06:今日から私が偽彼女
「………………偽彼女?」
握力を失った手からフォークが落ち、軽い金属音を立ててテーブルに倒れる。
「そう。偽彼女」
固まっている沙良を興味深そうに眺めつつ、秀司は語り始めた。
「そもそも彼女がいるって嘘ついたのは、毎日のように学校帰りに待ち伏せしてくる他校の女子の告白を断るためだったんだよ。夏休みに偶然電車で俺を見かけて一目惚れしたとかで、何回断ってもしつこくてさ。こう言うと自慢に聞こえるかもしれないけど、イケメンって大変なんだよね。ストーカー被害も受けたし、面倒なトラブルにも巻き込まれたし」
秀司は肩を竦め、ブラックのアイスコーヒーを一口飲んだ。
入学当時、秀司が沙良を含めた女子全員に冷たかった理由がわかった気がした。
恐らく秀司は善意と愛想を振りまいたせいで酷い目に遭ったことがあるのだ。
中学一年・二年とも彼と同じクラスだった歩美も証言していた。
中学時代の秀司は優しくて、皆のアイドルだった。
だから高校に進学してまた同じクラスになったときは驚いた、まるで別人みたいだった――と。
「委員長が呆けてたとき、俺は他のクラスの女子に『文化祭一緒に回らないか』って誘われてたんだ。文化祭が近づくにつれてそういうお誘いも増えてくるだろうし、なんかもういちいち口実を作って断るのも面倒くさいから、期間限定の偽彼女を作ることにした。委員長なら困ってるクラスメイトの頼みを快く引き受けてくれるかなって思ったけど、現実はそんなにうまくはいかないよな。俺が嫌いなら無理にとは言えないし――」
「ねえ、ちょっと待って」
焦燥に駆られて呼びかけると、秀司は口を閉ざしてこちらを見た。
「私がダメなら他の子に頼むって言ってたわよね。参考までに聞きたいんだけど、その、具体的に――誰に頼むつもり?」
自分でも一体何の参考にするつもりなのか意味不明なのだが、どうしても聞き出したくて沙良は必死だった。
「んー。姫宮さんとか?」
「!!」
同じクラスの姫宮美琴は黒髪ロングの正統派美少女であり、性格も温和で優しい。
偽彼女として交流していくうちに本当のカップルとして成立してしまう可能性は十分にあった。
(え。これやばくない? やばいって。やばいやばいやばいやばい……)
激しい動揺により思考力が低下し、語彙力が消失した結果、『やばい』しか出てこない。
(どどどどうしよ。いや別にカップルが成立したって私には何の関係も――いや、何馬鹿なこと言ってるの、関係大ありでしょ。カップルになったら彼女に配慮して私とこうして二人だけでお菓子を食べることもなくなるよね? 最悪、付き合い自体断ち切られるかも――嫌だ。そんなの嫌だ!)
「――ええと」
沙良は咳払いをし、後ろ髪を払った。
「不破くんは誰とも付き合う気がないのにモテて困ってるのよね。困ってるクラスメイトを助けるのは委員長としての義務だし、そういうことなら仕方ないわ。不本意ながら私が偽彼女役をやっても――」
「いや、不本意ならいいよ。」
秀司はバッサリ一刀両断。
ピシッと、沙良は後ろ髪を払うポーズのまま凍り付いた。
「え? いや、あの、でも――」
高飛車な態度はどこへやら、一転してオロオロし始めた沙良に向かって、秀司は笑顔でひらひらと片手を振った。
「無理に付き合う必要ないから。姫宮さんがダメなら他の子に頼むし、本当に気にしないで」
「え、あの、そんな」
(このままじゃ本当に不破くんが誰かとカップルになってしまう!!)
身体中から汗が噴き出し、高速で回転する思考回路はもはやショート寸前。
狼狽している沙良を無視して、秀司はにこにこしながら胸の前で両手を合わせた。
「横溝さんとか田中さんとかもいいよね、可愛いし。そういえばおとつい告白してきた一年の子も可愛かったな。あの子なら頼めばすんなりOKしてくれそう。性格も素直そうで良い子っぽかったし、文化祭の雰囲気に流されてそのまま付き合っちゃうのもありかも――」
「………………っ、待って!!」
沙良は跳ねるように立ち上がった。
彼の元へ行く時間すら惜しく、飲食物を横に退けて大きく上体を倒し、テーブルに腹をくっつけ、両手で挟むようにして秀司の手を握る。
「何?」
こちらを見返す秀司の瞳は凪のように静かだ。
沙良にもわかっている。
ここが正念場だ。
「……私にやらせて。偽彼女役」
羞恥に頬を染めながら、それでも目を逸らさずに言う。
「それは、委員長だから? 義務として、仕方なく?」
秀司に表情は無い。
意識して表情を消しているようにも見える。
「いいえ。委員長としての立場なんて関係なく、純粋に、私が、その役をやりたいの」
彼の両手を包み込む手に力を込める。
顔は熱く、心臓は口から飛び出してしまいそうだが、それでも伝えたい言葉があった。
「私じゃ力不足なのはわかってる。私は美人じゃないし学力でも不破くんには敵わない。でも、頑張るから。いいえ、頑張らせて。私きっと、不破くんと並んで立ってても恥ずかしくない人間になるから……お願い」
切実に訴えると、ふっと秀司の頬が緩んだ。
「馬鹿だなあ。委員長はいまのままで充分魅力的なのに。だから俺は頼もうとしたんだよ?」
秀司は両手を引いて沙良の手の中から逃れ、改めて沙良の右手を握った。
「引き受けてくれてありがとう。よろしく」
秀司の顔に笑みが浮かぶ。
それを見て、緊張に強張っていた沙良の顔も綻んだ。
「ええ」
しっかりと手を握り返してから椅子に座り、上機嫌で残っていた栗のタルトを平らげる。
すると、それを待っていたように秀司が言った。
「沙良って呼んでいい?」
不意打ちのように名前を呼ばれて、ぎょっとする。
「……いまなんて?」
「いや、付き合ってるふりをするなら委員長って呼び方だと他人行儀かなと思ったんだけど。嫌なら委員長のままで行くよ」
「……いいえ、少し驚いただけ。いいわよ。沙良で」
「俺のことも秀司って呼んでみる?」
「しゅ……秀司くん」
頬が熱を帯びるのを止められない。
「呼び捨てでいいよ」
「……秀司」
「そうそう。抵抗がないならお互いにそれでいこう」
秀司は綺麗に笑った。
彼自身には全く抵抗がないことがわかって、爆発的に心拍数が上がった。
顔を合わせていることに耐えられなくなり、眼鏡を外してテーブルに置き、両手で顔を覆う。
触れた頬は燃えそうなほど熱かった。
「沙良?」
不思議そうな声がする。
「なんでもない」
ぶんぶんと頭を振り、頬を押さえたまま身体を90度回転させて姿勢を低くする。
そんなことをしても秀司の視界から逃れられるわけがないのだが。
(ひええええいいのかなあ本当にいいのかなあ私が、私なんかが偽とはいえ、約一ヶ月の期間限定といえ、不破くんの彼女役なんて!! どうしよう、夢でも見てるのかも? ああこの際夢でもいい、夢ならどうか覚めないで。だって本当、ああもう本当にどうしよう、彼女とか! 彼女とか!! きゃー!!)
身悶えていると、小さな笑い声が聞こえた。
顔を上げれば、秀司が堪えきれないといった様子で笑っていた。
「……なんで笑うのよ」
背筋を伸ばして眼鏡を取り上げ、顔に装着し、身体ごと彼に向き直る。
ぼやけていた視界がクリアになり、笑う秀司の顔もよく見えた。
「可愛いなって思っただけ」
「!! か、可愛くなんてないし! 私なんかちっとも、全然可愛くないし!」
「はいはい可愛い可愛い」
「だ、だから可愛いとか言わないで!! 自分のほうが超絶美人なくせに!! 本物の美人に可愛いとか言われても嫌味にしか聞こえないから止めて!!」
「えー、そんなつもりないのに。俺はただ事実を言ったまでで」
「いいから止めてってば!! これ以上言うなら偽彼女役を下りるわよ!?」
「それは嫌だけど、それって沙良的にも大丈夫? 俺が他の子とイチャイチャしても精神崩壊しない?」
「……。大丈夫……だもん……」
「あ、泣いた」
「泣いてません!! 断じて泣いてませんから!!」
「沙良ってほんと俺のこと好きだよね」
「す、好きじゃない!! 何度も言うけど、ほんとに、断じて好きとかじゃないから勘違いしないでっ!!」
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