第6話 乙世界

 さっきまで、夜の安アパートの部屋で、役所に出す書類に四苦八苦しているところだったはずだ。宿の主人夫妻、ルジアからの連絡はあれからないが、彼は彼ですることが多くもうしばらく忘れていようと思っていた。

 ルジアのことを考えると彼はもやもやした。あの美貌だ、こんな社会的な敗者につきあう必要はないだろう。宿の客にいい男を見つけて新しい暮らしに入って行ってもおかしくはない。彼は感じることをやめていたものがまた頭をもたげてきたようで一人悶々とするくらしを送っていた。

 それがいきなり見たこともない場所にいる。しかも頭上には青空が広がり、見たことのない鳥が聞いたことのないさえずりを残して通り過ぎていく。

 明らかに廃墟であるが、それでもとても気持ちのいい風景だった。そう、驚くほどの充実感と万能感が体を満たしている。感覚もとぎすまされ、小さな流れの水の音、木々の葉擦れの音、小動物の息使いさえ聞こえてくるようだ。あまりに濃密な情報が押し寄せて彼はただただ圧倒されていた。

「安全機構の動作は完了しました」

「格納完了」

「現在、分離の場合のまきこみ範囲は百メートル。経時変化により距離の変更あり。以降は柱に質問のこと」

 一か月前、ルジアに会ったときに聞いた声が聞こえた。

「どういうことだ」

 質問してみたが、正吾の声にその声は答えてくれない。一方的に通知するだけのようだ。

「どういうことだろう」

 別の声が聞こえた。聞こえたというのは少し正確ではない。声なき声が呼びかけてきたようで、それが彼にしか聞こえないものだというのはすぐに察しがついた。

「ルジア? 」

 聞き覚えのある声に彼は確かめずにはいなかった。

「どこにいるんだ? 」

「久しぶりね。ショウゴ。どこかわからないけど、自分ん家のような部屋。出口はあるけどなんか百ってかいてて嫌な予感しかしないよ。で、大きなテレビみたいなものにどうもあんたの見ているものらしいのが少しぼんやりうつってるね」

「格納完了って聞こえたのだけどルジアは何か聞こえたかい? 」

「収納完了ってきこえたよ。これがあんたの中にはいるってことかしらね。わたし、さっきまで仕込みの手伝いで芋の皮むいてたんだけど」

「もしかしてその恰好で? 」

「うん、包丁もった作務衣姿」

「馴染んだねぇ」

「その包丁が今急に消えたんだけど」

 そう彼女が言った直後、またアナウンスが聞こえた。

「素体取得。聖剣生成開始」

「生成成功、再リンク実施」

「勇者テツヤの聖剣を本人のもとに送還。完了」

「再リンク完了。勇者ショウゴの聖剣が使用可能となりました」

 正吾は抜剣、と小さく呟いてみた。

 手の中に以前のとは重さの違う、刃紋もあざやかな日本刀が出現した。

「なあ、もしかして使ってたのは和包丁? 」

「というてたかな。よい刃物であった」

 きったはったはあんまりしたくないな、と思いながら彼は納剣とつぶやいて聖剣をしまった。刀なら納刀だろうと思ったが、一度決めたコマンドワードは変えられないようだ。

「ルジア、ここがどこかわかるか」

 たぶん、乙世界だろう。正吾は直感していた。ならば彼女が知っているかもしれない。

「そうだのう。なんとなく見覚えがあるが、ちょっともう少し右を見てくれ。今度は奥にすすんで」

 正吾が言われるままカメラマンの役割をしばらくやったあと、ルジアは結論を述べた。

「ここは前回の調停で放棄した魔族の町ね。サルクという古い町で、貴金属細工で有名だった。召喚やってたチニ王国の神殿から百キロは離れてるわ」

「なんでこんな位置に」

「わからない。ただ、ここは人族の新しい町が近いし、下級魔族の残党がいるから注意して。わたしなら魔族は襲ってこないけどあんたは危ない。人族は猜疑心が強くてずるいから注意して」

「わかった。ところでここに住んでた魔族たちはどうなったんだ」

「サルクは陥落し、略奪と殺戮に見舞われた。ほとんどが殺されたと聞く」

 そうはいっても、正吾も室内着がわりのくたびれたスウェットにこれだけは新品のスリッパと心もとないことこの上ない。

「武器はこれだけか」

 聖剣を出して彼は頭をかいた。これで何ができるか途方に暮れているのが現状だ。まさか追いはぎでもすればいいのだろうか。服は合うものが手にはいるとは限らない。

「ところでショウゴ、気づいたかい」

 体が軽く、これまでにない気力体力の充実と研ぎ澄まされた感覚を感じていた彼はもちろんそれに気付いていた。軽い体重の誰か、少なくとも二足歩行する何かが数体、息を殺して忍び寄ってくる。

「ああ、小さい人たちがやってくるな」

「下級魔族の小鬼たちのようだ。六人いる。たぶんショウゴを晩御飯にしようと思っているのであろう」

 物騒な予告に正吾はぶるるっと身をふるわせた。

「ルジア、かわりに話をつけてくれないか」

「どうやって? 」

「出られないのか? 」

「この百ってかいてるドアくらいしか思い当たらぬが……おや、あきそうだ」

「襲われてはかなわない。魔族ならお願いしたい」

 ルジアは一瞬だけ迷った。このドアを抜けるとろくなことが起きる気がしない。正吾なら勇者だから小鬼数匹程度なら相手にはならないはずだ。つまりそれは下級とはいえ同胞を殺すことになる。いずれにしろ、彼らを助ける可能性があるなら試してみるしかない。

 彼の横にまるでそこに物陰があったようにルジアの姿が現れた。甲世界で正吾があったときと違って強靭さを感じるオーラを放ち、額にはあのときにはなかったトパーズのような宝石が輝いている。

 隠れていたところから、相撲取りを無理やり小さくしたような頑丈な手足とどっしりした胴回りの小学生くらいの背丈のものたちが現れた。汚れ、ほつれはあるがかなりしっかりした生地のこった仕立ての上下を着て、手には背丈にあった剣や槍、投網などの得物を持っている。彼らは涙を流さないばかりのくしゃくしゃの表情でルジアを見ている。

「助けだ」

「お助け」

 正吾は彼らの言葉がわかることにそう驚きを覚えなかった。ルジアともいきなり言葉が通じたのだ。だが、おたがい同じ言葉を話していたわけではない。召喚によって召喚者に付与されるものはない、はずだが一つだけ実はあることがあの夜の会話でわかっていた。それは一種のテレパシーだった。相手が伝えようとする言葉の意味がわかる魔法。相手にその気がなければさっぱりというのはルジアの独り言がまるで聞き取れなかったことではっきりしていた。

 この小鬼たちはルジアとその連れの人間っぽいのに助けを求めている。

「おまえたちは何人おるのだ。人数と備え次第では脱出、あるいは調停のおわるまでの潜伏を助けるつもりだが」

「わしらは町の職人でございます。十四名おります。どうか……」

 小鬼たちがそこまで言った時、何かがずるっとずれるような感覚があった。

 正吾たちが気がついたときには海に落ちるところだった。二人はだきあい、自分たちの見ていたほうに黒いなにかが六つばかりぼしゃぼしゃと落ちるのを見た。

「ここは」

 万能感が消え、ずっしり全身におもりをつけられたような気分で彼らは指一本動かしたくはなかったが、このままでは溺れる。

 じたばたと泳ぎ、陸はないかと見回した。

 その足が砂に触れた。彼らは背が立つくらいの浅い海岸に落ちていた。

 遠くに人家のあかりが見える。時間は夜。どうやら、昼だった乙世界から夜だった甲世界にもどってきてしまったようだ。

「ここはどこだ」

 二人とも知らない海岸だった。ルジアは甲世界の海を知らず、正吾には見慣れない場所だった。

「なんじゃ、このタールのような海は」

 乙世界の海とちがって甲世界の海はかなりの抵抗があるらしい。ルジアが文句を言った。

「おかげでまた少し強うなったようだ。こっちの世界は生き延びられさえすればいくらでも強くなれるのう」

 海からあがったところは道路になっている。その路傍に二軒ほど人の気配のない家があった。一軒はよく見ると屋根が抜けて崩落している。もう一軒は家財などは残っているが今は誰もすんでいないように見えた。

 最悪、ここに侵入して物色しようかと思った正吾は離れたところにコンビニエンスストアらしい灯りを認めてこれをやめた。

「あの明るいとこにいこう。たぶんコンビニだ」

「ああ、あのいろいろ売ってるところか」

「道々、口裏をあわせておこう。で、電話を貸してもらえないか頼むつもりだ」

「どこにかけるのだ? 」

「勇者テツヤにお願いすることになる。起こったことを彼らと話し合っておく必要があるだろう」

 釣りにきて落ちた。それが彼らの考えたストーリーだった。釣り竿どころか財布も電話も流れてしまったので迎えを頼む電話をかけさせてほしい。そういうことにした。


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