第二十五話 風の国(二)


 山国育ちの皓皓コウコウには丘と呼ぶにも物足りない、なだらかな傾斜の上を歩く。

 風が強い。風の神からの試練か、あるいは祝福か、単に山脈からのおろしがまともに吹き下ろす地形なだけかもしれない。

 乾いた風がちくちくと肌を刺す。まもなく冬がやって来るのだ。


 傾斜を登りきった先で、チノと、心苦しいことにまだ顔と名前が一致していない青年――おそらく彼がタルだろう――が、馬に草を食べさせていた。


「皓皓じゃないか」


 放たれた馬たちが思い思いに草を食む中、一際大きな一頭に跨ったチノが、呼び掛けるまでもなくあちらの方からやって来た。

 鞍も付けず、裸馬を平然と乗りこなしている。


「その子が貴方の『相棒』ですか?」

「ああ。立派なもんだろう?」

「相棒と言うから、てっきり双子の片割かたわれか、奥さんのことかと思いました」

「わしは孤狼だと言ったろう。つがいもおらんよ」


 危なげなく、チノが馬の背から飛び降りた。

 自由になった彼の相棒が、検分する様に鼻面を寄せて来くる。皓皓は大人しくそれを受け入れた。

 しばらくして、ずいっ、と胸に頭を押し付けてきたので首を撫でてやる。しっとりと柔らかい毛並みだった。


「気に入られたようだな」

「好きなんです。動物」


 山中で暮らすということは、山の動物たちに囲まれて生きているということだ。

 里まで荷物を運ぶために、ハシバミという名前の馬も飼っていた。

 ランと共に紅榴山こうりゅうさんの宮を抜け出したあの夜、我が家に立ち寄った時、厩を開放した。

 そうしておけば、賢い愛馬は皓皓の世話がなくとも、自分で何処へでも行って、自分で生きていけるだろう。

 養父母を亡くしてからは、あの子が唯一の家族のようなものだった。

 もう二度とあの優しく温かい生き物に触れられないのだと思うと、どうしようもない寂しさが込み上げる。


 放牧されている馬たちは皆、ハシバミより、ひと回りふた回り体が大きい。

 種類が違うのか、育った環境による影響なのか。

 いずれにしろ、こんな体では鳳凰之国ほうおうのくにの狭い山道は駆け抜けられないだろう。

 チノが「相棒」の背を叩く。


「面倒な用事がある時は、片付くまでの間、此処で預かってもらっとる」

「面倒な用事?」

「例えば雛鳥を拾いに行ったり、な」


 言って、にやりとした。


「どうだ、良い男だろう?」


 自慢げに言うだけのことはあり、凛々しい顔立ちをした雄馬だ。

 おまけに賢い。目を見ただけでわかる。


「名前は?」

「ツァガーンだ」

「つぁ……?」

「シロ、でいい。そういう意味だ」


 皓皓が慣れない発音を舌に乗せられずにいると、チノは笑い、元も子もないことを言う。


「そのままじゃないですか」

「そのままでいいのさ。名は体を表すと言うだろう」


 名前に込められた意味を大切にしているようだったハワルには聞かせたくない発言だ。


「チノ、はどういう意味なんですか?」

「あー」


 相棒の名前を口にするのとは対照的に、言い淀む。


「狼、という意味だ」

「それはまた……そのままですね」


 皓皓や藍に「鳥」と名付けるようなものではないか。


「いや、むしろ的外れで、皮肉な名前さ」


 チノの言う意味を理解するのには、少し時間が掛かった。

 それから、はっとする。


 ついの相手を持たない、つまりは神からの恩恵を与えられていない彼は、狼に変化することが出来ないのだ。

 藍が誰かの手を取っても鳥に変化することが出来ないのと同じで。

 自身が片羽かたはねであることを気に病んで生きてきたくせに、他人のそれにまで配慮が及ばない。己の身勝手さにうんざりした。


 しょげてしまった皓皓を励まそうと思ってくれたのか、


「乗ってみるか?」


 と、チノが相棒を指した。


「いいんですか?」


 それは魅力的な提案だ。

 皓皓の「家族」ではないが、今はこの動物の温もりが恋しい。

 シロの背中は皓皓が腕を伸ばしてやっとの高い位置にあり、よじ登るためにはチノに手を貸してもらわなければならなかった。

 賢い雄馬は自分の背中の上でじたばたする相手にも動じず、皓皓が腰を落ち着けるまでじっと待っていてくれる。


「うわぁ」


 一気に高くなった視線に、気分も高まる。

 空を飛ぶ時にはもっと遥か上から景色を見下ろせるが、それとはまた違う見え方だ。


 シロが歩き始めた。

 始めはゆっくり。

 手綱を握る皓皓の緊張が徐々に解けていくのに応えて、段々と速度を上げ、やがて彼は駆け出した。四本の足で力強く地面を蹴り、草の上を跳ね回る。

 鳥になって羽ばたく時より、もっと強い空気の力を感じる。

 シロの動きを押し留めてしまわない程度に、手綱を持つ手に力を込めた。

 耳元でびゅんびゅんと吹き抜けていく風の音が聞こえる。


 風。

 そうだ、風だ。

 風になるとはこんな感覚なのか。

 何故だか目に浮かんだ涙は、あっというまに乾いていく。

 シロが満足して足を止めるまで、思い切り草原の上を走った。

 何処までも行ってしまえそうな気がした。


「上手いもんだな」


 ひとしきり駆け回って戻って来ると、皓皓は再びチノの手を借りてシロの背中から降り、手綱を返した。

 すぐにチノに体を擦り寄せるシロを見て苦笑する。

 皓皓に愛想良くしてくれたのは彼なりのもてなし方で、相棒の隣の方が居心地が良いのが本音だろう。


「おまえさん、案外、狼狽ろうばいの民としても上手くやっていけそうだな」

「僕が?」

「気ままだぞ、うちの国は」


 思いも寄らない話に、しばし思いを巡らせる。

 どうせ国に帰ることが出来ないなら、一層――


「それも、いいかもしれませんね」


 例えばシロのような相棒を手に入れて、旅をするのはどうだろう?

 何処までも行ってしまえそうな気がした衝動に任せて、果てもなく、宛てもなく、駆けて行く。


 「広い世界を見に行こう」と誘ったら、藍は喜ぶだろうか。

 ああ、でも、ずっとあの宮の中だけで暮らしてきた藍は、馬に乗れないかもしれない。練習してもらわないと。


 夢物語に思いを馳せてみる。

 今は少しだけ、自分が片羽の鳥であることを忘れていたかった。

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