いいから集中してください

 リビングでパソコンを抱えたのはすは、バチバチに不機嫌だった。


 理由は単純明快。


 朝のクソ面倒な収録後、帰ってきて昼食を食べたら、休む間もなくマネージャーにパソコンを押し付けられたからである。


 しかも今日までという急ぎの仕事もないのに、男二人に作業を見張られるイラつく状況。


 普段なら颯爽と君取をまいて外に逃げ出しているパターンだが、そうもいかないというのもストレスが溜まる元だった。


(それもこれも、あいつのせい……)


 のはすは気取られないように、リビングの可波を目の端に捉えた。

 呑気にフローリングワイパーをかけているように見えているが、あれで一切隙がない。


 一方のはすにナメられ切っているマネージャーの君取は、ダイニングテーブルで作業をしていた。


 なぜ彼が午前の収録の付き添いが終わったのに帰らないのかというと、先日の路上ライブをSNSで見た社長から「バイトの仕事ぶりを見てこい」と激おこの指示があったからだ。


 のはすの面倒を見ることがどれだけ大変かを知らない社長は、コスト面でバイト採用をあまり快く思っていなかった。

 それはそれで、のはすに合うと思ってスカウトした君取は責任を感じ、胃を痛めていたのである。


 そんな背景を持つ2名と掃除に魂を捧げた1名が集うリビングにて、10分後。


「あー、うー……」


 まだ席についてそこそこなのに、のはすがうなりはじめた。

 これがストレスアラートである。


 ちなみに、のはすちゃんストレスゲージは10段階中8というところ。

 割と高いが、通常でもだいたい5〜6をうろうろしているのでそんなものである。


 君取はそわそわしながら可波へと何度も視線を送るが、可波は気にも留めず、熱心にベランダのサッシを磨いている。


 緊迫感が漂う中、ついにのはすが立ち上がった。


(ついに動いた! どう出るつもりだ、ドトーくんっ!?)


 君取が喉を鳴らしたのと同時に、のはすが声を上げた。


「あー……おやつ食べよっかなー」

「のはすせんせー、さっきご飯食べたばかりでしょ? お茶はそこにあるからね?」


 マツイ布を巻きつけた棒から目を離さずに、可波がピシャリと切り捨てる。

 秒で黙らされたのはすは、しぶしぶ座り直した。


(ドトーくん!? 認知症おじいちゃんみたいな対応を先生にするなんて、肝座りすぎィ!?)


 君取が膝の上で握りしめた拳は、緊張でしっとりと湿っていた。


 そしてさらに10分後。

 のはすが再びそわそわと始めた。


「あれぇ、なんか汗かいてきたかも。気持ち悪くて集中できないなー。シャワー浴びよーっと」


 これものはすの常套手段じょうとうしゅだんである。


 いくら担当とはいえ、女性の風呂まで男性マネージャーは管理できないため、これにはいつも君取は困らされていた。

 しかものはすは風呂に入ると長く、時間のロスは確定。

 彼女の風呂宣言は実質死刑宣告。

 時間が過ぎるのをただ指を咥えて待つしかない。


「昨日、寝る前に入ってたよね? ひとつでも原稿書いたらいいですよー」

「は? 無理〜。今入りたいの〜。スッキリしないと書けないんですけど〜」


(ドトーくん! 泥酔先生は自分の気分と欲望に忠実なんだ。テコでも意見を変えないぞ!? どうするんだっ!?)


 可波はやっとのはすに目を向け、じろりと上から下まで視線を這わせた。


「どうしてもっていうなら、僕がのはすせんせーの体を拭きます。シャンプーもしたければ準備するけど」


(ひえええ!? そんな堂々とセクハラを!? いや待て、先生の様子がおかしいぞ?)


「!? ……この、人でなしっ」

「僕はハッピーで手慣れてるんで、いつでも声かけてくださいね〜」

「だから、あたしは犬じゃねえんだわ!!」


 顔を真っ赤にしたのはすは素直に諦めて、涙目でパソコンを触り始めた。


(なぜだッ!? 俺が同じことをしたら、事務所に訴えられていたぞ。まさか先生、バイトくんとの距離感がまだわかってないのか? とりあえず、風呂を封じてスゴイよドトーくん!!)


 しかしこれも一時しのぎにすぎない。


 のはすの「書かなきゃいけないけど、今は書きたくない」のストレスはその間にも蓄積されている。

 そしてさらに10分後。

 懲りずに立ち上がったのはすに、可波が声をかけた。


「どこ行くんですか、のはすせんせー」

「……ちょっとコンビニ系」

「なにが欲しいの?」


 掃除を終えた可波は、のはすの前に立ちふさがり、圧を与える。

 のはすの視線が宙を彷徨う。

 

「いや、ちょっと運動したいし。というか、あんたが来てからあんま外行けてなくて運動不足なんだよなー」

「うーん。たしかにあれだけ毎回派手に逃げてたら、全身運動になるねぇ」

「でしょ!? あー、体重くてやる気出ないわー!!」


 悩むそぶりを見せた可波に、のはすはここぞとばかりに押し切ろうとする。


「のはすせんせーの言うことも、もっともだし……」

「ふふん。でしょ? だったら!?」


 目をキラキラと輝かせるのはす。


(ここで泥酔先生を野に放つと、最悪明日まで帰ってこないぞ……。ドトーくんもここまで……か?)


 祈る君取をよそに、可波は小さく何度かうなずいた。

 そしてのはすの肩をぽんっと叩いて。


「じゃあ今日から筋トレしよっか」

「……は?」

「おうちでやるならプランクがいいよって、ちーちゃんが言ってたなぁ。せんせーできる? この辺拭いたばかりだし、ここでやろー」


 そそくさとリビングの一角を開け始める可波に、のはすは青ざめた。


 のはすは運動神経はいい。

 プランクも余裕だろう。


 しかし、怠惰を代名詞に持つかもしれないのはすにとって、筋トレのような泥臭い運動は絶っっっっっっ対に、それこそ原稿よりもやりたくない。


「あれっ! 今ちょっとだけアイディアが降りてきたかも! 原稿に戻ろっと!!」


 シュタッと機敏な動きで、のはすソファに戻った。

 それは今年一番の瞬発値を叩き出していた。


「あれ。運動は? いいの?」

「いやー、運動は夢の中でやってるからさー。あたしには必要なかったわー! わははははは!!」


 集中していますアピールにわざとパソコンのタイプ音を立てて、のはすはパソコンにかじりついた。


 それからまた10分が過ぎた。

 あれから、のはすは真剣にパソコンに向き合っていた。


 様子を見ていた君取が、キッチンにいた可波にこっそりと手招きする。


「ドトーくん。あと10分後にまだあの状態だったら、パソコンの画面確認してもらえる?」

「りょです」


 君取は可波の肩を叩くと、ゆっくりと自分のパソコンへ視線を戻した。

 そして再び神に祈るように指を組むと、目を閉じて天井をあおぐのだった。


 さらに10分後。

 のはすは順調に作業を続けていた。


 可波は言われた通り後ろからパソコン画面を覗き込んで、君取の言いたいことを理解した。

 今日、のはすがどんな原稿を書いているのかは知らないけれど。


「のはすせんせい」

「ひえっ!?」


 背後からの可波の声に、のはすは飛び上がって驚く。

 瞬時に、体全体を使ってパソコンを隠すのだが。


「なんでZOZO洋服見てるんですか?」


 通販サイトのカート画面を開いているところを、ばっちり見られていた。

 可波の声が強くなるのも当然である。


「えと……気分転換?」

「まだ全然書いてないじゃん」

「気分上げるために、ちょっとくらい服買ってもいいじゃんっ」


 衝動買いに幸せホルモンを出す効果があるというのは、どこかのデカい大学の研究でも明らかにされている。


 けれど、君取にこの行動を読まれていたということは、これも常習なのだろう。

 それで、のはすが今度こそ仕事を始めるとは到底思えない。


 ……と、可波の泥酔のはすへの信用度は現在ほぼ0に近かった。


 だけど、可波は彼女を見捨てるつもりもない。

 ちょっと大きめのため息はついちゃったけど。


「な、なによぉ……」


 挙動不審なのはすの目の前で、可波は自分のリュックからノートを出した。


「僕もここで課題やることにする」

「えっ、なんで?」

「誰かが隣で勉強してると、自分もがんばろうかなって捗ったりするから。僕の場合はだけどね?」


 のはすはぽかんと口を開けて、可波の支度を見つめた。


 誰かと一緒に勉強も仕事もしたことがない彼女にとって、それは未知の経験で。

 うっかり、ちょっと魅力的だと感じてしまった。


「ま、そっちで掃除されてるよりも、集中できる……かもね」


 大人しくなると、のはすは黙ってパソコンを膝の上に置き直した。


「一緒にがんばろ〜」

「うっさ」


 それからは静かな時が流れた。


(――もう、大丈夫か)


 のはすは取り掛かるまでは遅いが、始めると作業は早い。

 それは、君取も可波もよく知っている。


 部屋にはパソコンのタイプ音とシャーペンがノートを引っかく音が、心地よく響く。


 そんな二人を、君取はダイニングから眺めながら。


(良かった! 俺も人を見る目があんじゃん。俺、サイコー!!)


 自分に感動して、ひと筋の涙を落としたのだった。

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