第二十二話 異郷(一)
チノの言う「知り合いの一族」がいる場所へは、歩いて二日の道のりだった。
つい「空を行けばあっという間なのに」と思ってしまうが、今の
驚くほど平坦で何もない道を、チノは迷いのない足取りで進んで行く。
「何を目印にしているんですか?」
「風さ」
尋ねると、冗談とも本気とも付かない答えが返ってきた。
「昼なら太陽。夜なら星。それと季節を重ねれば、道などなくても迷わんもんさ」
皓皓の傷はまだまだ塞がっておらず、長い時間歩き続けると次第に痛みが耐え難くなる。
チノは頃合いを見計らっては休憩を入れ、皓皓の包帯に血が滲んでいれば取り替え、血止めの薬を塗ってくれた。
「兄さんも疲れたろう。おまえさんの方が歩くのには慣れてないな?」
何度目かの休憩の際、手当てを受ける皓皓から離れて座り込んでいた藍を、チノが手招きした。
チノからお手製の薬液を染み込ませた湿布を受け取ると、藍はまたふい、と離れて行ってしまう。
藍のよそよそしい態度に、皓皓もどう接していいかわからない。
皓皓としては今までと変わらずやっていきたいと思う。
そもそも「女の子だから」と気を遣われるような生活をしてこなかったのだから、いきなり態度を変えたりしないで欲しいのに。
そう思いつつ、ずっと性別を
藍の顔を真っ直ぐ見られない以上、自然とチノの方を向くことが多くなり、道の途中で
二日目の夕刻近くのことだ。
そろそろ目的の場所のはずだと聞き、辺りを見回していて、皓皓がそれを見付けた。
「あれは何ですか?」
大きな鳥たちが――と言っても、
チノが「ああ」と呟いて向かうのに、皓皓も興味本位で付いて行く。
鳥たちはチノが近付くと、まるで彼に場所を譲るかの如く、一斉に飛び去った。
一見ではわからなかったその正体を理解した時、皓皓は思わず「うっ」と声を漏らした。
何事か、と追い掛けて来た藍が同じく気付き、口元を押さえて顔を
「ああ、慣れない者は見ん方がいい」
草原に立てられた木製の台座の上には、血溜まりが出来ていた。
赤黒く染まり元の色がわからなくなった着物や、チノがしているのに似た装飾品は「それ」が動物の死骸ではないことを物語っている。
浮かんでいる赤や白の破片が何かを推察することは、頭が拒否した。
否応なく重なるのは、
「ど、して、こんな……」
「この国での
台座に向かって両手両膝を付き、額が地面に着くまで頭を下げる。
それが狼狽之国に特有の祈りの仕草なのだと、後に教わった。
「亡くなった人を、こんな形で放置するんですか?」
「狼の民の魂は、死ねば風になる。風になるために邪魔な肉体は、獣や鳥たちに喰らってもらう。
そうして、生きている間に命を分け与えてもらった、四つ足の兄弟や、羽を持つ友や、小さな隣人たちへの礼を返し、この世に留め置くための器が綺麗に失くなった時、魂は風に還るんだ」
語られたのは
「チノ?」
幼い声がしたかと思うと、白い塊が一目散に駆けて来て、チノの足に抱き着いた。
「おお、ハワルじゃないか」
「チノ、いらっしゃい」
突然現れた自分の膝の上までしか背丈のない女の子を、チノはひょいっと抱き上げる。
「重たくなったなぁ」
「ハワル、重たくないもん!」
「そうだな。すまん、すまん」
まだ四、五歳くらいであろう彼女にも、立派に女の子としての自尊心があるらしい。
ぷくっ、と可愛らしく膨らんだ頰を突いてチノが謝まると、少女はすぐに明るい笑顔を取り戻した。
「やぁ、チノさん。そろそろ来る頃かと思っていたよ」
「おぅ、マナンとウールだな」
ハワル、という女の子の連れは、藍よりは年上だろうがチノよりはずっと若く見える青年二人で、一目で双子の対だとわかった。
狩りに出掛けていたのか、二人とも弓を手に、矢筒を肩に下げている。
チノはハワルを抱き上げたまま、二人に藍と皓皓を示した。
「こちらさんは『火の国』からの客人だ」
「おや、珍しい」
「ようこそ、我らが『風の国』へ」
突然の来訪者にも全く
この度量の広さは国民性なのか。
それもあるのだろうが、それ以上に「チノが連れて来た人間なら」という安心感が、青年たちの表情から見て取れる。
チノは余程の信頼を彼らから勝ち得ているらしい。
「亡くなったのはヤス爺さんか」
チノが草原に放置された台座に視線を投げると、青年たちは神妙な顔で頷いた。
抱えられたハワルが眉を下げる。
「ひいおじいさま、風になれたかしら?」
「ああ。魂はきちんと神さんが連れて行ってくれたよ。だがな、ハワル」
幼い女の子の頭をくしゃくしゃと撫で、チノは言った。
「ヤス爺さんの心はいつまでも、ハワルや皆の傍にあるんだよ」
彼らの家は、皓皓が「家」と聞いて思い浮かべるのとはまるで違う形の物だった。
地面に立てた柱を中心とする円形の骨組みに、動物の皮を張って作られた
柵で広く囲われただけの草原に羊と馬が放されており、各々草を
穹盧の前で洗い物をする母親に
一番大きな穹盧の中に入ると、地面には床ではなく、壁と同じ動物の皮と布が敷き詰められており、一足踏み込むとふわりと
出迎えてくれた男が柔和な笑みを浮かべた。
「ようこそ、チノさん。そしてお客人。家長のナルスと申します」
「よぅ、久しぶりだな、ナルスよ」
「初めまして。皓皓といいます。こちらは藍」
黙りを決め込んでいる藍の代わりに、皓皓が二人分の紹介をする。
「ヤス爺さんのことは、残念だったな」
「父ももう年でしたし、自然のお導きです。安らかに逝きましたから、きっと風も歓迎してくれるでしょう」
「うむ。ウル婆さんも、気を落とさんでな」
チノに声を掛けらると、穹盧の奥にひっそりと、置物のように座っていた老婆が、口元だけ微笑んで頷いた。
「して、ナルスよ。ちっとばかし、相談だ」
チノは手短に、二人の身の上をナルスに話した。
訳あって国には戻れない。行く宛もない。怪我をしているから、当面の間此処に置いてやってくれないか、と。
皓皓たち自身、語れない事情はチノにも語っていない。
そんな怪しいことこの上ない異邦の民について、チノはまるで親しい友人のようにナルスに語った。
「チノさんの連れて来た方々なら、それもまた風のお導きなのでしょう」
そして、それを聞いたナルスも、二人を受け入れることをあっさり了承する。
どうやらこのチノという男は、この一家から全面的に信頼されているらしい。
「ありがとう。ウル婆さんも、騒がせてすまんな」
歯を見せて笑う姿には全く裏などなさそうで、ますますチノという人のことがわからなくなってしまう。
家長への挨拶を終えて出ると、穹盧と穹盧の間の開けた場所に焚火が起こされ、マナンとウールが狩りで仕留めた獲物を広げていた。
「ああ、チノさん。話は終わったかい」
「折角の客人だから今夜はご馳走にしよう。今日は大きな
板の上では、今まさに雉が
顔面を真っ青にした藍が、咄嗟に口元を押さえる。
それでもかろうじて人前で嘔吐しないだけの理性を保ち、さっと身を
「なんだい? まったく、情けない。これだから他所の国の人間は……」
やれやれと肩を竦めるマナンに、皓皓はかっとなる。
「藍は……」
反論しようとした時、
「こら!」
先程、野菜を洗っていた双子の母親が、マナンの頭を大きく叩いた。
「火の国のお客様に『羽を持つ友』を振る舞う間抜けがどこにいるの!」
「いてぇな! だからって、叩くことはないだろう!」
「ごめんなさいね。うちの人、無神経で」
夫の訴えを無視して、女は心底すまなそうに皓皓に詫びる。
「羊か鹿ならどう? それとも、肉より魚の方がいいのかしら?」
「いえ、そんな。どうぞ、お構いなく」
答えながら、皓皓もさりげなく捌きかけの雉の肉から顔を
此処は自分たちの生まれた国とはまるで違う場所なのだと、改めて思い知らされた。
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