03 蘇東坡(そとうば)、黄州で猪肉(豚肉)を愛すること

 高俅こうきゅうは青年の頃、親元を飛び出て放蕩無頼を気取り、有力者の間を食客として巡り歩いた。が、やがて、放蕩が過ぎたせいか、体の自由が利かなくなり、誰にも見向きされなくなって、ついには流れ流れて、辺境の地へ書記として放逐された。

 その辺境の地を黄州といい、そこは知州(今でいう州知事)ですらも自給自足せねばならぬほど、困窮の地であった。

 杖を突いて、ようやく黄州にたどり着いた高俅は、その窮乏ぶりに絶望し、知州の家の前で倒れた。

 そして目が覚めると――


「おや、起きたか」


 しょう(寝床)に寝かせられていた高俅の前に、壮年の男の姿が見えた。

 その男――高俅がオッサンと呼ぶことになるその男の名を、蘇軾そしょくといった。号して、東坡とうばといい、史上、蘇東坡の名で知られる。


「良かった良かった。ようやく来てくれた書記に野垂れ死にされては、かなわんからな」


 中国史上、冠絶する詩人として有名な蘇軾。

 しかし彼は旧法党と目され、新法党が政権を握っているこの頃、不遇をかこっていた。

 その証拠に、このような僻地へきち・黄州へと追いやられている。


「だが、この黄州、捨てたもんじゃないぞ」


 蘇軾は一杯の碗に角煮を入れて、高俅に差し出した。


「……この肉は?」


 くんくんと鼻をかせながら高俅が問うと、蘇軾は笑って豚だと答えた。


猪肉豚肉!?」


 当時、豚肉は「糞土」と嘲られるものであった。

 蘇軾は笑う。


「侮るなよ、書記どの」


 そして朗々と歌い上げた。


「黄州好猪肉

 値賤等糞土

 富者不肯喫

 貧者不解煮

 慢著火少著水

 火候足時他自美

 毎日起来打一碗

 飽得自家組莫管」


 それはのちに「食猪肉」という題名で伝わる、蘇軾の詩であった。


 すなわち――


「黄州猪肉好し

 値賤くして糞土に等し

 富者は肯へて喫せず

 貧者は煮るを解せず

 慢ろに火を著け 少しく水に著け

 火候足る時他自づから美なり

 毎日起来一碗を打つ

 自家を飽かり得れば君管すること莫かれ


(黄州には良い豚肉がある

 値は糞土のように安い

 富める者は食べようとしない

 貧しい者は煮ることを理解しない

 おもむろに火をかけて、少し煮て

 火が通ったら、美味しくなる

 毎日起きて、一碗食べる

 家で満足できているから、何も言わないでくれ)」


 ――という意味である。


「まあ、そういうことだ、まずは食べてみろ」


「お、おう」


 空腹で死にそうなのは事実なので、高俅は「糞土」と言われる豚肉の角煮を口に入れた。


うまい……」


 一口食べただけで分かった。豚肉を揚げ、醤油と酒と砂糖で煮詰めたそれは、口中にまるで溶けるように広がり、あまじょっぱい味が高俅の頭蓋を揺さぶり、感動を呼び起こす。


「……ってうめえ! 何だこの味! こんな味が、この世にあったとは!」


 気がついたら碗を空にしていた高俅に、蘇軾は別の碗を差し出した。その碗には蔬菜湯野菜スープが盛られていて、やはり蘇軾の考案した料理だという。


「書記どのは見たところ、都会の美食で体がおかしくなっておる。その肉の角煮と、蔬菜湯で、まずは癒したがいい」


 瞬く間に蔬菜湯も平らげた高俅は、己の体が喜んでいるのを感じながら、蘇軾にお代わりを所望した。


 二、三日経つと、高俅はもう満足に歩けるようになり、そして蘇軾から蹴鞠や棒術、角力すもうを習った。

 蘇軾が言うには、食べることと、そして体を動かすことが、健康回復の元だと言う。

 元々運動神経の良かった高俅は、みるみるうちに蹴鞠などを会得し上達し、体術においては師である蘇軾を上回るようになった。


「礼を言うぜ、東坡のオッサン」


 高俅は心身共に全快を感じたその日から書記として仕事を始め、また蘇軾と共に畑を耕し料理をし、あるいは趣味に熱中するきらいのある蘇軾に代わって知州としての職務をこなした。


 そんなある日のこと。


「何だい、東坡のオッサン。おれは忙しいんだ。さっさと趣味の墨づくりでもしてろよ。あ、山は燃やすなよ?」


「やかましいわ。ちがうちがう」


 能書家でもある蘇軾は、自ら墨を作ることに熱中し、その熱中のあまり、山火事を起こしたことがある。


「あん時ゃあ、後始末が大変だったんだぜ……。それより、何だ? またおれの実家に高麗こうらいの墨を取り寄せるように手紙を書けってか?」


 おれは実家から勘当されているから、もう頼んでくれるなよ、と高俅はこぼした。


「だから、ちがうと言うに」


 蘇軾は懐から書状を差し出した。

 その書状は、高俅宛ての手紙で、彼の実家からだった。


「は? 何だ今さら? 勘当したってのに……え? 端王(趙佶ちょうきつ・のちの徽宗きそう)に仕えろ? な……何だってんだ! 今さら!」


 高俅の実家は、高俅の蹴鞠の技量を知り、そして端王が蹴鞠を趣味としていることに目を付け、取り入るために、放逐したはずの高俅を呼び寄せる書状を送った。


 何故、高俅の実家は、高俅の蹴鞠の才を知ったのか。


「東坡のオッサン、アンタもしや……」


「その通り」


 掴みかからんばかりに詰め寄る高俅。

 だが蘇軾は気づいていた。

 高俅が開封に恋人を残してきたことを。


「一度きりの人生。未練を残すな」


 恩人である蘇軾にそこまで言われては何も言えず、高俅は開封へと向かうことになった。



「だが、これだけは言っておくぞ。東坡のオッサン!」


 別れの日。

 黄州を後にするその時、高俅は叫んだ。


「おれはアンタとずっと一緒にいたかった。一緒に働いて、メシを作って、食って……そして……」


「……は、家族とやるがいい」


 自分が守ろうとする「法」とは、「社稷国家」とは、を守るためにある、と蘇軾は喝破した。

 事実、蘇軾は後日、旧法党の領袖・司馬光が政権を握った時、その旧法の復活に異を唱えた。


「新法であろうとも、良法は良法」


 高俅はその主張を取り下げろと再三、蘇軾に懇願したが、それはかなうことはなく、一方で、それでこそ蘇軾だと高俅は涙し……。


 そして蘇軾はまた僻地へと追放され、そして都へ戻ることなく……その生を終えた。

 


 

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