20:蓮華の花言葉
チャイムが鳴って先生が退室し、昼休憩に入るとすぐに沙良は水色のランチバッグを持って席を立った。
歩くたびにダンスで酷使してきた膝の関節や脚の筋肉が痛むが些末事だ。
「秀司」
近づいて呼びかけると、化学の教科書やノートを片付けていた秀司は視線を上げてこちらを見た。
「何?」
表情は無い。
思わず怯みそうになったが、沙良は負けじと一歩足を踏み出して言った。
「お昼一緒に食べない?」
普段沙良は瑠夏と食べているが、それは沙良が弁当を持って彼女の席へ行くから一緒に食べるという流れになっているだけだ。
沙良が彼女の元へ行かなければ瑠夏は一人で勝手に昼食を取るだろう。
来るもの拒まず去るもの追わず。
他人と無理に慣れ合おうとせず、我が道を行く瑠夏のスタイルを沙良は好ましく思っていた。
「大和と食べるから」
秀司の返答はそっけなかった。
「そう……」
『ごめん』の一言もつけてもらえなかったことが沙良の胸を痛ませた。
秀司からこうもはっきり拒絶されるのは珍しく、これまでどれだけ彼の優しさに甘えてきたのかを思い知る。
(私って、秀司に甘えっぱなしだったんだな……自分から誘えば秀司は乗ってくれるはずだ、なんて、とんだ思い上がりだわ)
沙良はカップケーキの入ったランチバッグをぎゅっと握った。
(時間が経てば秀司も少しは機嫌を直してくれるかも……放課後まで待っても渡すタイミングが見つからなかったら、これは私が食べよう)
「無理言ってごめんね」
すごすごと引き下がろうとしたそのとき、隣でその様子を見ていた大和が言った。
「秀司。俺のことは気にしなくていいから花守さんと食べなよ。せっかく彼女が誘ってくれたんだ、そこは素直に乗るのが男ってもんだろ」
隣を見れば、大和は『全くこいつらは仕方ないなあ』という顔で苦笑している。
その表情からして、大和もさきほどのやり取りを遠くから見ていたらしい。
「『俺以外の奴にケーキを作らない』って約束してたなら問題だろうけどさ。そもそも花守さんは秀司からそんなこと言われてないんだろ?」
大和と秀司の顔を見比べつつ、恐る恐る頷くと、秀司は無表情を崩して不機嫌そうな顔をした。
「言わなくてもわかるだろ、それくらい」
「! わからないわよ!? 男子に渡したならともかく石田さんは同性じゃないの、そんな嫉妬しなくてもいいじゃない!」
「あっそう。じゃあこれから沙良に渡すお菓子、クラスの男子全員に配るから」
「え、マジで? やった、タダで高級菓子が食える」
話を聞いていたらしい――最も、この距離なら聞こえていて当然なのだが――山岸が振り返り、にんまり笑って自身の椅子の背もたれに片腕を乗せた。
「それはダメ!!」
沙良は慌てて言った。
「なんでだよ? 異性じゃなきゃいいんだろ?」
「わかった!! もう秀司以外の誰にもケーキを渡したりしない!! だから止めて、ね!?」
秀司の肩を掴んで懇願する。
「なら止める」
ようやく機嫌を直したらしく、秀司は笑って鞄から茶色のカードケースを取り出し、ズボンのポケットに入れた。
「あ、それ」
食券を買うためのICカードが入っているのだろうカードケースに気づいて声を上げる。
あの革のカードケースは沙良が日曜日にプレゼントしたものだ。
彼の私物は大抵がブランド品なので、たった――といっても、沙良にとっては大金なのだが――三千円のカードケースを気に入ってもらえるかどうか不安で仕方なかったのだが、どうやらちゃんと使ってくれているらしい。
「使ってくれてるんだね」
自然と口元が緩む。
「そりゃあ使うでしょう。彼女からのプレゼントだよ?」
飄々とした態度でそう言って、秀司は立ち上がり、沙良と一緒に廊下へ向かった。
「……タダで高級菓子……」
「諦めろ」
教室を出る間際、山岸と大和のそんなやり取りが聞こえてきて、沙良は振り返った。
(あれ)
沙良の目を引いたのは大和に慰められている山岸の姿ではなく、教室のほぼ中央にいる瑠夏だ。
歩美と里帆が瑠夏に話しかけている。
にいんちょがいないならあたしたちとご飯食べない、とでも言っているのだろうか。
瑠夏は嫌なことは嫌とはっきり言うタイプだ。
そんな瑠夏が頷くのを見た沙良は微笑んで前方に向き直った。
「なんだ。俺の分もあったのか」
生徒たちの賑やかな声と、食欲を刺激する様々な匂いが立ち込める食堂の二階。
中庭に面した窓際、二人掛けの席で秀司は拍子抜けしたような声を上げた。
彼の視線の先にあるのは沙良が差し出したカップケーキだ。
小麦粉とバターと卵で作ったプレーンな生地の上にコーヒー味のバタークリームを乗せている。
「ええ。うちの店では頑張ってくれてるし、ダンスの練習にも付き合ってくれてるから、日頃のお礼にと思って。実は石田さんたちに渡したものより大きいのよ」
「ふうん」
秀司はなんだか嬉しそうだ。
「俺の分もあるならそう言ってくれれば良かったのに。いただきます」
秀司はビニール袋に結んだリボンを解き、カップケーキを指で摘まんで頬張った。
「ん、美味しい」
顔を綻ばせる秀司を見て、沙良はふふんと得意げに笑った。
この顔が見たくて沙良は菓子作りの腕を上げたのだ。
秀司に喜んでもらえなければ意味がない。
「なら良かったけどさ。言える空気じゃなかったでしょ? まさか秀司があんなに怒るとは思わなかったわよ。秀司っていつも飄々としてるし、あんまり物事に執着するほうじゃないとばかり思っていたのに、意外と嫉妬深いのね」
そう言うと、秀司の表情が微妙に変化した。
(あ。余計なこと言ったかしら)
冷や汗が頬を伝う。
「……俺だって、どうでもいいことなら怒ったりしないよ」
ややあって、不機嫌そうな調子で彼は言った。
「沙良のケーキは俺だけが食べられる、俺だけの特権だと思ってたのに。あっさり他人に振る舞われたら、喜んでた俺が馬鹿みたいじゃん。なんだ、特別だと思ってたのは俺だけかって」
秀司は紙カップを半分だけ剥ぎ、それまでより大口で噛みついた。
悔しげなその顔を見ている沙良の口元には隠しきれない笑みが浮かんだ。
「なんで笑うんだよ」
口の中のものを嚥下して、ジト目で秀司が沙良を睨む。
「だって」
沙良はクスクス笑って、テーブルに腕を組み、その上に自分の頭を乗せた。
「私のケーキをそんなに喜んでくれてたんだなって思ったら。やっぱり嬉しいじゃない」
(頑張ってきて良かった……)
うまく膨らまず、潰れたシューケーキのようなものになり果ててしまったシュークリーム、なかなか理想の味にならずに何度も配合を変えて作ったチョコレートケーキ。
これまで積み重ねてきた試行錯誤の日々を思い出して、沙良はテーブルに突っ伏し、ぐっと拳を握った。
喜びを噛み締めた後、沙良は起き上がって姿勢を正した。
「もう他人にケーキは作らないわ。何か作るとしても、ケーキ以外のものにするって約束する」
片手をあげて宣言する。
「それはさっき聞いた。ごちそうさま」
カップケーキを食べ終えて、秀司は水の入ったコップを掴んで飲んだ。
その様子を見ながら、瑠夏に言われた言葉を思い出す。
――ねえ沙良。二人で『夜想蓮華』を踊りたいと言ったのは不破くんなんでしょう。蓮華の花言葉を知ってる?
日曜日の夕方、レンタルスタジオからの帰り道で瑠夏に尋ねられた沙良は、家に向かう電車の中で蓮華の花言葉を調べてみた。
『あなたと一緒なら心がやわらぐ』『私の幸せ』――その言葉を見た瞬間、胸が鳴った。
二人で踊る曲の名は『夜想蓮華』。
まるで、『夜に貴女を想う』とでも言われているかのようではないか――。
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