第三十三話 篝火


 再び礼拝堂に戻ったラン皓皓コウコウは、祭主さいしゅの手によって外された綱の向こう、重々しい扉が開かれるのを固唾かたずを飲んで見守った。


「どうぞ」


 祭主に頷き、皓皓と目配せを交わして、藍はその向こうへと足を踏み出した。


 扉の外はいよいよ真っ暗で、祭主が捧げ持つ蝋燭の火だけでは、互いの顔を照らすのもやっとの有様だ。

 一歩先に落とし穴でもあれば、確実に呑み込まれてしまうことだろう。

 靴の裏で床を擦るように確かめながら歩いていると、後ろから付いて来ていた皓皓が、藍の背中にぶつかった。


「ご、ごめん、藍!」

「大丈夫ですか? どうぞ、お気を付けてお進み下さい」

「は、はい」


 祭主の言葉におどおどとした返事が上がる。

 どうやら皓皓は、暗く狭い空間が得意ではないようだ。

 いつでも堂々と藍の前を歩いていた彼女が怯える様子に、胸の奥がうずいた。


「行くぞ」


 気付けば手を差し出していた。

 驚いた顔をした皓皓が、躊躇ためらいがちに藍の手を掴む。


 不思議と、藍に不安はなかった。

 奇妙な高揚感に促されるまま、先を歩く祭主に従って歩を進められる。


「藍様がお生まれになってすぐの時、弟皇ていおう様から打診を受けました。

 『皇子を神の御許みもとに預けたい』と」

「聞いている」


 皇族に片羽かたはねが生まれるという一大事に、弟皇――すなわち藍の父は――一度、我が子を捨てるという非情な判断を下した。

 いや、この国での片羽のみ嫌われようを思えば、鬼籍きせきに入れられなかっただけでも、慈悲を掛けられたと思った方が良いのかもしれない。


「しばらくして、兄皇けいおう様『その話はなかったことにして欲しい』と言われ、同時に『弟皇の皇子についてはくれぐれも内密に』とのお達しを受けました」


 いずれにせよ、忌子いみこを皇家に残しておくべきではない。

 そう考えた弟皇に反対したのは、兄皇后けいこうごうだった。


 ――それではあまりにも赤子が可哀想ではありませんか。


 自身も苦労して初めての皇子皇女たちを手に入れたばかりだった兄皇后は、藍と、生まれたばかりの我が子を取り上げられる藍の母を捨て置けなかったのだろう。


「藍様が初めて此処へいらっしゃったのは、お母上を亡くされた時でしたね。覚えていらっしゃいますか?」

「ああ」


 忘れはしない。

 六つの時だ。


「我々は、今こそ藍様が新たな依代よりしろとして火の神に選ばれる時なのだと思いました。先代の依代が亡くなってから随分経っていましたから。今こそ、と……」

「待ってくれ」


 藍は祭主の話を遮った。


「ということは、ここの神官たちは皆、俺が、忌子の片羽が、火の神の依代であると知っていたのか?」


 振り返った祭主は、意外なことでも聞いたような顔をしていた。


「『斎子いみこ』は元より、神に仕える者のことでしょう?」


(……なんて下らない話だ)


 何故、それがこうもゆがんだ形で民間に広まってしまったかはわからない。

 藍が生まれてこの方気に病んできた事実など、何処にも存在しなかった。

 結果として、間違っていたのは兄皇后だったのだ。


「……だが、あの日、火の神は俺の前に姿を現さなかった」

「ええ。神が何故の時、藍様を依代として受け入れようとなさらなかったのか。それは、我々にははかりかねます。

 だから、今度こそ、なのです。国が乱れ、藍様が自ら此処へ足を運んで来て下さった今度こそ、神は新たな依代をお迎えになるのでしょう」


 祭主が熱を込めて語る一方で、藍の胸の内には不安と疑念が浮かび上がる。


 十年前、神は藍を依代として受け入れなかった。

 それが、今更、気を変えることがあるだろうか?

 やはり、藍は火の神の依代などではないのでは?


 卑屈な感情が鎌首をもたげる反面、自分はこの先に向かわなければならない、という確信めいた思いがあった。

 神殿に足を踏み入れて以来、頭の奥に声が響いている。


 ――こちらへ。


 呼ばれている。誰かに。何かに。


「此処からは、更に足元にご注意ください」


 階段があった。

 ほとんど何も見えない中で、その段数さえはっきりとわかる。

 一、二、三、四と心の中で数えながら登って行き、二十四段目。


 前を行く祭主が足を止め、行き止まりを告げた。


 だが、その先があることを、藍は知っている。


 ――その先へ。


 伸ばした手が触れた壁を、強く、押す。

 扉が開かれた。


 突然、世界に取り戻された鮮烈な陽の光に、視界が白くなる。


 気付けば、空の上に立っていた。


 大神殿の中で最も高い場所。屋根から突き出した塔の頂上。

 其処には、吊り橋があった。縄と木板だけで作られた簡素な吊り橋で、反対側の先は、切り立った崖の上に繋がっている。

 遠くから眺めれば、空を切り裂く線のように見えることだろう。


「あれが、火の神をまつびょうです」


 祭主が吊り橋を渡り切った先、崖の上に立つ小さな朱色の堂を指さした。


「ここから先は本当の神域。余程のことがない限り、私でも立ち入ることはありません」

「そんな場所に、俺を行かせていいのか?」

「皇族の方々の参拝は許されております。それでなくとも、貴方は火の神の依代ですから」


 祭主の言葉を受け、藍が吊り橋に向かおうとすると、皓皓が繋がれたままの手を慌てて振り解いた。


「ま、待って! 僕は一緒に行けないよ!」

「俺が神の依代だとして、その言葉を聞き届けてくれるものがいないと困る」


 チノが風の神をその身に宿した時、神はチノの口を借りて喋っていた。

 神と対話するには依代以外に、もう一人別の人間が要る。


「でも……いいんですか? 僕が行って」


 皓皓が助けてを求めて振り返ると、祭主は静かな動作で頷いた。


「藍様がそうお求めになるのであれば、構いません」

「そんなに心配しなくても、火の神はおまえをこばんだりしないだろう」


 わけもなく、藍はそう感じていた。

 皓皓は尚も不安な顔をしていたが、やがて、


「……わかったよ」


 と、腹をくくった様子で頷く。


 ところが、いざ吊り橋の前に立つと、情けないことに今度は藍の方が怖気付いてしまった。

 鳳凰之国ほうおうのくにの民の、他の物ならいざ知らず、空を飛べない藍にこの高さは脅威だ。


「行こう」


 そんな藍の怯えを感じ取ったのか、道を切り開くべく、皓皓が先に吊り橋に足を掛ける。

 先陣を切る彼女に対し、自分だけが臆して二の足を踏むわけにはいくまい。

 藍も覚悟を決めて後に続いた。


 吊り橋は一歩進む度にきしみ、耳元では風が悲鳴のような声を上げている。

 ふと、記憶が蘇る。


 十年前。

 まだ六歳だった藍は、母のとむらいのため参拝する途中、橋の真ん中で足をすくませ、前にも後ろにも進めなくなってしまった。

 その時、前を歩いていた人が戻って来て、しゃがみ込む藍の手を掴み、無理矢理に立ち上がらせた。


 ――情けない姿をさらすな。母様が見ている。


 幼子に向けるには厳しい言葉だ。

 しかし、あの時、自分は確かにその言葉に背筋を正された。

 お陰で再び歩き出すことが出来たのだ。


 先を行く背中はあの日よりずっと小さい。それなのに、不思議な既視感がある。


 今回は一度も立ち止まることなく、藍は吊り橋を渡りきった。


 一柱ひとはしらの神を祀るにしては、こじんまりとした堂だった。

 六角中に屋根を乗せた形で、屋根も壁も鮮やかな朱塗りをほどこされている。

 皓皓と入れ替わって前に出た藍は、一つ深呼吸した後、腹に力を込めてその扉を開いた。


 部屋の中央で、篝火かがりびが燃えている。それだけの空間だった。

 威厳ある彫刻の像もなければ、豪奢ごうしゃな姿絵もない。

 堂の奥には形ばかりの祭壇があったが、古びた剣が飾られているだけで、供物くもつの一つも捧げられていない。

 殺風景な部屋だった。


「本当に此処なの?」


 皓皓が訝しむのも無理はないが、記憶の中と寸分変わらぬ景色に、藍は理解した。


「あれだ」


 言いながら、篝火に歩み寄る。

 とても人の手が行き届いているとは見えないはなれの堂で、一人でに火が燃え続けている。

 その奇妙さに皓皓も気が付いたようだ。


 二人の来訪に反応するかのように、大きな火柱が立った 。

 鉄製の篝には、燃料になりそうな物が何も入っていない。そんなことは構わないとばかりに火は勢いよく燃え盛っている。

 摩訶不思議まかふしぎな現象は、すなわち、神秘だ。

 其処には、確かな神の息吹いぶきが存在している。


 篝火の前に立つと、何をすればよいのか自然と理解出来た。

 手を伸ばす。


「藍、危ないよ!」


 だが、火は触れた藍の指を焼くことなく、器の形に捧げられた彼の手で掬われた。


「火の神の言葉、おまえがしっかり聞き届けてくれ」


 皓皓にそう言い置いて、藍は両手で掬った火を、湧き水を飲むように、吸い込んだ。


 ――待っていたぞ、我が『依代』よ。


 頭に響く声が大きくなり、鮮明な言葉を結ぶ。

 次の瞬間、全身が熱に包まれ、藍はがくりと膝を崩した。

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