第二十一話 狼
チノは湯の沸いた鍋の中で雑穀と削り入れた干し肉、それから
「冷えただろう。ほら、火に当たりなさい。食べ物は喉を通りそうか?」
温かい湯気に溶け込んだ匂いが
三日もの間、皓皓は意識を朦朧とさせていたそうだ。
チノがよそってくれた変わった風味の雑炊を口に運びながら、そう教えられた。
それでもチノは嬉しそうにうんうんと頷いている。
「ゆっくり食べなさい」
藍が差し出された食事を拒否しなかっただけで、彼は大満足のようであった。
きっと今までまともに食べていなかったに違いない。
無理矢理にも何かを口に入れなければ、という考えに至っただけで、藍にとっては回復の兆しなのだろう。
このチノという人は、何かを察しているに違いなのに、異国の民の身の上を少しも尋ねてこない。
皓皓の看病をしてくれていた三日間、十分な時間だろうに、藍がチノと打ち解けることはなかったらしい。状況と藍の性格を
その上で、見ず知らずの相手をこのように
「改めて、助けて頂いて、ありがとうございます」
空になった椀を置き背筋を正すと、チノは「いやいや」と顔の前で手を振った。
「わしに与えられた役回りだからな」
「チノさんは医師、ですか?」
皓皓の看病も手馴れている様子であったし、薬草の使い方も的確だ。
相手を
「いや、ただの風来坊さ。あっちへこっちへ流れていれば、自然と身に付く知恵がある。それを時折こうして人の役に立てる。そんな風にして暮らしとる」
「この場所は?」
「おまえさんたちが落ちて来た近くにたまたまあった。これも巡り合わせかね」
「貴方の家ではないんですね」
「わしは家を持たんが。そうさな、いつかもし家を作るとしたら、もうちっと暮らしいいように整えるかね」
失礼なことを言ってしまったようだ。
皓皓は顔を赤くした。
「間違ってはおらんが、彼らはきちんと家を建てる。簡単にばらしたり組み立てたり出来る
「へぇ」
ずっとあの山の中の家で、せいぜい市の時に里に降りる程度の生活をしていた皓皓には、想像も及ばない世界だ。
頻繁に家を立て直さなければならないのも、移動する度に新しい土地に馴染み直さないといけないのも、面倒だとしか思えない。
話を聞く限り、チノはそういった
持ち運べる家すら持たず、こうして洞窟で雨風を
「一人きりで?」
「ああ」
「変化が出来なくて不便はないんですか?」
「あまりないなぁ。そちらさんと違って、空を飛べるようになるわけでもないし」
鳳凰之国の民が鳥の姿を取るように、狼狽之国の民は神の力を借りて狼に
幼い頃に一度だけ、商売のため里に立ち寄っていた狼狽之国の民が狼に変化するところを見たことがあった。
山で時折見掛ける
チノの語る話は、声は、さらりと耳から体の中に入ってくるのにもかかわらず、留まることなく通り抜けてしまう。
後には空っぽの気持ちだけが残り、それが不思議と
まるで風だ、と思う。
彼自身が風のようだ。
「ところで、おまえさんたち、これからどうするつもりかね?」
チノが焚き火に投げ込んだ小枝が、ばちっと火花をあげて
「行く宛てはあるんか?」
言われて初めて、今後について全く何も考えがないことに思い至る。
ただあの場から逃れるために飛び出して来た。
そうするしかなかったのだ。この先、など考える余裕もなかった。
これから自分たちは、一体どうすれば良いのだろう?
いかに無罪を訴えたところで、皇家にとって都合の悪い存在として隠されてきた藍や、一庶民でしかない皓皓の言葉が、皇太子の主張を
もしかしたら藍の身の潔白を信じ、公正な判断を下してくれるかもしれない。彼の人にとっては、たった一人の息子なのだから。
たった「一人」の息子。
だからこそ、藍が父親からどのように扱われてきたのかを思い出し、頭に浮かんだ希望を打ち消した。
もう
皓皓の家も、既に場所を知られている筈だ。
里も、危ういだろう。
宛の手の、目の届かない所へ。となれば。
「鳳凰之国には、もう戻れないのかな……」
よくやく椀の中身を食べ終えた藍が顔を曇らせる。
口にした皓皓自身も気が滅入る事実だった。
哀れな
「では、こうしよう」
チノが落ち着いた口調で言う。
「今の時期、此処からしばらく行った所に、知り合いの一族が
「そんな、見ず知らずの人たちに……」
「気の良い連中だ。歓迎してくれるさ。上手くやっていけんようなら、それからのことはその時考えればいい。
生憎、わしは見ての通り、雛鳥を二羽も抱えてやれる暮らしをしていないでな。おまえさんたちに今一番必要なのは、落ち着ける場所と時間だろう?」
どうする? と藍を窺うと、藍もようやく顔を上げて皓皓を見た。
噛み合った視線が外される。拒否しないということは、すなわち、了解の合図だ。
「……よろしくお願いします」
うむ、とチノは頷いた。
「それなら、早速、明朝出立だ」
と決め、チノは移動に備えて早く寝るよう二人を急き立てる。
チノが貸し与えてくれた布や着物を土の上に敷いて、その上に横になった。
狭い洞窟の中、三人が寝転がれば自然と互いの位置は近くなる。
背中の下の
「藍?」
明白な拒絶の意思に、別に身を寄せ合って眠りたかったわけではなくても、少しばかり寂しくなる。
が、居心地悪そうに向けられた背中に、次の瞬間、理解した。
皓皓が隠していたもう一つの方の秘め事。
藍はもう、それを知ってしまっているのだ。
顔に血が上って、皓皓は掛け布を頭から被った。
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