バイト、受けよっかな
少女の仕事場だというマンションは、公園から徒歩数分の距離だった。
「先生の部屋の隣は、ウチで借りてる空き部屋なんすよ。ライフラインをつなげればすぐ住めるんで」
マンションのオートロックを開けて、迷路のようなエントランスをさくさくと歩きながら、マネージャーが跳ねるような声の調子で説明する。
「ちょい待って! うるさいのが嫌だから隣に人を入れないように借りてるんでしょ? なんでこいつを住ませようとしてんの!?」
前を歩くマネージャーに飛びつこうとして、少女は盛大に
その失態に、少女は赤面して振り返る。
抗議の対象は、後ろで少女のハーネスをつかんでいる可波だ。
「ねえちょっと、なんであたし
そもそもハーネスとは馬や犬の胴輪のことだが、もちろん少女はトップスをクールに引き締めるために身につけている。
それを緊縛アイテムみたいに扱われているものだから、少女が屈辱を覚えるのも道理である。
文句を言われた可波は、にこりとする。
だが、腹の中はこうだ。
(あーあ、面倒だなぁ……)
問答無用で少女の肩に手を乗せると、よいしょっと声を出す。
「え、え、え?」
突然お姫さま抱っこをされた少女は、目を白黒とさせる。
「ハッピーも……あ、例のサモエドくんなんだけど。こうやって運ぶから」
「だから、誰が犬だぁ!? お、おろせーっ!」
「落ちるから静かにね」
「……チッ」
騒いでも目立つだけで無駄だと悟ったらしく、少女は舌打ちをして黙り込んだ。
はい、目論見通り。
マネージャーがこっそりと肩を震わせていた。
少女が開放されたのは玄関を入ってからだった。
「ささ、どうぞお入りください。ほらせんせーは執筆執筆!」
「ちくしょー!! 卍卍卍卍卍卍卍卍卍」
マネージャーに向かって呪詛を唱えると、少女は足を踏み鳴らして奥の部屋へ消えた。
案内された玄関は、つるつるとした真っ白な大理石のタイルが敷き詰められていた。
端にあの子のものと思わしき黒の厚底シューズが、何足も並んでいる。
初めておじゃまする女の子の家には、少なからずともドキドキすると思っていたが、実際にはときめきを感じる余白なく。
「えっ、ストゼロ……缶?」
「わっ! ごめんね、片付けが間に合わなくて。ちゃちゃっとよけちゃってください」
陽キャの男性が心底すまなさそうに頭を下げるほど、足元にはおびただしい量のストロングゼロロングの空き缶が転がっている。
アルコール臭漂う缶を足でよけつつ、男たちは無言で靴を脱いだ。
廊下を抜けると、広いキッチンとおしゃれなリビングが出迎えてくれた。
とてもいい部屋だった……大量のストゼロ缶が転がっていなければ。
人間の煩悩をZIP圧縮したような空間は、わりと
「じゃあその辺にどうぞー」
男性に促されるまま、空き缶を手でざらっと避けて可波はソファに座った。
その向かいの床にマネージャーが正座する。
「改めまして、僕はウェイウェイコミュニケーションでクリエイターの統括マネージャーをしております、
「あー、僕は、
「ではドトーくん、お願いしたいバイトの内容だけど、うちのトップクリエイターで作家の
すごい勢いで土下座をされて、可波は面食らった。
そもそも見張り役なんてバイト、聞いたことがない。
「本人を見たらわかると思うけど、超気分屋なんすよ。いつも締め切り前に逃走して、その度に俺が捕獲に走るんです。でもえげつない逃げ足で全然捕まんなくてぇ。結局、せんせーが帰りたくなったときに家に帰ってくるんだけど、もーマジ無理! こんなんマネージャー業務の
弁に熱が入っている様子から、よほど辛い思いをしてきたのだろう。君取は可波に這い寄り、さらに訴えた。
「それでドトーくんの見事な先生さばきだ! 俺の代わりに見張って? 部屋は隣を貸すから、光熱費分のみ負担してもらえれば。もちろん学業優先で、空いた時間で! ね、お願いできない?」
先生さばき??
気になるところがなくもなかったが、話だけ聞くと好条件だ。
少女を見張っていればいいだけみたいだし。それに、職場が隣なんて楽すぎる。
というか今は家なしの身。可波に断る理由はなかった。
「いいですよ〜」
「本当ですか? ヤッター!!」
「ちょっと待ったぁー!!」
ちょっと待ったが入って、奥の部屋の扉が勢いよく開かれた。
顔を出した少女・泥酔のはすは怒りで息を切らせて、男同士の交渉現場をにらみつける。
「軽いわおまえら! おいキミドリ! あたしごときに見張りを専属でつけるなんておかしくね!?」
「あたしごとき、ではないんだってばせんせー。うちのトップクリエイターなの自覚して!?」
どうやらあれでも会社の稼ぎ頭らしい。めちゃくちゃ意外だった。
めちゃくちゃ意外だという顔をしていた可波の前に、のはすがズカズカと歩いてきて立ち止まった。
腕を組んでズイッと顔を近づけたかと思うと、目を見開き舌を出して。
「どぉもぉお〜? トヲヨコキッズでぇ〜っす」
言ってる意味はわからなかったが、どうやら煽られているっぽいことを瞬時に理解する。ちなみに全然怖くはない。
「はい、こちら泥酔のはす先生こと、
「てめえ、いま本名と年齢を言う必要あった!?」
テンポよくブチ切れたのはすは、
小さな体の女性が正座する大きなスーツの男性を叱りつける姿は、アンバランスでコメディのよう。
可波はこれからお世話になる少女……というか、意外とお姉さんだった彼女に向かって頭を下げる。
「じゃあ、これからよろしくお願いします……華ちゃん?」
「おめえは距離感バグってんな!? なんで本名だよ!」
振り向き様、あどけない顔に勢いよく怒られた。やっぱり全然怖くない。
「じゃあ、“のはすせんせー”? のはすせんせーは、なんで逃げるんですか?」
可波の素朴な質問にぴくりと肩を上げ、のはすは姿勢を正した。
それから腰に手を当てると、肩越しに流し目を送って、殊勝に微笑んで見せる。
「そこに締め切りがあるからよ」
すごくカッコつけている。
……で、聞いた本人はピンと来ずにホゲーッとしている。
二人は心を通わせたかのように(幻想だが)静かに対峙していた。
傍観していた君取が「大丈夫かな、このコンビ……」と、やつれた顔でつぶやいたとき、のはすの目が光った。
「んじゃ、あーしはこれでッ!」
君取の一瞬の隙をついて、のはすはリビングから華麗に逃亡を図った。
それは、彼女にとってはいつも通りの行動だった。
だけど結果はまるで異なった。
「どっわぁあっ!?」
派手にスッ転んだかと思うと、のはすはフローリングに頭からスライディングをかます。
その脇で、可波が彼女の足元に敷いていたマットを持ち上げていた。
ぼんやりしているように見えて意外にえげつない可波の行動に、君取はちょっと引いた。引きながら安心もした。
「あ、大丈夫そうっすね」
「えーん、もうやだぁ〜。ストゼロ飲むう〜」
静かにつぶやく君取と対照的に、鼻を擦りむきガチ泣き。
その後、のはすからストゼロも取り上げて「鬼!」とまたビービー泣かれた可波だったが、かわりにハウスキーパー時代に奮った腕で夕飯を作れば一転、作った側が感謝したいほど気持ち良くガツガツと平らげてくれた。
さらに食後、満足したのはすは大人しく仕事部屋へと戻って行った。その様子に君取が涙を流して感謝をしたところで、にぎやかな一日は幕を閉じる。
バイトをクビになって家も燃えて、わりとびっくりしたけれど。同時に感じていたわくわくの予感は当たっていた。
きっと全部。泥酔のはすと出会うための布石だったんだ、と可波は思う。
マネージャーはのはすのことを厄介そうに言っていたけれど、可波はちっともそう感じていなかった。
それは、食事の後片付けをしながら、鼻歌を口ずさんでいる後ろ姿からもよくわかるように。
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