赤鎖の少女

叫声きょうせい一つに誘われてみれば、中々に良きじゃれ合いを見せてもろうたわ」


 甘い声の主はこつこつと、地面を叩いて遊ぶかのような足音で近づいてくる。

 爺さんじゃない、ルアリナじゃない、ラーナじゃない。

 知らない声、知らない音。そもそもこんな甘い声、一度聞けば忘れるなどありはしないはず。

 急いで姿を確認しようと試みるが、体は情けなくもぞもぞと這うだけ。

 ……駄目だ、顔一つまともに動かせない。こんな様じゃ状況すら把握できないぞ。


「……ん? ほれ、起きよ」


 パチンと、乾いた音が辺りに響く。

 いったい何を。いきなり鳴り響いた音に疑問を抱き、思わず首を傾げてしまう。……あれ?


「相も変わらず、人とは斯様にやわい生き物よのう。創壊*****の奴も、どうしてこう加減ができなんだか」


 首が動く。体が軽い。あり得ない、さっきまでの痛みをまるで感じない。

 それに痛みだけじゃない。死闘の後とは思えないくらい体が軽く、微塵の疲労も残っていないのだ。

 まるで煙のように消え去った負傷。体はおろか、破れたはずの服まで元通り。

 ……どうなってやがる。高位の回復魔術ヒーリルだってこんな一瞬で、それも服ごと元に戻すことは出来ないはずだろうに。


「さて……これで良いか? ふけるをやめ、こちらに目を向けよ」

 

 あまりに急激な変化へ戸惑いを隠せずいると、脳をふやけさせる甘い声が俺を呼ぶ。

 そうだ声の主。いきなり現れた、この声の正体を確認しなくては。

 引き寄せられるかのように首が曲がり、そして思考と言葉の全てを失ってしまう。


 そこにいるのは不敵な笑みを浮かべる子供……否、そう見えるだけの何か。

 背丈はラーナと同じくらい。右手がなく、それ以外の手足に赤黒い鎖が巻き付いているのが特徴的な赤髪の幼女。

 

 だが、そんな特徴すら大した問題ではない。逆に目に付くのはそれ以外の全て。

 そこにいると認識できるのに、そこに人がいると信じられないヒトガタが嗤っているのだ。

 

 見ているだけで脳が溶けそうになる。

 たった一言の残滓が耳に残り続ける。

 それでも本能が、この身の全てが背けるのを拒否してくる。

 

 まさに魔性。直視してはならないとわかるのに、既にこの目は彼女から離されるのを拒絶している。

 恐怖と嫌悪。理性の鎖。本能を縛り、己を律する理性の鎖。

 そのどれもが意味を為さない。内には確かにあるはずなのに、それを脅威と認識しない。

 人である限り、意志ある獣である限り抗えぬ欲と自我。その根源的な欲求が己を蝕み、彼女の情報のみを欲して止まなかった。


「……な、な」

「ん? どうした? そこには何もないぞ?」


 今にも抱きしめたくなる微笑みを向けられて、ようやく自らが剣を抜こうとしたのを自覚する。

 それは恐らく、最後に残った人としての一欠片の挟持。抗うことなく呑み込まれるのをごめんとした、人でなしの最後の抵抗か。

 けれど剣は手元になく、ついさっきまで倒れていた場所に転がっているのを思い出す。

 つまりどうしようもない。この場で俺に出来ることなど、最早なにもない。

 つい先ほどまでの死闘が馬鹿みたいだと。

 そう思えるほど、目の前にいる何かは常識の外の存在だと魂で理解してしまった。


「んー、やはり脆弱。斯様に心が脆ければ、讃辞の一つも贈れもせぬ。……仕方ないのう」


 死ぬ、死んだ、死んでしまおう。生を放棄し溢れる欲に埋もれてしまおう、そう考えた矢先

 目の前の少女なにかは、まるで今までそこにいたとまで目前に近づき、その小さく可愛らしい手が俺の頭を貫いた。


「──あっ、あっ」

い。調整する故、しばし待つがいいぞ」


 ぐちゃりぐちゃり、その愛らしい手に頭の内がかき混ぜられる。

 何故か痛みはない。体に湧くのはこの上なく甘美な快感、いかなる娯楽をかき集めようと届くことのない未知の暴力。

 まずい戻れなくなる。こんなものを、こんな快楽を知ってしまったら、今後俺はまともに生きることすら出来なくなる。


 何とか体を動かし腕を引き抜こうするが、体は快感に蕩けるのみ。

 思考は出来る。けれど、どれだけ願っても体はぴくりとも言うことを聞かない。

 まるで薬を入れられた実験用の白鼠シラッタのように。目の前の存在にいいように弄られるだけの時間に、せめて正気だけでも保てるように祈り続ける。

 ああ駄目、気持ちいい気持ちいい気持ちいい気持ちいいやめろ気持ちいい気持ちいい──。


「……む? 成程のう」


 何もかもが塗りつぶされる直前、艶めかしく動く指は止まり、勢いよく引き抜かれる。

 すぐに後ろへ飛び退き、惚けた頭を振りながら、貫かれた部分がどうなっているかを確認する。

 穴はどこにもない。先ほどまで至高の悦に浸っていたはずなのに、今はその名残すら思い出すことが出来ない。

 どうなってやがる。激動すぎる状況の変化に欠片も理解が追いつけない。


「これでましにはなったじゃろう。どうじゃ? こちらを見てみい?」


 手で顔を押さえながら戸惑う俺。そんな様へ投げられる、気安く甘い誘惑の音。

 怖い。声の方向へ顔を向けるのが、どうしようもなく恐ろしい。

 先ほどと違い、言葉だけでは脳はふらつかない。けれど見たらどうなってしまうのか。また狂ってしまうのか。

 ……駄目だ、見なければ。この場に俺の選択権はない。相手の機嫌を損ねればどうなるかわからない。

 ごくりと唾と共に恐怖を飲み込み、ゆっくりと少女の方に目を向けていく。

 変わらずそこにいる少女の形をした何か。けれど幸いなことに、今はもう目に映しただけで形容しがたい狂気に冒されることはなかった。


「うむうむ、据わっておるのう。流石はわし。微細な玩具の手入れもお手のものよな」


 少女は快活な笑みで頷きながら、地面に転がる闘争熊バトルベアンドの亡骸を近寄る。

 俺が殺した闘争熊バトルベアンドとは別。黒というより紺に近い体毛に覆われた、雄より一回り小柄な個体だ。

 

 手足がもぎ取られ、人によっては見ているだけで吐き気を催すであろう無惨な亡骸。

 俺が切った個体やつより一回り小さいとはいえ、ここまで惨殺されるのは普通じゃまずあり得ないことだ。

 確かに咆哮は聞こえた。けれどこいつが苦痛に叫ぶ声は聞こえなかった。俺が倒れてから少女が現れるまで、恐らく十秒もなかったはずだ。

 

 ……あり得ない。どんな手品を使えば、この強靱な獣を音もなく惨殺出来るというのか。

 そこまで思考が至ってようやく、体は冷や汗ひやあせで溢れているのを認識する。

 どうしてこんな化け物が愛しく思えたのか。脅威を正しく理解している今もなお、砂粒ほどの敵意と警戒を抱こうと出来ないのか。

 恐ろしい。ただ目の前の存在が、自分とは違う生き物が。どうしようもなく恐ろしくてたまらない。


「……な、何者なんだよお前」

「恐れながらも呼び名なぞ問いてくるか。真名まなすら知らぬ癖して呼称なぞに意味を求める。まったく……個体や時代は違えど、人は求めるものを変えぬ生き物よなぁ?」


 少女は呆れたようにため息を吐きながら、闘争熊バトルベアンドの飛び散った手をその華奢な腕で持ち上げ、軽く空を横切らせる。

 たったそれだけで、大熊の手は小さな球へと変貌してしまい、少女はその球を躊躇いなく口へ放り込む。

 ぐちゃぐちゃがりがり。

 身の毛もよだつ不快音を立たせながら、こちらの恐怖など意に介すことなく食事を続ける幼女。……いやどういうこと?


「……んぐっ、さてどう名乗ろうかのう。どうせ***は聞き取れぬだろうし、かといって適当に嘯くのも興が乗らぬしなぁ」


 幼女は人の喉から出せるとは雑音ノイズが混じらせながら、何やら一人で納得する。

 到底言語とは思えず、恐らくどの種族も認識できないであろう歪んだ音の羅列。

 駄目だ考えるな。何か一つでも深入りすれば取り返しが付かなくなる、そんな気がする。

 

 とりあえず、今はこいつの出方を伺うしかない。

 どんな抵抗をしようと今は無駄。彼女が去らぬ限り、どうせ全ては掌の上なのだろうから。


「……よし、今日からこの身はホワイルじゃ。そこの坊、我をホワイルと呼ぶが良いぞ」


 ホワイル。……聞いたことのない単語だ。

 もしも意味があるのなら、灰秘の国グレーデッドではないどこかの単語。

 あからさまな偽名だが、わざわざ深掘りする意味はない。彼女がそれでいいというのならば、ここは言うとおりに呼んでおくのが得策だ。


「……ホワイル、さん」

「うむ、やはり名はそれっぽくせねばのぅ。ああそれと、別に我を敬う必要はないぞ。どうせ放浪用の分け身でしかないが故、信仰などかえって邪魔じゃ」

「……わかった。ホワイル」

「うむ。善哉よきかな


 躊躇いながら呼び捨てにすると、ホワイルは満足そうに頷いてくる。


「さてなんじゃったかのう。……そうじゃそうじゃ思い出した。先の見世物みせものについてだったな」

「……見世物?」

然り然りしかりしかり玉座***の変調を予感してのう? 他の奴らが動かんから仕方なしに顕界して、その時まで漂っておったところにい音が聞こえてたのじゃよ」


 雑音ノイズ混じりに話す赤髪の少女ホワイルは、今度は歩いてこちらへ近づいてくる。

 目前まで接近した彼女へ身構えると、彼女の汚れなき白指が胸元を艶めかしく擽りなぞってくる。

 まるで白雪が肌に積るよう。不快感など微塵もなく、ひんやりと体を包むようで気持ちいい。


わし以外の客もおったが、不敬故潰しておいたので安心するがいい。ま、千年程度起きたままねむるだけじゃし、我の気を損ねたにしては寛大な対応じゃ」

「……はあ」

「それにしてもまさか手つきとは。……惜しいのう。せっかくわしの最後の欠片にしてやろうと思うたのじゃがなぁ」


 一際甘い声色で物欲しそうに指を這わせていく赤髪の少女ホワイル

 ……手つきって何のことだ。この身は未だ、ころしおんなも皆無な潔白なんだが。


「惜しいのぅ。これほどの逸材を輪廻*****めはどこで見つけたのか。本気でってやってもいいが、それはそれで面倒いしのぅ。……まあちょいと痕付けたし、今はこれでい充分じゃろう!」


 欠片もこちらに伝わらない独り言に、俺はどういう反応を取ればいいのだろうか。

 どうしようかと悩んでいると、赤髪の少女ホワイルは納得したように頷き、体に付いていた指をゆっくりと離していく。

 

「ではのう。次に会うときは更に愛らしく、思わず手を伸ばしてしまうくらいの晴れ姿を期待しておるぞ」


 どういう意味だと聞こうとしたとき、赤髪の少女ホワイルは両手を合わせて音を鳴らす。

 その音を耳が捉えたとき、もう彼女の姿はどこにもなく。

 あたかもこの場に存在しなかったかのように、引き裂かれた闘争熊バトルベアンド以外に彼女がいたという名残すらなかった。

 

 結局わかったのは彼女の名と常識すら及ばぬ埒外な力の存在だけ。

 それ以外は何も理解出来ず。その場に実在したのかすら曖昧になるほど、その痕跡は消え失せてしまっていた。

 ……いや、正確には一つだけ。一つだけは残っている。

 地面に転がる闘争熊バトルベアンドの一匹。惨たらしくばらばらにされ、腕の一本がどこにも転がらぬこの死体。

 この死体こそ彼女が夢や妄想ではないとわかる確実な証拠。聖騎士ブリュンドなど比較にもならない、真性の怪物がこの場にいたという証明に他ならない。


「……頭が」


 必死に思考を整えようとした瞬間、一気に体から力が抜けてしまう。

 まるで動力の切れた魔力人形オードドール。そんなどうでもいい例えが脳を過ぎりながら、意識と共に視界が閉じていく。


 結局、次に目覚めたのはこの一週間後。父が帰宅したらしい三日後のことだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る