第21話 第七章 調練
各パートの担当が、自分の楽器のコンディションの維持やスタジオ内、その他諸々の楽器に関連する機材の設定をするのは当たり前の話で、ボーカルを担当している僕は、マイクの音をスピーカーから出す為の準備を行わなければならなかった。それに用いられるのがミキサーという機材で所謂出力装置なるものらしい。ミキサーにマイクをコード(専門用語でシールドという)で繋ぎ、そのミキサーからスピーカーへと繋ぎ、音を出すという作業があるのだ。
文章に書けば簡単な事なのだが、件のミキサーという物には中途半端に右や左へと回る摘みや、何かを差し込まなければならないらしい穴や、上げたり下げたりできる摘みの横には訳の分からない単位が書かれている。各種ボタンが腹立つくらい規律良く並べられている訳で、機械音痴の僕にしたら見るだけで思考停止してしまう程のものであった。
以前もスタジオスタッフから講義をしこたま受けてはいたのだが、なれない場所での緊張のせいなのか、自分の頭が悪いのか、説明の内容がさっぱり理解できないでいたのだ。
焦っている僕の姿を見て「慣れるまでは大変だと思うけどすぐにできる様になるから大丈夫だよ。」と嫌な顔もせず温かい言葉をかけてくれるメンバーの心遣いだけが何よりの救いであった。
しかし今日の僕は違う。なんとしてもこの機材を使いこなさなければ話にならないのだ。今回は細かなところまで質問しながらメモを取り、何とか理解する事に努めようと心に誓っていたのだった。
スタジオスタッフを呼んで、これが最後だと思われる講義を受けた。
説明の中で気になった事は事細かく質問し走り書きをする。そして言われるように工程を進ませる。各種名称の意味を聞き、またメモを取りミキサーへと手を伸ばす。
そしてまた質問をしてメモを取った。
なるほど…。ようやくこの機材の扱い方が解かってきた。
とりあえず説明して頂いた事を改めて、自分の力でやってみたくなったので設定した箇所を全て初期化させて「後は自分でやってみます」と言った。するとスタッフは「頑張ってくださいね」と笑顔で言ってそそくさとスタジオを後にした。改めてミキサーへ向かい、ぶつぶつと工程を口ずさみながら作業をした。
「えっと…。まずはマイクからのシールドをミキサーのインプットへ挿す。ほいで出力のアウトプットにステレオのシールドを指してと、ほれからスピーカーのインにシールドを繋ぐ…。ほんでから電源を入れる…と」
するとぷつっと音がしてスピーカー越しから微かに僕の声が聞こえてきた。しかし今の状態では周りから鳴り響いている音に埋もれていてうまく聞き取れない。そこでミキサーの設定なのである。
「出力の左右を決めるパンはセンターにと、音量を決めるフェイダーは0で置いといてと…。」
順調に事は進んでいた。しかし問題はここからで、スピーカーから聞こえる声を他の音に押し潰されないほどの抜けのよいものに変えなければならない。俗に言うイコライジングというものだ。
これには三種(ハイ・ミドル・ロー)とあり、各家庭にあるステレオコンポにも搭載している音質を変える機能と説明したら解かって頂けるだろう。「あー」と声を出しながら周りの音で埋もれている声をイコライジングしていく。頃合を見計らって音量を設定するフェイダーをプラスの方へ上げていくと、少しハウリング音がスピーカーから鳴り出したのでフェイダーを微妙に下げながらハウリングが鳴らないぎりぎりの所で止めた。そして一つ声を出すと、周りの音に負けない声がスピーカーから聞こえてきた。
最後に声に色づけする為にリバーブというエフェクトを設定した。これは音に残響を加えて、より深みを出す機能であり、平たく言うと風呂場で叫ぶと声が響く所謂アレである。ボーカルを初め、各パートには欠かせないエフェクト機能の一つだ。
余談ではあるが残響系エフェクトには他にもディレイというのがあり、これも平たく言うと山彦効果なるもので、リバーブとディレイをうまく組み合わせたエフェクト機能がカラオケでも御馴染みのエコーというエフェクトになるらしい。ここまで詳しい説明をくれたスタッフさん、手間を取らせてごめんなさい。そしてありがとう。
再びマイクに声を通すと、少しハウリングが鳴り始めたので少しまたフェイダーを下げて音を征した。これで一通りの作業は終了という事になる。
初めて一人で出来た訳で、感無量な想いで項垂れ大きく息を吐いた。そして顔を上げ周りを見渡すと、すでに準備を済ませたメンバー達の暖かな笑顔があった。より熱い視線を感じてその方向へ目を向けると、眼を潤ませながら満面の笑顔で親指を立てるイータダの姿があった。ベンチで見せた彼の姿と被り、さすがにここは我慢できずに噴出してしまったが、僕の姿を気にも留めずに彼は再びドラムを叩き始めた。それに釣られてか皆も各楽器を弾き始める。
安堵感に包まれながらもどこか違和感がある。思わず時計を見るとスタジオ開始から四十分経過していた。是非があって今に至る訳で、それにしては時間が経っていない現実に驚いたのだが、もっと僕を驚かせたのはスタジオ内に未だトースの姿が無い事だった。
その現実を恰も普通の如く接しているメンバーに憤りを感じた僕は、感情任せにマイク越しに叫んだ。
「じゃぁけぇんんんんっ!!トースはなんでおらんのよぉぉぉぉ!!!」
僕の叫び声にメンバーは不意に手を止めてスピーカーからリバーブによる残響音だけがスタジオ内に響いた。メンバー達はその声に何も応えず立ち尽くしている。
僕が苛立っていたのは時間に現れなかったトースに向けたものではない。ただ意味不明に平然を装っているメンバー達に向けたものであった。人がいるスタジオの無音ほど不自然なものはない。僕が発してしまった言葉で時が止まってしまったのだ。
僕は叫んでしまった事に対し後悔した。メンバーと目も合わせずしばらく視線を泳がしているとスタジオの外からドカッと大きな音が聞こえてきた。そしてガサガサと微かな音を発てながらこちらへと近づいている。
「やっと来やがった…」
智さんが息を吐くように呟くと同時にスタジオの扉が勢いよく開き、何故か誇らしげな顔をしたトースが姿を現した。メンバーの間をすり抜け、手際よくベースをアンプに繋いだ。
ギター担当の二人はギターとアンプの間に何か複雑に網羅している機材があったのだがトースはベースからアンプに直で繋いでいた(これを直アンというらしい)。そしてイコライジングの摘みを適当かと思えるほどすばやく設定し、ボンボンと一つ二つ音を鳴らして軽く頷いた。その姿を確認して智さんが話し始めた。
「えー。来たる八月三十一日に向けてのスタジオレッスンを始めたいと思います。今回もよろしくお願いします。」
そう言って頭を下げると他のメンバーも「よろしくお願いします。」と言いながら頭を下げる。こうして毎回練習がスタートされるのだった。智さんは何故か薄く笑っていた。
「トースの遅刻に関してようやく岡田君が気づいたみたいだから説明しておく。トース、以前はとてもでないほど聞いちゃいられない音作りしてたんだよ。そこで僕が何とかしろって怒鳴りつけた事があったんだ。そしたら彼はスタジオと同じアンプを買ったみたいで家で音作りの研究を始めたらしいんだ。」
トースの方をちらっと見てみるとまたもや何故か誇らしげに微笑んでいた。怒鳴られてアンプ買っちまうなんてどんな小心者なんだよと突っこみを入れたかったのだがここはぐっと堪えた。
「次のスタジオで音を聞いてみると格段に音の質が違う事が発覚したんだ。どうやら聞く話によると寝る間も惜しんで作ったとか…。スタジオを重ねる事によりいい音を作ってきたんだ。」
「で、それと遅刻するのは何の関係があるんすか?」
話はもっともらしいがやはり腑に落ちず、僕は即座に聞き返した。智さんは少し困った顔をした。
「いや、岡田君が言いたい事はよく分かる。先に説明しておくと、彼は大人数では音作りに集中できないようなんだ。それに寝ずにスタジオ直前まで音作りしているみたいだから自分で納得できるまで家で音作りしてもいいと俺の一存で決まったんだよ。いつもはここまで遅くはなっていないんだよ?岡田君は気づいていないようだけど…。」
その言葉が皮肉に聞こえて少し苛立ちを覚えた。確かに僕も機材の扱い方に未だ慣れておらず、今日も周りに対して貴重な時間を費やした。しかし僕は毎回遅刻せずにここへ来ていた。ただの仲良しバンドではなく、真剣に取り組んでいる集団がトースを擁護していると思えて仕方がなかった。
「えっと…。ほんならトースだけは遅刻は容認って事で?」
僕の言葉に不穏な空気が流れていた。先に僕が叫んだ時の空気と同じだった。やはり触れてはならぬ領域だったのか…。僕は少し考えていた。イータダのスタジオにたどり着いた時の焦り様。大ちゃんの智さんに対しての慕い様。そしてトースの遅刻。
思い返してみてもやはり腑に落ちなかった。運命を感じる間柄なら尚更である。僕はスタジオ内で今日初めて智さんと目線を合わした。
「なかなか君は鋭い所を突っこむね。ならばこう言えばどうだろうか?うだうだとスタジオで音作りして時間を食うより、彼が少し遅れてもメンバーが不快ない音で練習するのはどれだけ練習能力が上がるか…。」
僕は悔しい想いになり、智さんを睨みつけた。それを見て焦った表情になり言い返してきた。
「違う違う!今の言葉は少し誤解を招いたようだ。岡田に対しての皮肉で言ったんじゃない!君はまだ機材設定に慣れていないのだから遅くてもしょうがないじゃないか。しかも今日君はいち早くスタジオへとたどり着き復習をしていた事。そして慣れない機材に立ち向かって何とか理解しようと努めていた。力強く思えたよ!」
僕は思わず呆然とメンバーを見渡した。気づかれていないと思っていたのに実は僕の姿を確認してくれていたのだと思ったら少し恥ずかしくもあり、なんとなく嬉しかった。メンバー達が僕の方へ笑顔を向けている最中、智さんが次は瞳を尖らせてトースの方へ顔を向けていた。
「…ところで。君はいつになれば音が定まるんだ?」
それはとても深く冷たい。まるでナイフのように鋭い言葉だった。トースは目線も合わさず俯いていた。
「君はスタジオに入ってどれくらいになる?いくら僕が許したからといっても毎回遅刻しても良いとは言っていない事にいつ気づくかと思って黙っていたんだ。岡田が気づく事をタイムリミットとしてな…。」
トースは膝をぐらつかせながら後ずさっていた。
「君はそろそろ慣れてもいい頃だ。プロという志を掲げているのなら音作りという大義名分で時間ぎりぎりまで寝ているという言い訳がいつまでも続くとは思わない方がいい。分かっているんだぜ?」
その言葉を聞いて僕は色んな意味で驚愕して二人の姿を交互に見た。遂には立っていられなくなったのか、その場にしゃがみ込んで涙を流しているトースの姿とまるで鬼のような顔をして相手を睨みつかせている智さんの姿。
それはまるで蛇に睨まれた蛙の図式をそのまま表現しているかと思えた。殺伐とした雰囲気がしばらくその場に流れていた。
「トースよ…。分かったのか?」
彼は泣きじゃくりながら小刻みに何度も頷いていた。
「うぅ…。は はい…。分かりました…。す すいませんで…した。ううぅ…。」
「よし!分かったというなら信じよう。さぁ、立って気分を入れ替えようか。大ちゃん頼む。」
大ちゃんは頷くとトースに肩を貸して立ち上がらせた。涙は止まらないようでイータダがティッシュを手渡して一つ鼻を噛んだ。智さん自身もトースの前へと近づき肩に手を乗せて慰めていた。
「いつまでも泣いてちゃ先に進めないぜ?なっ!?」
またも何度も頷きながら涙を拭っていた。ふと気がついたのだが、智さんは笑顔の裏側にどこか焦りを感じているようだった。それもそのはず。ちらっと時計を見るとスタジオ開始時間からすでに一時間が過ぎようとしていた。すなわち練習時間は残り一時間という事になる。その事にリーダである彼が気づいていない訳がない。必死にトースをなだめているメンバーの姿がさっきの殺伐な雰囲気から温かなものに変わっていてなんとなく可笑しくて僕は声を上げて笑ってしまった。
「あーはっはっはっは!!!」
笑い声にメンバーは驚いた様子で僕の方を見た。
「いやいや。ごめんごめん!あーっはっはっはっは!!!」
何故か笑いが止まらなかった。そのやり取りを見ていると笑うしかできなかったのかもしれない。狂ったように笑っていた姿を見て、トースの声がした。
「何がおかしいんぞっ!!!」
笑いは止まらずトースの方を見てみると涙を眼に並々溜めながら少年のように拗ねた顔で僕を睨んでいた。
「いや…。あーっはっあっは!昔とやっぱ変わらんなって思てなぁ…。あっはっは!!」
言葉の意味が分からないままメンバー達は立ち尽くしていた。僕はようやく我に返ることができた。
「いや、トースとは皆が知っとるように昔から連れなんじゃけど、バンド始めてからちょっと変われたんかなと思とったんじゃけど、今日のやり取り見とったらやっぱ変わってないんじゃなって思たら笑けてきてな。」
大ちゃんと視線を合わせトースの肩から手を放し智さんが言った。
「まあ…。良くも悪くもこれがトースという人間なんだな…。トースよ、以後気をつけるように。はい話終わり!」
智さんはパンと手を一つ叩いて明るく声を上げるとまるで魔法が解けたかのように空気が和らいだ。「練習しよう!もう時間がないんだ!」と急かすような声を上げるとトースがぼそっと呟いた。
「と…智さん…。もう二時間スタジオ延長できんかなぁ…?迷惑かけたの俺じゃし、スタジオ代出したいんじゃけど…。」
その声に智さんは少し考えるように頭を抱えると瞬時に聡明な顔つきに変わった。
「とにかくスタジオ延長できるか受付に聞いてくるから俺抜きで慣らしで練習してて。じゃあ行ってくるからよろしく!」
そういい残し勢いよく出て行った。そしてサイド・ギター兼、リーダー補佐でもある大ちゃんが智さんの口調を真似るように少しおどけて言った。
「では、リーダーが帰ってくるまでコピー曲を慣らしで演ろうか。ここはステージ上だとイメージを忘れてはいけない…。」
さすがいつも共にいるだけはある。大ちゃんが真似る智さんの仕草や口調は完璧というくらいそっくりで皆はそれに対して笑いを堪えるのに必死だった。その姿を見て大ちゃんは八重歯を見せてにんまりと笑った。
「真面目にやらなきゃ怒られそうだ。んじゃ、リスキーから…。いくぜ!」
その言葉が終わると同時にスティックの4カウントが聞こえて、そして厚い音の壁が押し寄せてきた。慣らしという事もあり皆はリラックスした様子で演奏していた。しかしバスドラやベースからの重低音や、それらを支えるサイドパートの刻みだけでも充分と入って良いほどクオリティー高く感じて僕は何故だか震えた。
しばらく感じるまま演奏していると、区切りの良いところで智さんがスタジオへと入ってきた。顔ははちきれんばかりの笑顔である。
「いやぁ…。スタジオの外で聞いていたけどなかなかいい感じだよ!あ、スタジオ延長可能だってさ。」
慣らしで充分と言って良いほど気分が高揚していた僕達は智さんの言葉に喝采した。
「でさぁ、スタジオ代の話なんだけど延長料トースが出すって言ってたんだけど俺が出してもいいかな?」
メンバー内がどよめいた。少し遅れてトースが声を荒げた。
「なんでよ!智さん??迷惑かけたの俺なんじゃき…。」
智さんは制すようにトースの口を手で塞いでウインクした。
「そもそも、遅刻していいと許可を出したのは俺だ。そして今回まで放任していたのも俺だから今回は完全にリーダーである俺の不手際だ。だからその責任を取って俺が延長料を出す。異論は認めない!」
語尾を力強く言ってギターを手に取り皆を見渡した。トースはまだ何か言いたげだったが智さんの絶対的言葉に口を塞がれた。
全ては自分の性にしてメンバーを丸く治める。その器の深さこそがリーダーたる所以だと勉強させられ僕は感服し思わず最敬礼をしてしまった。
智さんは改めてメンバーを見渡してギターを構えた。
「では、改めてコピー曲を慣らしでやっていこうか。君達は今はステージ上にいる。そのイメージを忘れてはいけない。」
その言葉に先ほど真似をした大ちゃんが噴出した。それに釣られて皆も噴出して爆笑の渦に包まれた。
「いかん!ツボった!!!!」
「あーっはっはっはっは!だ 大ちゃん!!!!!」
「大ちゃん!似すぎじゃきん!あーっはっはっはっは!!!」
大ちゃんの立場も弁えず、馬鹿三人集は笑い転げていた。そんな大ちゃんも僕達までとはいかないが腹を抱えて笑っていた。
しばらくその情景を見渡していた智さんだったが、何かを悟ったのか大ちゃんの方を見て不敵に微笑んだ。
「君達…。笑い転げるのもいいが、この時間もスタジオの時間なんだよ?このままだとやっぱり延長料金割り勘にするか、この原因を作ったと思われる大ちゃんに払ってもらう事になるけどいいかい?」
その言葉に皆はぴたっと動きを止めた。大ちゃんは少し済まなさそうな顔をして智さんを見ていた。
「まぁいい。これからは本気モードだ…。いくぜ!!」
智さんの叫び声と同時に再びスティックの4カウントが聞こえ、リードパートも加わり先ほどよりも分厚く感じる音の壁が押し寄せてくる。それはもはや慣らしではなく皆がお互いの音に本気で噛み付いていた。
ドラムのハイスピード且つ軽快なリズムに絡みつくベース音の唸り。重低音の聞いたギターの刻みとそれを彩りながら脳内へと刻みつけるリフ。熱。音圧。そして毛が立つほどの感覚。
俺達のその熱い塊を会場に来ている人々に投げつけるのだ。しかもマシンガンのような速さで。
獣のような眼をした漢の群れがそこにあり、気がつくと僕も心のままに叫んでいた。
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