推しが電撃引退しました
カユウ
第1話
バイト先のロッカーの中で見たニュースサイトで知った。自分の目を疑った。信じたくなかった。もう一度見た。
アイドルの
たくさんのニュースサイトや SNS を見て、ようやく姫廻夢香の引退が事実だということがわかった。しかも電撃引退で、引退ライブなどの予定はないと書かれている。気づいたときには、服を着たまま家でシャワーを浴びていた。
俺が姫廻夢香を推しに決めたのは、今から5年前の14歳のとき。将来の夢や目標にその場かぎりの適当なことを書いたら、教師にこっぴどく叱られた日の放課後に出会った。駅前に設置された小さなイベントスペース。弾けるような満面の笑みで歌い踊る同年代の少女。それが姫廻夢香だった。
姫廻夢香が何を歌っていたのか、今ではうろ覚えだ。だけど、歌い終わった彼女が話した言葉から、アイドルという職業と真剣に、真摯に向き合っていることがひしひしと伝わってきた。その彼女のひたむきさに心を打たれたと言ってもいい。笑顔とひたむきさに惹かれ、俺は彼女を推しに決めた。だからまず、彼女のデビューCDを買った。その場で書いてくれたサイン入りCDは、大事な宝物だ。
彼女の歌声を生で聴きたい。そう願っていたが、俺の地元は関東から遠く離れた地方。東京で活動している彼女が来てくれたのは、あのときだけだった。
あれから5年。俺は、東京の大学に通う大学生になっていた。大学近くのアパートで一人暮らし。奨学金だけではかろうじて生活できる程度。推しの彼女のCDやグッズを買う余裕はない。そのため、バイトを始めるのは必然。バイト先は、大通りに面したカフェだ。少し離れているが歩いて通える距離にあり、比較的時給が高い。バイトに入れる時間を増やすため、講義は進級に必要な単位数に絞り、集中的に取り組んだ。それもこれもすべて姫廻夢香のライブに行くため。
「引退かー。引退ってことはもう出てこないってことだよね。出てこないってことはライブもなし?……なしだよなー」
姫廻夢香が引退したことのつらさを SNS に書き込みつつ、口から言葉が出てしまう。ベッドに倒れ込み、ぼんやりしているとスマートフォンから通知音が。見てみると、SNS でダイレクトメッセージが届いたようだった。
「『姫廻夢香シークレット引退ライブ』!?え、マジか!そうだよ、アイドルの引退だよ。ファンのために引退ライブやってくれるよね。信じてた!」
小躍りしながら案内文を見ていく。先着順の完全予約制で、シークレット引退ライブの情報を誰かに言ってしまうとお金を払っていても入場できなくすると書かれている。俺は特に疑問ももたずに Web フォームに個人情報を入力した。予約完了と表示されたので、指定された口座に振り込む。通常のライブの10倍の金額だったが、引退ライブだからな。
「これでよし、と。1か月後が楽しみだ」
振込から1か月後。ライブハウスの前で、制服を着た警察官に声をかけられた。
「失礼。あなたも『姫廻夢香シークレット引退ライブ』にいらしたんですか?」
「あ、はい。そうです。えっと、警察の方ってことは荷物チェックですか?」
ライブに行ったことはないが、入場時に危険物を持ち込んでいないかチェックを受けることは事前調査済みだ。まさか警察の方が声をかけてくるとは思わなかったが。しかし、警察官の次の言葉で、俺の思考は停止することになった。
「いえ、そうではありません。心を落ち着けてきいてください。『姫廻夢香シークレット引退ライブ』はありません。詐欺です」
「サギ……鳥、ですか?」
「違いますよ。犯罪の詐欺です」
気の毒な人を見る目で、警察官がこちらを見ていた。思考が停止してしまった俺は、警察官に促されるままワゴン車タイプのパトカーに乗った。中にはすでに人がいて、Tシャツなどから彼らも姫廻夢香のファンなんだと気づいた。しかし、誰もかれもがぼんやりしている。思考停止気味な俺たちを乗せ、パトカーは警察署へ向かう。
警察署では、別々に話を聞かれた。経緯を話すと、SNS のダイレクトメールや振込記録を見せるよう言われたので、素直に見せる。連絡先を聞かれたあと、解放された。
どこをどう移動したのか覚えていないが、気づいたときにはバイト先にいた。
「……まくん、田山くん。おい、聞こえてるか、田山!」
「あ……
「おう、お疲れ。昨日のハイテンションとは大違いだな。どうしたよ?」
バイトを始めたとき、最初に仕事を教えてくれた門廻先輩。俺は先輩にうながされるままに、姫廻夢香が引退したことを知ってからのことを簡単に話してしまう。
「そうか。そんなことがあったのか」
「あ、いや、こんな話されても困りますよね。すみません」
「で、田山くんは姫廻夢香のどんなところに惹かれたんだい?」
門廻先輩の言葉にはっとした。引退ライブが詐欺だった。だけど、それはそれ、これはこれ。姫廻夢香とは関係ない。
「彼女の笑顔と、あのひたむきさですね。両手で数えられるほどしか客がいないのに、満面の笑顔で目いっぱいのパフォーマンスをしていたんです。直接彼女を見たことは一回しかありません。でも、たった一回で魅せられちゃったんですよ」
5年たった今も、駅前の小さなイベントスペースを最大限使って歌い踊る姫廻夢香の姿が脳裏に浮かぶ。
「彼女の歌声を聴くと、元気が湧いてくるんですよね。全力でパフォーマンスをする姿には応援したくなりますし、俺も負けてられないぞっていう気持ちになるんですよ。あのときは手拍子しかできなかったんです。それも小さく。だから彼女のライブに行って、パフォーマンスする彼女に全力で手拍子したかった。あんなさびれた地方の駅前で歌い踊ってくれた姫廻夢香に感謝の気持ちを届けたかったんです」
話しているうちに涙があふれてしまった俺に、門廻先輩はティッシュボックスを差し出してくれた。なんて優しい先輩なんだ。
「なるほどね、姫廻夢香が田山くんの原動力ってわけだ。それなら、姫廻夢香のファンで居続けていいんじゃないか?アイドルが引退したからってファンをやめなきゃいけないわけじゃないだろうし」
「あ……そう、ですね。そうですよね!俺、姫廻夢香のファン続けます!」
目からうろこがボロボロと落ちた気がした。アイドルが引退したからってファンをやめなきゃいけないルールはない。新曲も出ないし、ライブもない。グッズだって出ない。それでも、俺が推したいと思っている限り、ファンでいよう。それが、俺なりの引退した姫廻夢香への推し活だ。
涙が止まり、気持ちが落ち着いた俺は、門廻先輩にお礼を言って帰路につく。家についたら姫廻夢香の CD をかけよう。引退した彼女の第二の人生を応援しよう。
「いらっしゃいませ。おひとり様ですか?」
引退ライブ詐欺事件からしばらくして、どことなく見覚えのある雰囲気の女性がバイト先に来店した。帽子にサングラスだったので、顔はよくわからない。だが、こちらにはバイト先以外に知り合いという知り合いはいないので、気のせいだろうと思い、普段通りに接客することにした。
「田山くん、ちょっと」
レジにいた門廻先輩に呼ばれると、そこには先ほど来店した女性がいた。
「はい、なんですか?」
「こいつ、妹なんだ。紹介しとこうと思って」
「そうだったんですね。道理で見覚えのある雰囲気だと思いました。初めまして、田山といいます。いつも門廻先輩にはお世話になってい……ま、す」
門廻先輩に紹介されたのでバイトモードで頭を下げ、挨拶をする。顔を上げたとき、俺は自分の目が信じられなかった。
「初めまして、田山さん。
目の前に推しがいたのだから。そりゃ見覚えあるわ。何度も何度も姫廻夢香が出演している MV を見ていたんだから。姫廻夢香の身内に、姫廻夢香のファンだって公言して泣いてたのか、俺。
「いろいろ落ち着いたので、これからちょくちょく来ますね」
「あ……はい、いつでもお待ちしております」
退店される姫廻夢香もとい門廻姫奈さんを見送ったあと、ゆっくりと門廻先輩を見る。ニヤニヤとしか表現できない笑みを浮かべた門廻先輩が立っていた。
「というわけだ。もしいないときに姫奈が来たら、相手してくれよ」
電撃引退したアイドルを推してたら、プライベートで会えてしまった。いやいや、これからどうしたらいいんだ!
推しが電撃引退しました カユウ @kayuu
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