第三十四話 火の神(一)
掬い上げた火を飲み込んだ途端、
「藍! 藍、大丈夫?」
助け起こそうとした手が乱雑に払い退けられる。
「誰に向かって口を聞いている?」
藍の口から吐かれたのは確かに藍の声で、しかし、藍の言葉ではなかった。
「我が国のことながら嘆かわしい。一体いつから人間は、これほど礼儀知らずの生き物になってしまったのだ?」
ゆらり、と立ち上がる藍の体から、皓皓は一歩、二歩、後ずさる。
様子がおかしい。藍は不遜な態度を取ることはあっても、こんな風に仰々しい物言いはしない。
その目が自分に向いた時、はっとする。
目の色が、藍のそれと違っていた。
赤色が滲む
目は光の加減で黒にも藍色にも見える藍の目が、こんな色をしているのは見たことがない。
今、皓皓の前にいるこの人は藍ではない。
いや、人ですらないのだろう。
「あなたが『火の神』、なのですか?」
「己の国を
藍の姿で、声で、火の神は吐き捨てるように言った。
言い伝えの中の存在としてしか知らなかった神が、此処にいる。
その事実に、信心や感慨より、皓皓はまず先に戸惑いを覚えてしまった。
物心付く前から語り聞かされてきた神は、赤い鳳凰の姿をしている筈だった。
姿は藍のまま、人間の形のその存在を、神と受け入れるには
藍、改め、火の神は、奥の祭壇にどかりと腰を下ろした。
口こそ悪いが物腰には皇子らしい品のある藍には、とても似つかわしくない仕草だ。
「まったく、これが我が
皇子という都合の良い立場に生まれながら、今まで何をしてきたのだ?」
藍を指して「これ」と呼び、無慈悲な言葉を言い
そんな神に対して、皓皓はかちんときてしまった。
「全部、あなたのせいじゃないですか」
相手は神だぞ、と頭の片隅では激しく警鐘が鳴るが、止められない。
(だって、そんなの、あんまりだ)
「皇子なのも、依代なのも、藍が自分で選んだことじゃない。
鳥の力を与えられず生まれたことが、一人きりで生きてこなければいけなかったことが、藍にとってどれだけ悲しいことだったか、あなたにはわかりませんか?」
神様には、きっとわからないのだ。
今までの藍の苦労も、痛みも、悲しみも、寂しさも。
それが無性に腹立たしい。
藍を救うことが出来たのは、神様だけだったはずなのに。
「国が乱れたのは国の在り方を変えた
それでも、藍は国を守るために
その藍を、他ならぬ、藍に試練を与えた本人が
「どうして、もっと早く藍の前に現れてくれなかったのですか?」
じっと見詰めてくる目の奥の炎を、
譲れない。譲ってはいけない。これだけは。
相手が神様だろうと関係ない。理不尽に怒り、間違いを正してやる。
藍がもうこれ以上、苦しめられずに済むようにする。
火の神が溜息を吐いた。
「まったくもって、その通りだな」
「……え?」
不敬に対する叱責、あるいは天罰とやらが下るのを覚悟していた皓皓は、火の神がすんなりと自らの非を認めたことに、逆に不意打ちを食らった気分になる。
「これが生まれた時、」
藍を「これ」と呼ぶ音は、一度目より柔らかく響いた。
「当然、自ら此処へやって来るものと考えていた。
この国では、
懐しむような語り口は、まるで離れて暮らす孫について語る祖父のようで。
「その時、これは母を亡くしたばかりの雛鳥で、とても我を受け入れる用意が整っているようには思えなかった。だから、待つことにしたのだ」
火の神は幼子を憐れんで、現れた自らの依代をこの
その気になれば、手中に収めることが出来た筈のものを。
「だが、間もなくこれは此処から遠く離れた鳥籠の中に入れられ、以来、自ら我の元に訪れることはなかった。
我の力は衰える一方で、もう自力では此処から離れることさえ出来なくなってしまった。そうして、我の声を聞き届けるものはいなくなった」
なまじ情に
それが今となり、国の乱れという形になって現れることになってしまった。
神はそう語る。
「ならば何故、片羽の人間がこんなにも世の中から
片羽が神の依代、神の声の代弁者だと知れ渡っていれば、皆が片羽を忌み嫌ったり、藍が閉じ込められたりすることは、なかったかもしれないのに」
「火の神は怒りを持って人々の間違いを
神は不可侵の存在であり、畏怖の対象である、と。
そう思わせることで、姿形は見えずとも、人々は常に天から神に睨まれていることを忘れず、正しくあろうとする」
悪いことをすれば罰が当たる。
幼い頃から言い聞かされ、身に染み付いている摂理。
火の神は、それを体現する神だ。
「それでも国の在り方が狂った時には依代が我の言葉を伝え、道を正す。
国が乱れた時に現れ、神の怒りを代弁する依代は同じく畏怖され、人々に恐れられる存在となったのだ」
皓皓がそれ以上の反論を飲み込んだのは、神に対する畏怖のためではない。
火の神の言うことが、至極もっともであると納得してしまったからだ。
風の神とチノのように、民の間を流れ、人々から慕われる神と依代という形もある。
だが、この国はかの国とは違う。
火の神はそうあってくれたのだ。
人々から恐れられ、遠ざけられようとも、自らは人々を想い、国を守ろうとする神であってくれた。
それはまるで――
(藍のことじゃないか)
火の神の依代が藍でなければならなかった理由が、やっとわかった気がした。
「この国を救うには、どうすれば良いのですか?」
そうだ。藍だったら、それを尋ねるだろう。
我が身の不運を呪い、恨みがましく神を責め立てるよりも先に。
藍は皓皓にもチノにも、自分を救ってくれとは言わなかった。
きっと神にも言わない。
藍が知りたがっていたのは、いつだって
火の神の言葉を聞き届ける役目を、藍は皓皓に
ならば、皓皓はそれに応えなければならない。
藍の力になると決めたのだから。
火の神はこともなげに言い放つ。
「国を在るべき形に戻せ。
秩序を正し、先人の作り上げた伝統を重んじる。人々にそれを思い出させろ」
「僕たちに、どうやってそれを叶えろ、と?」
民衆の前に立ち演説でもしろと言うのか?
これは神の言葉だ、とでも言い置いて?
信じてもらえるはずがない。
「こういう時にこそ皇族の権限を笠に着ないでどうする」
つまり、火の神は藍に「皇子として人前に立て」と言うのだ。
「そんな……そんなの、もっと無理です」
人々は藍を、芻を殺した忌むべき皇子と思っている。声が届くはずがない。
冤罪を晴らそうにも、
「見逃す? 逃さないのはこちらの方だ」
火の神はそう言うと、おもむろに背中に負っていた剣に手を掛けた。
大神殿に持ち込む際、厳重に巻いた布をするすると解き、鞘を払う。
「うむ。粗末な造りだが、悪くない」
意味を察し、皓皓の全身から血の気が引く。
「戦いに行けと言うのですか? 藍に? 宛と戦えと?」
「決闘を申し込めば相手も
「駄目です!」
正面から宛に立ち向かったら、今度こそ本当に、殺されてしまうかもしれない。
それに、仮に藍が十分に剣を振るえるだけの実力を持っているとして、宛を相手に存分にそれを発揮出来るだろうか?
藍は、優しい。
今は怒りと責任感で動けていても、幼い頃から親しくしてきた
火の神も事情は把握しているのか、
「それは、これの覚悟次第だな」
と呟いた。
皓皓はまだ納得出来ていなかったが、渋々と頷く。
藍に危険を冒させたくはなかったが、この話を伝えれば、藍はきっと火の神の言う通りにするだろう。
他に方法はない。
「上手くやるのだぞ」
にやり、と。
火の神が藍の顔の上に、笑みのような形を作った。
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