第二十六話 風の神(一)


 目が覚めると、ラン穹盧きゅうろに一人きりだった。

 ほんの少し前までそれは当たり前のことであったはずなのに、最近ではそれをひどく不安に感じるようになってしまった。


 狼狽之国ろうばいのくにに迷い込み、ナルス一家の世話になり始めて、数日が経つ。

 藍自身は自国と違い過ぎる暮らしにまだ居心地の悪さを感じているが、皓皓コウコウは此処での生活をそれなりに楽しんでいるようだった。

 いつの間にか彼女はタルという青年と意気投合したようで、丘の上で馬に触らせてもらったりしている。


 彼女。そう、彼女、なのだ。

 皓皓が実は少女であったことにも、藍は未だに戸惑っていた。


 穹盧を出ると、太陽はもう天高い位置にあった。

 宮を離れてからというもの、何故だかひどく体がだるく、昼夜を問わずに意識が朦朧とし、起きていられなくなる時がある。

 まだ怪我の治りきっていない皓皓がタルと共に馬の世話をしたり、女たちを手伝って料理をしたりする中、無傷な藍が寝てばかりいるのはどうかとは思う。

 だが、体が言うことを聞かないのだ。


「心の傷は、体の傷より癒えにくいものだよ。外から見ると何ともないように見えてしまうから、余計に困ったものだ」


 そう言ったのはウルと言う老婆だった。

 寡黙な彼女が言葉を話すのを聞いたのは、今のところその時だけだ。


 穹盧を出ると、桶を担いだマナンの妻――ニルに出会った。


「あら、おはよう。お寝坊さん。はい、これ、運んで頂戴」


 働かざるもの食うべからず、が彼女の信条だそうで、藍がどうしようもなく動けないことを責めたりはしないが、こうして起き出して来た時には容赦なくこき使ってくれる。

 腫れ物を触るように扱われるよりはずっといい。

 彼女の穹盧の水瓶に桶の水を注ぎ終えると、


「皓皓は?」


 と、尋ねた。今日はまだ彼女と顔を合わせていない。


「うちの人たちと狩りに出掛けたよ」

「狩り……」


(本当に何でも出来てしまうんだな)


 養父母を亡くして以来、一人で暮らしてきたという彼女はたくましい。

 箱入り、ならぬ籠入りの、形ばかりの皇子とは大違いだ。


「お、これは丁度良かったな」


 チノがひょっこり顔を覗かせたかと思うと、ずかずかと穹盧の中に入って来て、今継ぎ足したばかりの水を遠慮なく椀に汲み取った。

 一息に水を飲み干したチノが、藍の視線に気付いて「ん?」と首を傾げる。


「……おまえは神の依代よりしろだと言ったな?」

「いかにも」

「ならば、俺がおまえを通じて、風の神と話をすることも出来るのか?」

「ふむ」


 チノは手の甲で口元を拭うと、少し考え、おもむろに、穹盧の隅に立て掛けてあった釣竿を手に取った。


「ついておいで」


 それだけ言うと、さっさと外に出て行ってしまう。


「おい。何処へ行くつもりだ?」


 藍の呼び掛けに応えず、チノは肩に担いだ釣竿を揺らしながら、鼻歌交じりにどんどんと歩いて行く。

 説明もないまま歩き続け、連れて来られたのは、一家の穹盧が立つ場所から少し離れた川のほとりだった。


「ほれ」


 と、目の前に釣竿が差し出される。


「釣りの経験は?」

「……覚えていない」


 まだ父母と共に都の皇宮おうきゅうで暮していた頃、エンスウと共に泉に出掛けたことがあった。

 その時、たしか宛は従者に習って釣りをしていたような気がするが、自分がどうしていたかは記憶にない。

 二人のことを思い出すと、胸が焼けるように痛んだ。


「とりあえず、竿を持って、糸を垂らしておけ。後は待ちだ」


 意味もわけもわからないまま、言われるがまま川面に釣り糸を垂らす。

 隣にしゃがみ込んだチノも、同じように竿を構えた。


 風が冷たい。

 ただ竿を携えて立っているだけだと、余計に体が冷えた。

 狼狽之国の冬は、鳳凰之国ほうおうのくにより早くやってくると聞いたことがある。


 火の神をまつる民にとって、冬は沈黙の季節。

 寒いのは好きではない。寒くなると、寂しさを思い出してしまうから。


 そうしてしばらくの間、チノが何度も魚を釣り上げる横で、一向に動きを見せない釣り糸を見るとはなしに眺めながら、ぼんやりとたたずんでいた。


 どのくらい経った頃だろう?


「おい、引いとるぞ」


 チノに言われ、はっと我に返った。


「こ、これ、どうすればいいんだ?」

「慌てるな。慎重に。糸を切られんように」


 ぐんっ、と引っ張られる感覚に抗いながら、チノの指示通り慎重に竿を上げる。

 釣り糸の先には、藍の片手に収まる程度の、小さな魚が掛かっていた。


「やったな」


 チノが歯を見せ、にかっと笑う。


「……俺なんかに捕まるなんて、鈍くさい魚だな」


 言いながら、藍はふっと、頬が緩むのを感じた。

 ここしばらく張り詰め続けていたものが不意にほどけて、喉の奥から熱いものが込み上げてくる。

 それが涙になる前に、辛うじて飲み込んだ。


 それから、チノにやり方を教わって、魚をさばいた。

 決して良い気分のする作業ではなかったが、いつかマナンたちが鳥を解体しているのを見てしまった時のように、気分が悪くなるようなこともなかった。

 火を起こし、わたを抜いて枝に刺した魚を回りに並べる。

 一通りの支度が終わったところで、いよいよ藍はチノに説明を求めた。


「それで、これに何の意味があるんだ?」


 焚火に手をかざしながら、ようやくチノも藍と向き合った。


「うちの神さんは現金なんでな。お呼び立てするには供物くもつを捧げなきゃいかん。それも、呼び出す当人――今はおまえさんだな。それが用意した供物でないと応えてくれんのだ」

「そういうことか」


 やっと腑に落ちた。これまでの行動が意味のないことではなかったのだとわかり、安堵したとも言える。

 これが皓皓であったなら狩りで獲物を捕まえてくることも出来ただろうが、藍には到底無理な話だ。チノもそう思って、釣りに誘ってくれたのだろう。


「さて、始めるか」


 チノは一息吐いて立ち上がると、そっと両目を閉じた。

 しゃんっ、と、腕に、袖に取り付けた飾りを振る。


 しゃん。しゃん。しゃらん。


 大きな風がチノの髪を、着物の袖や裾を煽り、金属の飾りが狂ったように音を鳴らす。


 突風が吹いた。

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