第15話
いつか起きるであろう思っていた問題は、予想以上に早く起きてしまった。フィリップ・ルカ・ウィンクル、賢い男ではないと思ってはいたがまさか自分より立場の上の人間、しかも力の弱い女性の頬を思い切り殴るとは。その原因があんなふざけた噂を事実を確かめようとはせず丸々信じた結果だとは。
たまたま近くを通ったフロックス家の嫡男、サイラスには感謝をしなければ。彼が彼女をどう評価していたかは知らないが礼儀作法が行き届いたフロックス家だ、殴られた女性に対し助けに入らないという選択肢はない。彼女も機転を利かせて友人を呼んでもらったことで、男女二人きりになるという状況も免れた。
「結構頬が腫れててそれが原因で熱も出たみたいだ。しばらく休むみたいだよ」
「……そうか」
「まさかあそこまでやるとはね」
知らせに来てくれたエディに相槌を打ちつつ、これで終わるという予感がまったくしない。寧ろ、始まりではないかとすら思ってしまう。それに彼女は被害者だというのに相変わらず彼女に対する評判が悪い。殴られるようなことをしたのだろう、と現場にいなかったくせに然もいたかのように噂をする者は愚かだ。
だがこうなってしまった一因が俺であることも確かだ。逃げさえすれば余計な噂が流れることもなければ、あの男に殴られることもなかったかもしれない。熟慮し、まとまったところでエディに振り返る。
「……彼女に見舞いの花を、持って行ってくれないか」
「自分で行けばいいだろ」
「俺が簡単にアルストロ家に入れるとでも?」
「確かに今は入れないかもね」
なんせ向こうは婚約破棄を望んでいる、にも関わらず最後の最後で俺が頷いていないのだ。いつまで答えを先延ばしにするのだと言われた日には頷かざる得ない。まだ俺が、俺の中で何も整理がついていないというのに。
「ただし、花は君が決めなよ」
「……ああ」
「渋い顔してる」
今まで女性に花のプレゼントしてこなかったツケだよ、と苦笑され居心地が悪くなる。エディの言うとおりだ、一体何の花をプレゼントすれば失礼にあたらないのかもしくは喜ばれるのか、俺にはまったくわからない。渋々エディの父親である執事長にそれとなく聞いてみれば、彼は微笑んで色々とアドバイスをくれた。心なしか嬉しそうにしていたのは気のせいだろうか。
選んだ花はエディに持って行ってもらうとして、俺はまた自室に戻り席に着くと小さく息を吐きだした。フィリップは確かに単純な男だが一応男爵の息子なのだ、それなりの教育など受けていたはずなのになぜあそこまでの愚行に走ったのか。それに気がかりなことはもう一つ。
つい先日とある女子生徒と廊下の角でぶつかった。なぜこうもぶつかる、と顔を歪めたかまたしても相手は廊下に尻を付き体勢を崩してしまったため手を貸した。今度はその手を取られ、立ち上がった女子生徒は下から俺を見上げて礼を告げた。どうやら新入生だったようだが入学式直前で風を引いてしまい、いまいち校舎内のことがわからないとのこと。
「すみません、あの、よければ案内してくださると助かるんですが……」
控えめで大人しそうな女性だった。遠慮がちに聞いてくる様子は他の男ならば喜んだだろう。だが俺の背筋には悪寒が走った。今まで幾度となく見てきた、その瞳の奥にある欲深さ。一見普通の女子生徒に見えるにも関わらず確かにそれはそこにあった。
ならばこの接触も偶然ではないだろう、そう踏んで学園内の案内は断った。俺に聞くよりも教えてくれる生徒は他にいると。何なら同じクラスの者に聞いたほうが効率もいいだろうに、なぜわざわざという言葉も付け加えた。そこまで言うと彼女は少しだけ眉を下げてすんなり引いた。健気なように見えるが、その実何を考えているかわかったものではない。
それからそれとなく、向こうからの接触が増えたのだ。ぶつかった件があったせいで彼女が俺に挨拶をしてくる口実を与えてしまった。こちらから聞いてもいないのに勝手に名乗られ俺の名も聞いてくる。しかも周りから見たら執拗に、ではなく遠慮がちに功名に。俺は例え自分の評価がくだらない噂で下がることなど気にしていなかったため、名を教えることはなかったがこの国の王子だ。相手は簡単に知ることができてしまう。
「すみません、王子様とは知らなかったのです。数々のご無礼、申し訳ございませんでした。レオ様とおっしゃるのですね」
彼女が呼ばない名で俺を呼んでくる声に、虫唾が走った。
もう俺に接触してくるな、大人しい振りをして虎視眈々と何かを狙っている瞳に吐き気がする。久々に感じる過大なストレスに、彼女が婚約者として如何に俺の盾になってくれていたのか痛いほど身に沁みた。俺が気付かないところでも周りの貴族たちにそれとなく牽制していてくれていたのだろう。
それと同時に、普段どれだけ俺に気を遣ってくれていたのかも思い知った。俺が嫌がることは一切せず、淡々と傍にいてくれたのだ。
「クロード」
「はいなんでしょう、レオ様」
名を呼べばすぐに現れる、俺の数少ない信頼できる者。クロードはどこからともなく現れ、俺の前に跪いた。
「フィリップについて調べてくれないか。それと、あの女についてもだ」
「承知致しました。ところでレオ様」
「何だ」
「カトレア様はあの花がレオ様からのものだと、信じていないようです」
楽しげににっこりと笑顔を向けてきたクロードに顔を引き攣らせる。わざわざ教えてくれなくてもいいことをクロードはよく教えてくることがあった。しかもそれは彼女に関することだ。「レオ様とお喋りしたあと疲れてましたよ」や「本屋に行こうとしてやめたそうです」など。前はいちいち報告してくるなと鬱陶しかったが、今は別の意味で鬱陶しい。
「いやぁ、はは! ツケが回ってきて面白いですねぇ!」
「いいからさっさと調べてこい」
「そんなに怒らないでくださいよ。俺は本当のことしか言ってませんよ?」
「早く行け!」
声を荒げるとまたしても笑い声を上げながらクロードは姿を消した。俺をからかっている暇があるならさっさと仕事をしろと深々と息を吐きだした。
クロードに調べさせたりしているからと俺が学園を休めるかと言ったら、そうでもない。彼女が休んでいても俺は登校しなければならないし授業も受けなければならない。エディにもクロードとは別に動いてもらっているため、本当に盾となってくれる人物がいない。そうなるとここぞとばかりに近寄ってくる相手が、あの女子生徒だった。
「レオ様、最近お一人なんですか?」
許した覚えもないというのに勝手に呼んでくるその生徒に無表情で貫く。視線も向けたくはないが女はさり気なく視界に入る。ようやく学園に慣れたことと、友人もできたと報告してくるがどうでもいい。それよりも彼女の頬の腫れが減ったか、熱が引いたかのほうが気になる。あとでエディに聞いてみるか、と視線を動かすとそこは噴水のある中庭だった。
少し前に、彼女が友人と一緒に昼食を取っているところを目にしたことがあった。学食もあるというのにわざわざ持ってきたのだろう、膝を上で広げて食事を友人と交換し、笑っている姿。俺は今まで一度もあんな笑顔を向けられたことがなかったなとその風景を眺めた。人間嫌いを発揮していなければ、今頃彼女はああやって俺にも笑顔を向けてくれていたのだろうか。
「レオ様、あの、私クッキー焼いてみたんです。た、食べてみませんか?」
「他人が作ったものを口にしない」
「あっ、そう、ですよね……」
落ち込む姿を視界に入れることなく、もし彼女が何かしら作ってもってきてくれたのならば口にするかもしれないと中庭から視線を外した。ただ彼女が料理ができるという話を聞かないため、作ったとしても前衛的なものかもしれないが。それでもどんな味がするのか、少しだけ気になった。
「レオ様、お知らせです」
学園内で一人でなったところでそんな声が聞こえ、陰のほうに移動する。目の前に現れた人物に驚くことはなく「話せ」と手短に続きを促した。
「ウィンクル家の息子、どうやらとある女子生徒とそれはものすんごく仲良くしていたらしいです。見事にたぶらかされたんですねぇ」
「その女子生徒の名前は」
「リリー・ナスターシャ、ですよ」
「……なるほどな」
「レオ――クロードもいたのか」
「やぁ」
丁度エディも合流し先程の報告をもう一度してもらう。一体どういう女子生徒か、と言うエディの言葉に外見の説明を軽くすればその表情を若干歪めた。どうやらエディにも接触してきたらしい。しかもそのときの言葉が校舎の案内をしてほしいという、俺のときとまったく同じものだったようだ。
「あともう一つ、お知らせしたいことが。彼女が近付こうとしていた人間はどうやらウィンクルの息子だけではないようですよ」
シミオン・オーキッド、その名を聞いてエディと共に顔を顰めた。最近あまり目にしていなかったがオーキッドの息子は魔法の扱いに長けていてかなり優秀なのだと昔から耳にしていた。この学園でもその学部に在籍しておりそれなりの成績を収めていたようだが。前々から俺以上に人間関係を不得意としているところがあると聞いたが、その男にまで接触したというのか。
「なぜシミオン・オーキッドにまで……」
「簡単な話だ。金と力、その両方を手に入れようとしているのだろう。それがあれば地位がなくても登り詰めようと思えば登り詰めることができる」
「それならレオ様にまで言い寄るのは納得できますよ。手に入れることができれば一気に頂上だ」
まぁそれは簡単なことじゃないですけどね、と軽口を叩くクロードにエディは肘で軽く小突く。ほんの少し考え込み、顔を上げてそれぞれに視線を向ける。
「クロード、そのままフィリップの監視をしていてくれ」
「了解しました」
「エディは極力彼女の傍にいるように」
「レオの隣を奪おうとするならばカトレアは邪魔だろうからね。だけど、婚約破棄したほうが早くないか?」
「そういえばレオ様フラれてるんでしたね!」
今度こそクロードはエディから頭を思い切り叩かれた。痛がる振りをしているが隠密として活動しているクロードだ、身体はかなり鍛えられている。あれくらいの力で叩かれたところで痛くも痒くもないだろう。
エディの言う通り、俺の婚約者という立場のせいで恐らく今後彼女はその身を狙われる可能性が高い。婚約破棄をした瞬間俺と彼女との関係性はなくなり狙われることもなくなる。と、思いたいところだが。エディのほうの報告を聞いてみると彼女のおかしな噂が流れたのはあの女が学園に通うようになってからだ。
「今婚約破棄したとしても、危害を加えないという確証はない。恐らくあの女はアルストロ家が一体どういう家なのか知らないだろうからな」
貴族の娘であれば、アルストロ家の手腕をよく知っているためそう簡単に喧嘩を売ろうとはしないはずだ。なぜならばどのような報復が来るかわかったものではないから。それを知っていながらアルストロ家を貶めようとする命知らずはまずいない。
だがそれは貴族だからこそ知っていることだ。平民は貴族の事情などそう詳しくないはず、だからこそ名家を聞いたところでピンと来ないだろうしどんな報復が待っているかもわからない。
「野心を持つのはいいけど、その辺の事情を知らず手を出すなんて命知らずだねぇ。ま、俺の知ったこっちゃないけど」
クロードはそう言い捨てるとあっという間に姿を消し、その場に残ったのは俺とエディだけ。丁度予鈴も鳴ったため教室に戻ろうとする前に、エディを呼び止める。
「……中庭にテーブルと椅子を準備しておくように」
「はは、ようやく関心を持ったのかな?」
「婚約者としての義務だ」
彼女を気遣うのも、守ろうとするのも。俺の婚約者でなければ何事もなく学園生活を過ごすことができたであろう彼女への、義務。
「義務……義務か。まったく関心を持たないよりはマシだね」
何が妙に言いたげだった瞳であったが結局エディはそれ以外何も言葉に出さず、極力彼女の傍にいるよと言い残し先に歩き出した。たまに彼女のことに関しては言い淀むことがエディにはある。それにクロードも、何かと彼女を気に入っている。だからこそ軽口を叩きながらもあの女のことを警戒しているのだろう。
学園生活だけは何事もなく過ごせるかと思いきやそうではないようだ。こんなところでまで駆け引きなど面倒なことはしたくないが、それこそ今まで彼女から逃げ続けてきた罰なのだろう。
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