低き者

「なぁ、一緒に逃げよう」




私はこの生活が、不満足だとは思ってもいなかった。


人並みに食事もあって、寝床も調達されていて、風呂にも入れて、ただ少し、仕事が多いだけ。

生きる分には普通だと思っていたし、働かざるもの食うべからずだし。


施設の前に倒れ込んでいた男は旅人らしく、一度抱擁してからよく訪れてくるようになった。

その時の、現実か仮想か私には知り得ないお話に、ひどく心を打たれてしまった。


「お前は外の世界を知らない」


言い当てられても、肯定しかできない。

私は生まれて、拾われるまでを過ごした記憶もない世界しか見たことがない。



「外は自由だ。だだっ広い草原を駆け巡ることも出来る。

こんなちっぽけな、差別に巣食われた要塞なんて本当につまらない」


『そう思うなら、どうして此処に遊びに来るの?』


「じきに分かるさ」



子供のまま大人になってしまった、私は無知だった。

どろどろに溶けた甘さも、優しい痛みも、はじめての体験。


夜更けに窓に現れて、日も昇らぬ内に帰っていく彼との間で作られた秘密は、隠し通さねばならなかった。

嘘を塗りたくる毎に、私に学を教えてくれる人は居なくなった。

大人でも子供でもない私は、酸欠と空腹と嗚咽の中で、夜を待った。



手を引かれて、敷地の外に出たかと思えば彼の姿が消えた。地面に転がっていただけだった。

追っ手が来るのも視界に入れず、辿り着いた自由な草原で、自身の喉元にナイフを突き刺した。


涙に覆われた体験よりも、ずっと痛みは感じなかった。




夢から覚めたかのように、待ちに待った再会で、私は顔を歪ませた。

昔の彼とは立場が逆で、私が知ってる、彼が知らないこと。




『ねぇ、一緒に逃げましょ?』


欲と愛を、知ってしまったのだ。

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