第9話 なまえ 其の六
「吉乃ちゃん。休憩入ってください。レジ打ち変わりますね」
あたしの名前を呼ぶその子の笑顔はあまりにも眩しすぎた。
あたしは、ろくに返事も返さずに無愛想に店内の奥にある事務所へ入って行った。
違和感だった。
妙にくすぐったいような感覚だった。
それは、自分の名前をあんな風に優しく呼ばれる事に慣れていないからだと思った。
だから、どんな顔をしたらいいかだとか、どんな言葉を返したらいいかなどが、到底想像もできずに、ただ、その場を離れるしかなかった。
だが、決して嫌な感じがした訳ではなく、むしろ、心地好いとさえ思えたのが不思議であった。
あたしは、持参した弁当を机の上に出して一息ついた。
これは現実なのかと疑ってしまう。
あたしは今こうして、スーパーのレジ打ちをして働いている。昼の休憩に弁当を食べている。そんな普通の暮らしをしている事がまるで夢を見ているかのように感じた。
だれかに自分の名前を呼ばれる感覚を初めて味合わい、その事に、戸惑わずにはいられないのだ。
✳︎✳︎✳︎
あたしの名前は、
今年で十七歳になるあたしはこれまで、本当に恥ずかしい人生を送ってきた。一言で言い表せば、クソみたいな人生。
あたしには父親がいない。正確に言えば、知らないという事だ。男にだらしのない母親は相手が誰だかも分からない人との間にできたあたしを産んだ。なぜ産んだのかなんていうもっともな理由があった訳ではない。きっと気まぐれで産んだのだと思う。そうでないとしたら、その時に仲良くしていた妻子持ちの金持ちから慰謝料でもふんだくろうという魂胆があったのだろう。
あたしは生まれてすぐに祖父母の元に引き取られた。たまに顔を見せる母親があたしを見る視線は冷たく無機質なものだった。あたしを抱いた事など一度もなく、名前すらまともに呼んだこともない。何一つあたしに関心など無かったのだ。
それでも、祖父母のおかげで、あしたは人並みともいえる生活を送る事ができた。恐らくこの時がいちばん幸せだったのではないだろうか。
だがそれも、記憶のカケラを紡いだあたしの想像で、祖父母との思い出は朧げなものだった。
薄らとした記憶が、徐々に鮮明になっていくのはあたしが中学生二年生になってすぐの頃からだった。
突然、祖父が病気で亡くなった。祖母も祖父の跡を追うようにして逝ってしまった。そうして、あたしの周りには頼れる人間など誰一人としていなくなった。当然母親など当てにしていなかった。
当たり前のようにあたしは学校に行かなくなった。
代わりに夜の街へ出掛けては、おじさんの相手をするようになった。
ほんの二時間ほど身体を好きにさせたら、三万円もの大金をくれた。中には十万円もくれる金持ちもいた。そうやってあたしの生活は成り立っていたのだ。
この頃からあたしは自分の名前を口にする事も無くなった。日によって決めた適当な名前を自分の名前としていたのだ。
一年ほどうまくやってはいたが、運悪く警察に補導され、身体を売っていた事も知られてしまった。
親身になってくれた生活安全課の警察官の好意で、あたしは児童養護施設に預けられることになった。
だが、居心地の悪さから三日とたたずにそこを抜け出してしまった。
抜け出しても行く当てもないあたしは、再び街に出た。誰かに声を掛けられるのを待っていたのかも知れない。あたしを必要としてくれているような気がして嬉しかったのかもしれない。
きっと、あたしは寂しかったのだ。
だが、あたしに声を掛けてきたのは最悪の男だった。
りくと自ら名乗るその男は、女を食い物にする最低のクズだった。
はじめは優しい言葉であたしをまるめこみ、行く所がないと言えば、自分の家にあたしを住まわせてくれた。何もかも与えられた快適な生活は束の間だった。
二、三日過ごした時だった。りくがあたしに仕事を紹介してくれるという事になった。連れていかれたのはマンションの一室で、部屋に入るとあたしと同じくらいの歳の女の子たちが十人くらいいた。
あたしはりくに仕事内容を尋ねた。優しかった顔は一変して、低くドスの効いた声で言った。
「お前には今日からここで暮らしてもらう。自分で生活費を稼ぐんだ。まずは、この携帯を渡しておく。仕事が入ればその携帯に電話をいれる。お前は言われた場所に行き、そこで会う男の言うとおりに従えばいいだけだ。そうそう。くれぐれも逃げ出そうなんて考えるなよ。オレは執念深いからな。どこまでも追いかけて行く。そして、お仕置きをしないとな。左の扉を開けてみろ。三日前に逃げ出そうとしたからお仕置きしてやったよ」
あたしは、りくの鋭い眼光に睨まれて震えが止まらなかった。言われた通り、恐る恐る扉を開けた。中にいたのは、顔を包帯でぐるぐる巻きにした女の子だった。包帯で巻かれていても分かるほど顔の腫れは酷かった。足の震えに耐えきれず、あたしは立っていられなかった。この時から、あたしはこの男に恐怖を植え付けられたのだ。
りくという男は、帰る所のない家出少女たちを囲い込んで売春の斡旋をしていたのだ。
あたしたちは、携帯に電話が入れば、そこから指示された場所に行った。待っているのはきまって気持ち悪いにやけた顔のおじさんばかりだった。街で会っていたおじさんたちとは違い、物でも扱うように乱暴にされて、あたしは心底疲れ果てていった。
そんな生活をして半年も経った頃には、半分の女の子たちは入れ替わっていた。決して逃げた訳ではない。大半が気が狂って自殺未遂をはじめるのだ。そのうち、気が付けばいなくなっている。どこに行ったのかなど恐ろしくて、聞く事も考える事さえもしたくなかった。まさに地獄の様な暮らしは正気を保つ事がやっとといえた。
女の子の中にあたしと同じ歳のすみれという子がいた。すみれというよりひまわりの様な明るい笑顔が可愛くて印象的だった。何かと気が合って、お互いに励まし合っていた事でなんとかやってこれたといえる。
その日は朝から雨が降っていた。
いつもの様に仕事の連絡を受けたすみれが、部屋に待機するあたしに満面の笑みで「いってきます」と言って部屋を出て行った。あたしも笑顔で送り出した。だが、すみれはなかなか戻って来なかった。
あたしは心配になり、落ち着かずにいた。
やっと、すみれが戻ったと思ったら、無数の切り傷で血まみれになった顔をしていた。それは見るに耐えないほど酷いものだった。「ただいま」と振り絞る様な声ですみれは言った。血に塗れた涙をみると心がひどく痛くて、張り裂けそうなほどの苦しみがこみ上がり、あたしは嗚咽まじりの鳴き声を上げた。
二週間経っても、すみれの顔の傷には血が滲んでいた。見れば見るほど惨たらしい傷痕にあたしは恐怖を感じずにはいられなかった。あたしもすみれのように傷つけられるかもしれない。そんな事ばかり考えていると、携帯の着信が恐くて仕方がなかった。
ここにこのままいたら死んでしまう。
そう思ったあたしは、何とかして逃げ出す方法を考えていた。
やはり、仕事で部屋の外に出た時しかないと思った。できれば、すみれと一緒がいい。二人同時に仕事が入った時がチャンスだ。
すみれはどう思うだろうか。あたしと一緒に逃げてくれるだろうか。もし断られても一人でも逃げるしかない。
そんな事をずっと考えていて、一週間ほどたった時だった。
すみれとあたしに同じ人からの指名が入ったのだ。
ここしかない。
あたしは指定されたホテルに向かう途中にすみれに話を持ち掛けた。
「あたしと一緒に逃げよう。このままだと二人ともそのうちどうなるか分からない。すみれと一緒ならやっていける気がするから」
あたしは勇気を振り絞った。この機を逃したら、後悔してしまうと思ったのだ。
だが、すみれの答えは予想もしないものだった。
「はっ? 逃げる? 一体どこに? 私はこのままでいいと思ってるし。それに、少し話したくらいで友達だとでも思ってたの? 話し掛けたのだってただの暇つぶしだし。逃げたいなら一人で逃げたら。どうせ捕まってボコボコにされるのがオチだけど」
蔑むような目で嘲笑うようにすみれはそう言った。すみれの笑った顔は以前と違い、どこか歪んでいるように見えた。
やっぱりあたしは一人なんだ。
その場にいる事ができなくなり、あたしは走り出していた。
行く当てなどなく、只々走っていた。
息が切れて苦しくて苦しくて、それでも走り続けた。
鼻水と涙で顔はぐちゃぐちゃだった。
足の感覚がなくなり、もう歩く事もできなくなって、あたしはその場に座り込んだ。
しばらく動けなかった。
徐々に冷静になり、早くこの場から逃げないと殺されてしまうかもしれないという恐怖も感じ始めた。
手に持っていた携帯電話を川に投げ捨て、ゆっくりと立ち上がり、できるだけ遠くに行こうと再び歩き出した。
あたしは内緒で貯めておいたお金をいくらか持っていた。とりあえずお腹が空いたので、コンビニに入り、パンとおにぎり、それにオレンジジュースを買った。
パンをかじりながら、行くあてもないまま歩いた。全身が汗だくになり、服に張り付いていたが、気持ち悪くはなかった。むしろ、心地よいとさえ感じ始めた。
どれくらい歩いただろうか。
何時間も歩き続けていたので、流石に足が張って、痛くてもう歩けないと思い、そのまま道端に寝転んだ。
今頃、あたしの事を探して回っているのだろうか。もしかしたら、追手がすぐ近くまで来ているかもしれない。あと、すみれは大丈夫だろうか。あたしが逃げたのだから、そのせいで酷い事をされているかもしれない。でもすみれの事なんて心配する必要ないか。
歩いている時は、頭に浮かばなかった余計な事が、次々と頭の中を駆け巡る。
ふと起き上がると目の前に公園が見えた。
公園のベンチまでなんとか歩き、そのままベンチの上に寝転んだ。
夜も更けて、辺りは静まり返っていた。
風が木々を揺らす音や遠くから聞こえて来る車のエンジン音など様々な雑音が耳に纏わりつくように刺激する。
さっきまであまり感じなかった背中や腕にも痛みを感じた。
このままここで消えてしまいたい。
そんな事をふと考えた。このまま生きていても仕方ない。これまで生きてきた十六年間はあたしにとって無意味で空っぽなものだった。だからこの先もきっと同じなのだろうと考えていた。もともとあたしに存在する意味などなかったのだと。
どうしてなのか理由は分からなかったが、あたしの目には涙が溢れていた。惨めな自分が可哀想だったからなのか。何もできない無力な自分が情けなかったからなのか。涙は止めどなく流れ、一生分泣いたような気になった時に、頭の中が少しすっきりとした。
いつの間にか眠っていたあたしが目を覚ましたのは、太陽が昇る時だった。
春の風が心地よい肌寒むさを運び、あたしを起こしてくれた。
身体中の痛みはあったが、なんだか清々しい気持ちだった。
行く当てなどどこにもない。
それでもあたしはまた歩き出した。
✳︎✳︎✳︎
コンコン。
「吉乃ちゃん。パートの佐藤さんに、私も休憩するように言われたから、お昼を一緒に食べてもいいかな」
あたしの名前を呼ぶその子の声はやはり優しさで溢れていた。
「べつに、いいんじゃないの」
相変わらず愛想の無いあたしの返事は、もしかしたら、ちょっとだけ嬉しそうに聞こえたかもしれない。
だって、自分の名前をただ呼ばれるというその事だけで、こんなにも心が弾んでいるのだから。
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最後までお読み頂き本当にありがとうございます!
少し重いお話なのですが、ただ自分の名前を呼ばれる、それだけでも生きていることの意味があるのだと思っています。大切な人の名前を優しく呼ぶことに小さな幸せを感じられたら幸いです。
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