第16話
彼女の姿が見えたため、ついその名を呼んでしまった。名を呼ぶなど一体何年ぶりだろう。突然呼ばれたのと数年ぶりだったせいで彼女も驚き、目を丸めていた。だが相変わらず俺は情正面から向き合うことをせず、つい視線を外したところでそれを咎める声は聞こえない。慣れているのだ、俺がこういう反応をすることに彼女も。久しぶりだという言葉に短い言葉でしか返せないことも。
「頬は」
何とか絞り出した言葉も音にすればたったの三文字。普通であればそれだけ聞かれても言葉が続くと思い待つか、それとも聞き返してくるか。だが彼女はそのどちらでもない。腫れも熱も引いたため登校したと、そしてそのあとに続く謝罪。俺は迷惑していないのに俺の立場を気にして彼女はそう口にする。
「それよりも王子、婚約破棄、頷いてくださいますよね?」
「ではな」
今するわけにもいかないと言葉も手短にその場をあとにした。
だが腫れも熱も引きしっかりとした主治医の腕だったのか、殴られたあとは綺麗になくなっていた。顔に傷が残らなくてよかったと思う反面、やはりフィリップはあまりにもやり過ぎた。話はアルストロ家のみ留まらずもちろん王族までも届き、父は刑に処する勢いだったがそれを削いだのがアルストロ家の助言だ。当事者はこちらのためこちらの好きなようにやらせてほしいとの言葉に父は首を縦に振った。今後フィリップのみならずウィンクル家は厳しい立場に立たされるだろう。
これでそのまま大人しくしていればいいが、そう思いながら今日もあの女は俺に付いていくる。わざわざ追い返さないのはこうやって付いてきたほうがこちらも監視がし易いためだ。目を離した隙に何をするか、未だにこの女は読めない。そんなときだった、エディが厳しい表情で現れたのは。
「レオ、少しいいか」
俺が一人でいるところを見計らい、ひと気のない場所へと移動する。カトレアが階段から突き落とされそうになった、エディがそう口にしたとき俺も思わず瞠目した。
「俺が少し目を離した隙に。急いで追いかけたとき丁度その現場だったんだ。俺が慌てていたこともあって他の生徒も目撃している。それと、カトレアは何かを隠している」
「……突き落とされそうになった以外にも、何かあったな」
「何かあったでしょうね」
突如現れたクロードに顔を歪める。ずっとフィリップの監視をと言いつけていたクロードがここにいる、ということは。
「ウィンクル家の息子が姿を消した」
ずっと屋敷で謹慎を喰らっていたはずで、それから目を離した覚えもないのに忽然と姿を消したのだと言う。直ぐ様俺に報告を、と学園に駆けつけたのと同時に彼女の身に何かが起こっている。関連性がないと思うわけがない。
「シミオン・オーキッドはどこにいる」
「一応学園にはいるみたいですね。ただ学園内で魔法を使った痕跡がありました。ただ、ねぇ、相手が高度な魔法を使うみたいなんで追跡が難しいんですよ」
「エディ、証拠集めをしてくれ」
「わかった」
「クロード、フィリップの姿を探せ。それとシミオン・オーキッドの動向も探れ」
「ヒ~やること多いっすね~。了解です」
「レオ、明後日は学園のパーティーだ」
入学してから一ヶ月、学園生活にも慣れた頃に学園で行われるパーティー。学年関係なく一箇所に集い本来であれば親交を深める場でもある。そのパーティーの直前でこれだけ何かあれば、当日何も起こらないはずがない。
「しっかりと証拠を突きつけろよ」
向こうがパーティー会場で何を利用しようが、それを公の場で明らかにするだけだ。今のところあの女は俺が何かに勘付いているとは思っていない。そんなに無能のように見えるのかと顔を歪め口角を上げる。甘く見られたものだ、俺も、彼女も。
徐々に近付く距離感、隠す素振りを見せなくなってきた撫で声。それもあと数日耐えるだけだ。
「ああレオ様、わたし不安です。だってこの場にカトレア様もいらっしゃるんですもの」
俺の腕に絡みつき会場に入って彼女の姿を確認した途端、真っ先にそう口にした。それからもよく回る口で簡単に嘘を吐きそれを周りに信じ込ませる。それはある意味女の才能だろう。簡単に信じた愚かな生徒たちは口々に女を庇い彼女を蔑む。顔は覚えたぞと内心毒吐きながらもその茶番に付き合ってやる。まるで彼女から嫌がらせを受けたという口振りだが、真実はその逆だ。
「レオ様、婚約破棄をしたほうがきっとレオ様のためです」
まるで俺の気持ちを代弁してやったと言わんばかりに胸を張る女に、吐き気がする。俺の心を知っているものなど、俺が気を許した人間にしかわからない。エディや、クロード、そして幼き頃から俺の傍にいたカトレア。
腕を振り払いエディの名を呼ぼう、とする前に一人の女子生徒の声が響いた。彼女とよく一緒にいた、彼女の『友人』だ。きっと誰よりも彼女のことを知ってくれているのか、彼女の無実を怯えることなくはっきりと口にする。そしてその女子生徒を擁護する声も多々上がった。彼女の友人の言葉が真実なのだ、それは当たり前と言えば当たり前なのだ。
「そういうあなたがカトレア様から指示を受けてわたしに嫌がらせをしたんじゃないっ!」
友人がありもしない罪を被せられる、そう瞬時に判断したのだろう彼女は即座に友人を後ろに下げようと動いた。傍にいたのはあの日殴られた現場に居合わせたサイラスだ。騎士見習いではあるが彼が傍にいるのならばまだ少しは安心できる。だが頭に血が登ってしまっているのか、彼女の友人は公の場で婚約破棄の話が出ていることを口にしてしまった。俺と彼女が婚約していることは周知の事実だが、破棄の話が出ていることは水面下で行われていたため生徒たちはまだ誰も知らなかった。無論、隣にいる女も。
「そんなにカトレアに恥ずかしい思いさせたかった?! それでずっと逃げていたっていうの?! この卑怯者!!」
そんなつもりはなかった、だが周りからはそう見えていたということだ。言い返す言葉も無い。ずっと逃げていたのは事実だ。
顔を上げ前を見据える。もう俺には逃げ場などなくなった。同じように彼女は背筋を伸ばし顎を引き、令嬢として立派な佇まいで俺に視線を向ける。こうして彼女と真正面で向き合ったのはこれが初めてだった。
そうか、俺が知らなかっただけ。見ようとしなかっただけ。彼女はいつだって真っ直ぐで、いつだって対等な立場で俺を見ていたのだ。
「どうか、お願い致します」
婚約破棄に頷けと、頭を下げるカトレア。わかっている、きっとここで頷いたほうがカトレアのためだ。彼女を立ち止まらせているのは俺、身動きできないのは俺のせいだ。カトレアの幸せを思うのであれば、頷くのが正解だ。
「俺は、婚約破棄など絶対にしないッ!」
俺の口から勝手に出てきた言葉に自分でも驚愕する。ここまで来ても、結局俺は利己的な男なのかと。カトレアもそしてその友人も、ポカンと口を開けたまま固まってしまった。もちろん二人だけではない、会場にいる生徒全員だ。
腕を振り払い会場を足早にあとにする。立ち止まり顔を上げれば先程俺だけが聞こえる声量で呼びかけてきたクロードが、めずらしくも真面目な顔をして目の前に現れた。
「フィリップ・ルカ・ウィンクルがこの学園に現れました」
「謹慎中で来れないはずだ」
「しかも一瞬です。シミオン・オーキッドの姿も見えません」
「急いで探せ。エディはあの女の対応をしている」
「カトレア様の傍にいたほうがよくないですか」
確かにそのほうがいいだろうが、あんな感情任せに叫んできたすぐあとだ。お互い気まずいだろうしそれよりも先に姿を消した二人を探したほうが早い。今頃あんな大勢の前で恥をかかされているあの女もすぐには動けないだろう。
クロードと手分けして俺も二人を探す。ただし、クロードが言うには魔法を使って姿を消している可能性が高く、簡単にはいかないだろうとのこと。怪しい箇所を見つけたらこれを投げつけろと渡された小さな珠はクロードの魔法が込められていた。消えた姿を現せることはできないが、目印程度にはなるだろうと。
だがパーティーがあったせいで生徒たちもあちこちに出ていて若干混雑している。この人混みの中探すほうより隠れるほうが簡単だ。生徒の中を掻き分けて気配がするほうを探してみるもののなかなか見つからない。しばらく時間が経ってもクロードから何も知らせがないということは向こうも苦戦を強いられているのだろう。
「せめてどちらかが見つかればな……」
まだ何かをやったわけではない、だが何かをやったあとでは遅い。事前に防ぐほうがいいに決まっていると、廊下に出たときだった。奥のほうから動揺を隠せないエディが走ってきた。嫌な予感がする。
「カトレアが行方不明だ」
エディはカトレアが一人にしないようにしていたが、恐らくそれは向こうも想定済み。まずは傍にいたエディを離れさせたかと小さく舌打ちをする。カトレアがいたと思われる場所に落ちていたという学園指定の鞄のボタン。名を呼ぶとすぐに現れたクロードにそのボタンの持ち主を魔法で調べさせた。
「……間違いなくカトレア様のだ」
「エディ、ウィンクル家の別邸をすべて洗い出せ」
「……わかった」
「別邸なんてそれなりの数でしょ。そこから探し出すなんて結構至難の業ですよ。相手は魔法だって使ってますし」
「いいから探せ。一刻も早く」
どうやらカトレアを探しているときにあの女も見失ったらしい。恐らく姿を消した二人と合流したに違いない。
行動に移すとは思っていたが、まさかこうも早くに動くとは。俺の読み間違いだ。そのせいでカトレアが危険な目にあっているのだからアルストロ家が知れば咎められるだけでは済まされない。父も、今後のことについて決断を下すかもしれない。だが今は俺の進退よりもカトレアを探すほうが先決だ。
父上のほうにも知らせを入れておくようにと、馬車に待機していた騎士に知らせる。恐らく騎士たちを動かさなければならない。
彼女の心が折れる心配は、実はというとあまりしていない。どんな状況でも毅然とした態度でいるだろう。問題は囚われている環境だ。しっかりとした食事を与えられていなかったら精神的に強くてもどんなに屈強な男でも長々と耐えれるわけがない。時間との勝負だと踵を返した。
まさか学生である間に、鎧を纏うとは思いもしなかった。だが向こうは同じように騎士を構えている可能性だってあるし、クロードの報告によるとゴロツキたちも数人雇ったようだ。向こうがここまでやっておいて事を穏便に済ませる、という線はもう軽々と越えてしまっている。
騎士たちを従い馬車と馬で移動しようとする前に、とある一人の生徒が俺たちの前に駆け込んできた。
「カトレアを助けに行くんでしょ?! お願い、絶対に邪魔しないから一緒に連れて行って!」
「お前は……」
「心配なの! カトレアが本当に無事なのか、この目で確かめないと、私っ……!」
言葉に詰まりながらも訴えかけてくる生徒は、カトレアといつも一緒にいた友人だ。あらぬ罪を着させられそうになっていたカトレアの無実を訴え、いつだってカトレアの味方でいてくれた。後ろに視線を向ければ心配でついてきたのか、それとも突拍子のない行動に出ないようにするためかサイラスもそこにいた。
視線を背けることなくジッと向ける。その瞳の奥には打算や計略などない、純粋にカトレアを心配している色。彼女の隣にいる人物がこんなにも真っ直ぐな人物でよかったと、胸の中でそっと息をついた。
「サイラス、お前の馬車に乗せてやれ」
「……! はっ」
「突入の際は馬車で待機だ、決して外に出るな」
「ありがとう……!」
邪魔にならない場所にいるのならば荷物になることもない。騎士たちに目配せし、俺たちは目的の場所に向かうために出立した。
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