闘争熊
次の日から、俺は爺さんとは逆側の村端で監視をすることにした。
対象の獣はぐるぐると、村の様子を窺うかのように移動を繰り返している。だから爺さんの側にいなくとも、監視と戦闘の準備を両立出来るというわけだ。
一度でも爺さんに戦おうとする素振りがバレてしまえば、きっと俺に自由はない。
父さんが帰ってくるまでの間、爺さんが側を離れることはせず、何も為せないまま
もちろん制止を振り切っても構わないが、それでは後日父と母にいらぬ情報が渡ってしまうことになる。そうなれば、今が良くても
爺さんが来れば、そこには
そんな状況を作るのが理想の展開。死闘をしつつ、誰にも悟られずが最も望ましい。
「……見つけた」
そんな求めていた
野原に漂う黒点……いや、以前よりもはっきりとした獣の輪郭。そこにいるのはこの辺りの獣とは異なる、何かに飢えた肉食の強獣。
あれぞまさしく
その昔、まだ純真な冒険者であれた頃に挑んだ魔獣。懐かしき過去の
「
剣を抜き、体が獲物を目指したのは獣の姿を視認すると同時だった。
二つの過程で編まれた魔術に鞭打たれるよう、一気に加速し獲物へ殺意を向ける。
狙うは首。ほとんどの生物が持つ共通の急所。
不意打ち上等。決めるつもりでいけ。そうでなければあの怪物には意味がない。
止まることなく、
硬化魔術の施された剣は、寸分の狂いもなく
──だがしかし、その一刀は届かない。
完璧に気配を殺し、認識の外からの一撃だったはず。
だというのに、首を守るように置かれた太い腕が壁のように阻んでしまったのだから。
……やはり強敵。この程度じゃ挨拶にもならないか。
勢いを殺しながら着地し、改めてその怪物と正面から向き合う。
父よりの倍近く、それ以上の太さを有する体躯。曲がりなりにも冒険者をやっていた頃ですら、こんなにも大きな獣と向かい合うことはそうなかった。
まるで山に口がついたような圧。あの頃よりも縮んだせいか、随分と目の前の存在が大きく感じてしまう。
こちらを射貫く
その目は未だ探るよう。目の前に立つ子供が敵なのか、それとも取るに足らない雑兵なのかを。
一瞬たりとも気を抜くな。この興味が殺意に変わったとき、それが開戦の合図だ。
緊張が肌をひりつかせる。剣を握る手に力が入る。
久しくなかった命の取り合い。勘が戻ってきたと思っていたのは間違いだったと痛感する。
やはりというべきか、殺しの訛りは殺し合いでしか拭えないらしい。
ガキや親では得られない、這い蹲るべき血みどろの地べたこそ俺の居場所には相応しい。
──よお
『グオオオォ!!!』
刹那、轟く咆哮。大気を振るわす獣の雄叫びこそ、敵と見定めた者への返答。
戦いに飢える黒獣は今、目の前の小さな生き物に牙を剥く相手と定めた。
──しかし先に動いたのは、獣ではなく人であった。
怪物の視界から外れるように速度を上げ、四つ足で構える怪物の隙を探り続ける。
目、鼻、首、心臓。
どれでも良い。どこだって構わない。
付くべき点を刃が通れば生き物は傷つく。そんなことは、幾度となく実証済みだ。
どしりと構えて動かぬ獣を前に、絶えず思考しながら背後を取る。
先の一撃が防がれるのなら、小手先の剣が通じる道理などない。
それでも余裕綽々と君臨している今こそが、奴が自ら作る最後の隙。故に動き、攻め続けることこそが最大の打開策。
「──なっ」
そう思っていた。そのはずだった。
魔力を乗せた背後からの剣。先ほどよりも堅く鋭い一撃は、確かに皮膚を裂くはずだった。
だが、手に伝わる実感はそれとかけ離れたもの。
肉にめり込むような生々しさではなく。壁を叩き、向けた力ごと弾かれるような歪む感覚。
──防がれた。何かをするのでもない。元々持っている頑強さに、俺の魔力は阻まれた。
剣を弾き、もう一方の黒腕にて振るわれる反撃。
腕に残る痺れを強化で強引に塗りつぶし、回避を試みるが間に合わない。
大熊の掌底は腹を直撃し、突き抜ける衝撃が体内を圧迫しながら体を空へと吹き飛ばす。
「ガはッ、ごほッ!!」
地面を削るように滑らされ、それでも勢いのまま体を起き上がらせる。
剣を持たぬ片腕が力なく垂れる。拳を握ろうとするが思うようにいかない。
……危なかった。強化がなければ、昔程度の魔力であれば死んでいた。
目の前で悠然と君臨する生物に改めて舌を巻く。
舐めていたわけではない。それでも驕りはあったのは確か。
傷の一つは負わせられると。
怪物の黒瞳は、ただこちらへ問いかけてくる。
もう終わりかと。これ以上、俺を愉しめる手は残っていないのかと。
自らの強さに欠片も疑いを持たぬ、絶対の自信を持つ強者の態度。あれぞまさに俺がずっと欲しかった力の象徴。
──上等。こっちも出し惜しみはなしだ。
これは狩りではなく戦闘。互いに茶番は終わりにして、決着といこうぜ
黒き巨獣は咆哮を上げ、四足で地を踏みこちらへ向かってくる。
大きく息を吐き、内で巡る魔力を一気に加速させる。
時間はない。悩む暇はない。黒熊は目前まで接近している。
当たれば即死。今の様では、僅かに掠ろうと致命傷は避けられない。
明確な死の予感に心を震わせながら、身を捩って回避する。──それだけしか、生存の道は残されていないのだから。
「ぐっ!!」
頬を、服を、手の甲を少しずつ掠する爪の先端。
たったそれだけで肉は削がれる。直撃は避けられたのに、体も心も更に悲鳴を上げる。
その怯みを、
振り抜かれる丸太のように太い腕は、またもや俺の体を容易く吹き飛ばす。
……嗚呼痛い。痛くて痛くて、嫌になるほどむかついて仕方がない。
だが立てる。魔力の量のせいか、さっきよりも、体は動く。
負けたくないと。目の前の強敵に勝ちたいと、こんなにも乞うたのはいつ以来だろうか。
全身が軋み、少しでも力を抜けば今にも崩れてしまいそう。
血反吐を吐き、意識が飛んでいきそうになるのを堪えながら、集中力を高めていく。
今からやるのは大博打。成功しなければ、大熊の手を借りずとも俺は死ぬだろう。
だが試すならば今。限界を超えるのなら、この瞬間しか好機はない。
「
術印なんて描いていない。ならば心で創り、詠唱だけで安定させるだけ。
出来ないのなら今極めろ。ない
「うアああッッ!!!」
実に醜く理性を持たない、獣と大差ないであろう叫び。
構わない。どうだっていい。吠えて少しでもましになるなら、いくらでもやってやるさ。
編まれた強化が体内を荒れ狂う。先ほどまでとは次元の違う、暴力的な力の波が己を蝕む。
勝負は一瞬。この一刀で殺さねば負け。つまりは死。
交差する
──届いたのは銀閃の方。獣ではなく、小さな男の放った揺らぎのない太刀筋。
断末魔を吠える間もなく、胴体からずり落ちる獣の首。
「──ッッ!!!」
解除した瞬間、ようやく今までの痛みが追いついたのか、激痛が全身を圧迫する。
まるで全身の骨が砕けたかのよう。……これが中位魔術、それも二重行使の代償か。
歯を食いしばって動こうとするが無意味。体は激痛に悶えるのみで、碌に言うことを聞きやしない。
それでも、しばらくすれば多少はましになるはずだと。
久しぶりの勝利と中位魔術の手応えに浸りながら回復を待とうとした。
『グルルルゥ』
その時だった。
獣の鈍い唸り。俺の命を脅かす死神が近づく音を、確かに耳が捉えてしまったのは。
確かにあいつは殺したはず。死体を見る力は残らずとも、首を断った手応えはあったのだ。
故にあり得ない。あいつが起き上がる可能性など皆無に等しい。それこそ、もう一頭いると考えた方が自然だと──。
『
ふと脳裏から蘇る爺さんの言葉。
ようやく答えに辿り着く。声の主は
……もう、奴の姿を見る気力もない。
まるであの日のよう。月光を背負う
どうしようもない。詰んでいる。
このまま何も出来ず、何も変えられず。ただただ無意味に生を終えるのだ。
二度目の死を前にゆっくりと目を瞑る。
確実に訪れる末路から目を背けるように。この数年、長くも暖かった幸福な夢へ浸るように。
「──見事。中々に愉しませもろうたぞ?」
だが、その結末は俺に辿り着かない。
次に聞こえたのは怒りに狂う獣の咆哮などではなく。
脳を溶かしそうな甘ったるさで嗤う、聞いたことのない声だったのだから。
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