第三十八話 芻


 普段は皇宮おうきゅうを警備する兵たちの演習場。

 其処は今、人払いがなされ、二人の皇子のための決闘場となっていた。

 見届け人は兄皇けいおう弟皇ていおう兄皇后けいこうごう。それから皇たちからの信頼の深い、古くから皇家に仕える数人の臣下のみ。

 空はどんよりとした鈍色にびいろで、不穏な気配を放っている。

 真冬の冷たい空気に、剣を握る手がかじかみそうだ。


「両者、覚悟はよいか?」


 弟皇は「準備」ではなく「覚悟」と、そう言った。

 この一戦に懸かっているのは単なる勝敗ではなく、正義の在り処。

 ランエン、どちらの言い分が正しいか、これで決まる。


 二人がそれぞれ頷いたのを見て、兄皇が手を上げた。


「では……始め!」


 その一声に、宛が剣を振り上げる。振り下ろされた切っ先は藍の肩を掠めた。

 返しざま、藍は剣を横に薙ぐ。

 体を後ろに反らして避けた宛が、驚いた顔で藍を見た。


 幸いにも大きな戦に見舞われていないこの国において、皇子が剣を振るう機会など、儀式の場の見世物でしかありえない。

 紅榴山こうりゅうさんの宮からほとんど出たことのない藍に、決闘など無理に決まっている。

 皓皓コウコウもそう案じていたようだが、人を相手に戦ったことがないという点において言うならば、宛とて条件は同じなのだ。


 皇家の男児のたしなみとして、宛は剣技の稽古を受けている。

 だが、それが児戯じぎに等しいものであると、藍は知っていた。

 皇家に仕える臣下たちは、ほんの少しでも皇子を危険な目に遭わせるわけがない。宛に剣技を教える教師でさえ。

 だから、宛が身に付けている剣技など、型をなぞっただけのお飾りにすぎない。


 一方で、そんなお飾りのような技術さえ、藍は持ち合わせない。

 六歳からずっと一人で過ごし、専門の教師どころか臣下や使用人からの手解てほどきを受ける機会のなかった藍は、文武のほとんどを独学だけで学んできた。


 しかし、たった十数日の短い間だけ。

 藍は、本気で剣の稽古を付けてもらったことがある。


 狼狽之国ろうばいのくにから皇都おうとへ向かう旅の間。毎朝、チノに剣の扱い方を教わっていた。

 チノの稽古は手加減こそあれ容赦はなく、何度も手足を打たれ、腹を突かれ、掌の皮が剥けるまで剣を振るわされた。

 長い年月を鳥籠のような宮に閉じ篭って過ごしてきた藍は、体力も腕力もいちじるしく低下しており、チノはそれを見越した上で、剣の稽古以外でも藍に荷物を背負わせ、馬に乗せずに歩いて旅を続けさせたのだった。


 毎日懸命に働いている民や、鍛錬を欠かさない兵たちにはおよぶべくもない。

 だが、あの短くも色濃い日々の中で、藍は格段にたくましくなった。

 宮に居た頃の藍しか知らない宛には、思いもよらないくらいには。


 だから、宛が油断している間に勝負を決めなければならない。

 動揺して構えを崩した宛の懐に、藍は躊躇ためらわず飛び込んだ。

 藍の剣が、宛の剣を弾く。

 きぃん、と高い金属音をたてて石畳に落ちた刃を、すぐさま足で押さえ付ける。

 それもチノに教わった心構えの一つ。

 これで宛は得物えものを失った。


「勝負あったな」


 弟皇が立ち合いの終わりを告げると、全身からどっと汗が吹き出した。

 たったこれだけのことで息が上がりきっている。情けない話だ。

 しかし、勝ちは勝ちである。

 驚愕に目を見開いたまま立ちすくむ宛の顔が、みるみるうちに色を失っていく。


「こんな、こんな形で、罪の在り処が決まるのか? 何が『勝利は常に正しい者の上に』だ!」

「宛。おまえは決闘を受け入れた。その結果は覆らない」


 弟皇が落ち着き払った様子で、宛をいさめる。


「暴力で相手を捩じ伏せた者が正しいだなんて、そんな理不尽がまかり通るなど、許されるわけがない! そうでしょう?」


 その場にいる誰も、宛の訴えに応えない。

 勝敗は決まった。藍の主張が認められ、宛の言い分は取り下げられる。

 決闘とはそういうものだ。

 皆が何処か釈然としないまま、それでも、決闘場には「終わり」の空気がただよい初めていた。


 そんな中。


「宛の言う通りです!」


 異を唱えたのは、兄皇后だった。

 兄皇の腕にしがみつき、震える指を藍に突き付ける。


スウを殺めた罪が、こんな形で許されていいはずがありません。私の芻を、貴方の娘を殺した忌子いみこが、この場にのうのうと生きているのですよ!」


 憎しみの色で濁りきった目で、藍を睨み付ける。

 其処にはかつて彼女に宿っていた慈愛の温もりはなく、ただ汚い物に向ける蔑みだけがあった。

 

(ああ、結局、そうなのか)


 その程度。そう、所詮、彼女にとっても、藍はその程度の存在だったのだ。

 忌子とうとまれた自分を今まで憐れみ生かしてくれた兄皇后への感謝が、信頼が、音を立てて崩れていく。


 誰も、藍を信じない。愛さない。

 その訴えに耳を貸す者はいない。

 藍が片羽かたはねの忌子だから。


 体から力が抜け、手の中から剣が滑り落ちる――その前に、藍は柄を握り直した。

 まだだ。まだ挫けるわけにはいかない。


「俺は、芻を殺していない」


 叫ぶ。

 たとえ忌子とののしる声に搔き消されようと、何度でも。

 怒りの炎は、まだ消えない。


 突然。

 藍の揺るぎない意志に呼応するように、空の雲が裂けた。

 

 細い光の筋が天から地上に差し込み、それを伝うようにして。

 一羽の鳥が、現れた。


「……あれは」


 神々しく、美しく、陽の光で染めたような金色の鳳凰。


 その意味がわからない者は、この場にはない。

 誰もが空を仰ぎ、その姿に息を呑んだ。

 宛は中途半端に口を開き、突如現れた鳥を見上げている。


「芻?」


 最初に呼んだのは、兄皇后だった。

 この国でたった一人、芻だけが持つ羽の色を、母である彼女は見間違えない。

 金色の鳥は一同の頭上を大きく旋回すると、ゆっくりと兄皇后の元に降り立った。

 頭を寄せ、母に頬擦りをする。


「芻なのね?」

「芻? 本当に?」


 兄皇が怖々と手を伸ばす手を静かに受け入れ、頭を撫でられた鳥は目を細めた。

 ひとしきり二人への親愛の情を示した後、首を巡らせ、金色の鳳凰は決闘場に立ち尽くす藍たちを見る。


「芻。芻。芻!」


 自失から覚めた宛が藍を押し退け、両手を広げた。


「来てくれたんだな! 真実を告げるために。僕の正しさを証明するために!

 さぁ、おいで。僕の愛しい片割かたわれ!」


 くるりと丸い宝玉の瞳が、宛の泣き笑いの表情を映して、悲しげに揺れる。


 鳥は、真っ直ぐに藍の元へやって来た。その胸の中に飛び込むように。

 兄皇が息を詰め、兄皇后は溜めた涙が乾かんばかりに目を見開く。

 胸が詰まって言葉が出ない藍は、愛おしいの首を搔き抱いた。


(藍)


 聞こえるはずのない芻の声が、聞こえた気がした。


 いつだったか、芻が自分の髪の色を「この国の民らしくなくて嫌だ」と愚痴を零したことがある。子供の頃だ。

 その時、藍は、彼なりに一生懸命に宥め、慰め、言葉を尽くして褒め称えるつもりで言った。


 ――俺は、嫌いじゃない。


 あの時素直に「好きだ」と言い切れなかったことを、今も後悔している。


 赤い火よりも温かい、陽だまりの金色。

 何も恥じることはない。

 世界で一番綺麗な色だ。

 藍の、好きな色だ。


 羽の色だけではない。芻の全てが好きだった。


 この期に及んでまだそうと言えない捻くれ者を、赦して欲しいとは思わない。

 怒ってほしい。その燃えるような正義の心で。


 藍の想いに応えるように、鳥がくちばしの先で、ちょん、と額を突いた。

 まるで、口付けのように。


「芻」


 背中から、体の中心を突くような衝撃に襲われた。


「……っ」


 藍の口から落ちた血の雫が、地面に染みを作る。


「宛!」


 兄皇后が叫ぶ。

 皆の驚愕の視線が集まる中――藍の背を剣で突き刺した宛が、笑い出した。


「はっ……はははははっ! ああ、やっぱり! やっぱり君はそうなんだね!」

「宛、」

「芻。君は、君は……」


 宛の膝がくずおれる。


「いつだって、片割の僕より……藍を選ぶんだ」


 その時、ようやく藍は理解した。

 宛があんな凶行に及んだその理由を。

 ずっとわからなかったのだ。


 宛とて、芻のことを愛していた筈だ。

 それなのに、何故あんなことを?


 宛には、芻が藍を愛することが赦せなかったのだろう。

 何よりも尊ばれるべきついの絆で結ばれた相手が、あるいは自分より他人を――それも、忌子と蔑まれる藍を選ぶ。

 それは嫉妬という言葉では言い表しきれない。

 宛にとっては耐え難い屈辱であっただろう。


「藍!」


 金色の鳥がけて、少女の姿が現れる。


「藍、藍! 大丈夫!?」


 ――馬鹿ね。


 皓皓に寄り添う金色の魂が、宛を見詰めて言う。


(本当に、馬鹿な奴だな)


 ――私は。


(芻は、)


 宛のことも、心の底から愛していたのに。

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