第二十四話 風の国(一)


 翌朝目覚めると、丸い天井に見下ろされていた。

 支柱から放射線状に伸びるはりの数を意味もなく数える間に、意識がはっきりとしてくる。


(そうだ。ここは狼狽之国ろうばいのくになんだった)


 近頃、朝起きる度に見える景色が違うので、自分が今何処にいるのかを思い出すまでに時間が掛かってしまう。

 ほんのひと月と少し前まで、山奥のあの小屋以外の場所で眠ることなどなかったのに。


 むくり、と体を起こす。

 革と布だけで頼りなく思えた壁は意外に頑丈で、よく風を遮断し、眠っている間、寒さに震えることもなかった。


 ナルスを家長とする一族の皆は、前触れもなくやってきた来訪者を大いに歓迎し、わざわざ物置用の穹盧きゅうろを片付け、三人のための寝床を用意してくれた。

 お陰で初対面の人間と寝所を共にする緊張もなく、ゆっくりと眠ることが出来た夜だった。


 チノの姿は既にない。

 ランは丸めた背中をこちらに向け、まだ眠っているようだ。


 あれだけの出来事があった後の、気の休まることのない逃亡劇。

 皓皓コウコウの意識がない間も、藍は神経を張り詰めさせていたに違いない。

 それからほぼ丸二日歩き通しだった。

 見ず知らずの他人の手の中でも、屋根と壁がある場所に腰を落ちけられたことで、緊張の糸が解けたのだろう。


 その上、昨晩チノから聞かされた、にわかには信じがたいあの話。


 疲れていて当然だ。


(ああ、そうか。何かに似ていると思えば)


 丸く囲む壁と、放射線状の梁。

 この穹盧は鳥籠の形に似ている。

 己を閉じ込めていた宮を「鳥籠だ」と皮肉った藍が、鳥籠型の穹盧の中で安心して眠っている。必然のようで、皮肉であった。


 皓皓は藍を起こさないよう、そっと穹盧を出る。


 狼狽之国の民は皆早起きなのか、それとも単に皓皓が寝過ごしただけなのか。

 穹盧の外では既に皆働き始めていて、子供はきゃっきゃと走り回っていた。

 微笑ましい光景を、つい足を止めて眺めてしまう。

 もつれて転がった男の子二人がぱっと姿を消したかと思うと、次の瞬間、その場に小さな狼が現れたので、間抜けなことに「わっ!」と声を上げてしまった。


 何も不思議なことはない。

 狼狽の民はその身に風の神の力を宿し、狼の姿に変化するものなのだから。


 狼、というより愛らしい仔犬に見える彼らは、人の姿のまま残された唯一の女の子、ハワルに噛み付くふりをしてじゃれついた。

 ハワルがきゃらきゃらと笑いながら逃げ回る。

 子供たちを見守りながら、昨夜の焚き火の後片付けをしていた女性が、皓皓に気付いて微笑んだ。


「おはようございます。眠れましたか?」

「はい。お陰様で。ええと……」

「サラーナと申します。ウールの妻で、この子の母です」


 言いながら、駆け寄って来たハワルを抱き止める。

 いかせん人が多く、皆耳馴染みのない発音のため、なかなか名前が覚えられない。


「何か召し上がりますか?」


 サラーナの申し出を有難く受け入れ、彼女たちの穹盧へお邪魔する。昨夜ほとんど食べられなかったので腹が減っていた。

 彼女らはもう朝食を済ませたとのことで、


「残り物ですみませんが」


 と、サラーナは申し訳なさそうにしつつ、小麦を練って焼いた物――鳳凰之国ほうおうのくににはない料理だったので名前はわからない――と果物を振舞ってくれた。昨夜の汁物と同じく肉が使われていないところに彼女からのいたわりが感じられる。

 隣に座ったハワルがじっと見詰めてくるので、果物を分けてやり、一緒に食べた。


「ねぇ、おねえさま」

「おねえさま?」

「おにいさま、じゃ、ないんでしょう?」

「そう、だけど……」


 皓皓がずっと着ていた着物は破け、汚れ、酷い有様だったので、昨夜、寝る前に身を清めたのと一緒に着替えている。

 自分の着物を貸す、と言うマナンの妻の申し出を断りきれず、一体いつ以来だろうか、皓皓は女物の衣装を身に付けていた。

 此処にいる皆に知られてしまっている以上最早隠す意味はないのだが、慣れない呼ばれ方にむずむずする。


「名前で呼んでくれると嬉しいな」

「お名前はなんておっしゃるの?」

「皓皓、だよ」

「どんな意味?」

「名前に意味があるの?」

「意味がないお名前なの?」


 問い返されて考えた。

 人の名前など記号に近い音でしかないと思っていたので、意味など考えたこともなかった。


「……僕の残りの半分、って意味かな」


 ハワルはよくわからない、と首傾げた。


「ハワルはどういう意味なの?」

「雪が溶けた後にやってくる季節のこと!」


 得意げな答えが返ってくる。


「サラーナさんは?」

「花の名前です。この国の、古い言葉で」


 三百年以上も昔には、人々は国によって違う言語を話していたという。

 各国間の交流が盛んになり、利便性を追求して共通語が開発されて以降、大国に属さない一部の少数民族を除いて、皆がそれを使うようになった。

 今、皓皓がハワルたちと不自由なく会話出来ているのも、古の人々の努力の成果だ。

 そうして各国独自の言葉が完全に潰えてしまったかといえばそういうわけでもなく、どの国でもなんらかの形で受け継がれている。

 狼狽之国ではそれが人の名前において顕著なのだそうだ。


 皆の名前が覚えられない、と訴える皓皓のために、ハワルは何処からか探して来た板切れに炭の欠片かけらで簡単な家系図を書いて説明してくれた。

 狼狽之国の遊牧民には読み書きの風習がほとんどなく、ハワルがこの幼さにして文字を書けるのは特別なことらしい。


 家長のナルス、その息子にマナンとウールの双子と、タルという青年がいるらしい。タルの片割かたわれは他所の一族に嫁に出ていて、此処にはいないのだそうだ。

 マナンの妻のニル、その子供たちがゾンとナマル。先程、狼の姿になって遊んでいた、双子の男の子たちだ。

 ウールの妻がサラーナで、娘がハワル、ということだった。

 そしてナルスの母、ウル婆さん。

 ナルスの妻は数年前に病で亡くなっていて、ウル婆さんの夫、ヤス爺さんはつい先日風になったばかり。

 総勢十人の家族。

 何かの呪文に聞こえてくる名前と関係性を必死で結び付けながら、ふと、足りない欠片に気が付いた。


「ハワル、君の対は?」

「いないわ。あたしは孤狼ころうだもの」


 ハワルは怖じることなく言った。


 ころう。孤狼。

 チノも自分を指してそう呼んだ。

 鳳凰之国における片羽かたはねと同じ存在。


 驚いてハワルを見る。この国に来てから僅か数日の間に、チノとハワル、二人もの片羽、いや、孤狼に出会ったことになる。

 十六年生きてきて、皓皓が自分以外の片羽に出会ったのは藍が初めてだった。

 藍に言わせれば、皓皓は本来の意味の片羽ではないので、皓皓が知る片羽は藍だけだとも言える。

 それなのに、この国では、こんなに短期間で、こんなに近くに、二人も?


「この国では、人が一人で生まれることはよくあるんですか?」


 そう尋ねたくもなってしまう。

 サラーナは首を振った。


「珍しいことです。だからこそ、チノのおじさまもハワルのことを気に掛けて、よく尋ねて来てくれるのでしょう」


 チノ。

 不思議な人だ。

 藍はチノのことを警戒してるようだった。神の依代よりしろの話を聞いてからは、尚更。

 だが、皓皓は彼のまとうその不思議な空気に、何らかの惹かれるものを感じている。


「チノさんは、今、どこに?」

「相棒を迎えに行くと言っていましたから、多分、丘の方だと思います」


 食事を終えた皓皓はサラーナに礼を言い、教えられた丘に向かってみることにした。

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