死ぬかも……」


 小さなデスボイスを吐き散らして起き上がると、カウンター上に置いてある「母の命」の小瓶から錠剤を取り出し、口の中に放り込んだ。

 流れるように冷蔵庫からストゼロロング缶のレモンを出して、そのまま一気に喉へと流し込む。


 その瞬間、女子のような悲鳴を上げたのは君取だ。


「ちょっとせんせー! そんなのジャンキーの所作じゃん、やめてぇえ!」

「だって、これがいちばん効くんだもん……」


 不服そうに、のはすはゴツンとカウンターにストゼロ缶を叩きつけた。 

 その様子を君取の後ろで見ていた可波は、首をかしげる。


「あれ、またお酒買ったの? せっかく処分したのに」

「ククク……」


 のはすの肩が小刻みに震えた。


「残念だったなァ、“酒のゲキヤス”が週3で届けてくれるんですー。サブスクの勝利ぃ〜!」


 焦点が合っていない瞳で、のはすは強く勝利の拳を天に突き上げた。


 ちなみに「母の命」は女性のホルモンバランスや自律神経を整える製薬会社の漢方とビタミンの複合薬である。薬自体はもちろん合法かつ安全だが、酒との併用は決して勧められるものではないので、こちらにて注意喚起とする。以上。


「泥酔先生が覚醒したら俺、もう無理なんで……。あとは可波くんに任せる」


 憔悴した君取は、肩越しに可波を振り返った。

 完全に「ヘルプミー」という目だった。他人事だけど、すごく気の毒である。


「んじゃ、ひとまずお昼ごはん作っちゃいますねー」


 可波はリュックを下ろすと、腕まくりしながらのはすのいるキッチンへと勇んで行くのだった。

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