第6話 第二章 兆候

 何時間たったのだろう…。気がつくと部屋の中はすっかり暗くなっていた。


 とりあえず起立して足の力を確認した。まだ少し震えているようだが、なんとか立てなくもない。


 僕はまるで幽霊になったかの様に揺らめきながら静かにキッチンスペースへ行き、冷蔵庫から麦茶を取り出し、全て一気に飲み干して深いため息をついた。


 電気をつけ、テレビのスイッチを入れた時、時刻はすでに二十時を回っていた事を知った。


 その場に座り、別に番組を見る訳でもない。無機質な物をただ眺めているそんな感覚だった。ぼーっと一点を見つめていると、何度もお腹が鳴っている事に気がついた。やはりどんな状況でも腹だけは減るらしく、なんだか可笑しくなり軽く笑った。


 そして家の近くにある馴染みの鉄板焼き屋『ねびき』に行って食事する事にした。


 昔から両親とよく行っていた事もあり、学生の僕でもつけの効く唯一のお店である。『ねびき』というお店の名前なので値引きしてくれるのかと思いきや、値引き交渉に全然応じてくれない店主の態度を父親はいつも不満に思っていたらしい。


 我が親ながらナンセンスな話だ。


 お店に到着し、いつもの『広島風お好み焼き 岡田君スペシャル』をぺろりと平らげ、後で払いに来ますと一言の残し店を後にした。


 夜風がそよそよと僕を掠めていき、外灯の光が僕の心を静かに照らしてくれているかの様に思えた。


 玄関へたどり着き、鍵を開けて家に入ろうとすると、後ろから誰かが僕に近づいてきた。暗闇の中なので目を凝らしてじっと見てみると、そこにはうな垂れて俯いたトースがじっと佇んでいた。


 彼は唇をかみ締め、少し震えている様子だった。


「何?どしたん?」


 僕は特に驚きもせず、彼を冷たく見た。すると彼は深々と頭を下げて数秒無言になり、震えながらこう呟いた。


「…ごめん。」


 さっきの電話についての事なのか、それとも僕に対して今までの自身の態度についての事なのか、僕は彼の侘びの意味がよく理解できなかった。  


 いつもなら笑顔で事を治めるのだが、今回だけはそういう訳にもいかない。僕は彼に対して優しくなれる気持ちが極めて薄くなっている事に初めて気がついた。


「じゃけん何?」


 そう言い放った瞬間、彼はしくしくと泣き始めてしまった。


 彼の泣き顔なんて、出会ってこの方初めて見た訳で、僕はかなり驚き焦った。


「えっ?何?トースどしたん?泣くなって!」

 

 驚いて掛けた僕の声に、トースはすすり泣きながら懸命に答えた。


「うぅ…、本当はあの時な、バンドメンバーが側におったんよ。いつか忘れたけど岡田さんとあんまり話す事なくなったやん?実はちょっと寂しかったんじゃって。じゃけんバンドのメンバーにボーカルで岡田さんどない?って話出したんよ。んならな、歌聞かんと分からんって言われてな、カラオケ誘えって言われたんよ。岡田さん知らん人おったら絶対来んで言うたら、そんなん俺らおらん言うたらええやんって言われて…。そんな怒るとは思わんかったんよ。あぁ…。」


 それを言い終えると力尽きた様に前側へと倒れ込み、わぁっとまた泣き出した。そんな彼の姿を過ぎていく車のライトがチラチラと照らしている。僕は彼の背中にそっと手をあて、会話が途絶えていた日々の事を、ふと目を閉じて思い返しながら少し考えた。


『彼も彼なりに様々な葛藤や柵の中、生活してきて色々苦労もあったのだろう。こう侘びに来ているんだ、無理に意地を張る必要もない。そんな数ヶ月間の事なんて忘れてしまおう。』


 素直にそう思えて彼をそっと立ち上げた。彼に対して優しくなれる気持ちを取り戻し、人を許せるという大きな勇気を教えられた。


 持っていたティッシュを差し出すと、彼は「ありがとう。」と何度も言いながら止め処ない涙を拭っていた。

「分かった。分かったけん、泣き止んで。俺も悪かったわ。」


 彼は何度も頷きながらまた涙を拭った。


 一向に泣き止む気配の無い様子の彼に少し困ってしまった僕は、その場を改める意味も込め、話の中から少し気になった事を尋ねてみた。 


「んで、俺をボーカルでバンドに入れるって話は何?」


 少し落ち着いてきたのかしゅんと鼻を噛み、そっと天を仰いだ。


 真っ暗な大空に何を感じたのか、しばらくして一度深く息を吸うと、まだ少し涙を含ませた眼のままで僕を見た。


「前にな、岡田さんと何回かカラオケに行った事あるやん?俺上手いなぁ思いながら聞きよったんよ。バンド始めた時から岡田さん誘おかな思いよったんじゃけどなかなか言い出せんくて…。岡田さんが一回話しかけてきてくれた時あったやん?あの時にその事話そ思たんじゃけどいきなり急いで走っていったけん言えんかったんよ。それで俺から話する機会作ろ思てメンバーに話したらこんなんなって…。」

 

 また泣きかけた彼を優しく嗜めたが、またもや俯いて黙ってしまった。


 歌う事は以前から好きであったし、曲を聴く事も好きであり、また趣味でもあった。


 時代はバンドブームの真只中で、僕自身バンドに対して憧れた時期もあったが、意外とシャイな性格である僕がステージでどうこうしている想像をしただけで身震いしてしまい、一瞬でありえないと思えた。


 しかしこのまま断ってしまうのもトースに申し訳ないし、自分自身を変える兆候なのかもしれないと思った。


 他のメンバーに一度話を伺った後に決断しても遅くはあるまいと、彼にその旨を伝えると、トースはみるみるうちに明るい表情となった。


「メンバーに聞いてみてまた連絡するわ。色々ありがとうな。」


 そうと言うと彼は何回か手を振り、走って家へと帰っていった。


 『歩いて家まで来たんかいっ!』と一人寂しく突っこみを入れながら彼の後姿を呆然と見送った。


 彼の姿が見えなくなったのを確認して、なんとなしに残る疑問を感じながらも家へ入り、自分の部屋へと戻った。


 電気をつけベッドへ座ると、どっと疲れが押し寄せてきた。今すぐ寝てしまおうかとも考えたのだが、シャツがびしょびしょになるくらい汗をかいていたので、とりあえずシャワーだけは浴びる事にした。


 シャワーを浴び終え、牛乳一パック一気飲みを完了させた。後はもう何もしたくない。


 いつもより随分早い時間なのだが、今日は疲れを労い眠る事にしよう。

 なんとなく見え隠れしている兆候の兆しをかみ締めながら…。

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