第二十話 夜闇


 どれくらいの時間、どれくらいの距離を飛んで来たのか、わからない。

 ついに力尽きた皓皓コウコウは、それでもランをしっかりと地面に送り届けるまで、決して変化を解かなかった。


「こ、うこう……?」


 皓皓の肩に巻かれた包帯が激しくなってきた雨に濡れて、赤い色を滲ませている。


 血、だ。

 血が流れ続けたら、死んでしまう。

 母のように。スウのように?


(また俺のせいで誰かが不幸になる)


 嫌だ。嫌だ。嫌だ!


「これはまた、珍しい客人だな」


 突然現れたその人は、雨に濡れるのもいとわずに、ゆっくりとこちらへ歩いて来た。


「火の神の『しろ』だね?」


 雨の中持ち上げた藍の顔は、酷い有様だったに違いない。


「ようこそ。『風之国かぜのくに』へ」




 唇に冷たい物が触れ、皓皓は目を覚ました。

 全ての感覚が鈍い。視界は白いもやに塞がれて何も見えず、物音は遠い。

 体に至っては指一本持ち上げる気力が起きず、まるで自分のものではないようだ。

 右肩から胸にかけてがとくに痺れており、不快ではあるが、何がどうしてなのかは判然としない。


 それでも身体は意識より正直なようで、喉が潤いを欲し、唇に押し当てられた濡れた布を噛んだ。


「おう。起きたか」


 どうやら皓皓が渇ききってしまわないように、誰かがそうして水を与えてくれていたらしい。

 喉が僅かな水を嚥下えんかすると、今度は布の代わりに椀があてがわれる。


「ゆっくり飲みなさい。慌てたらいかん。ゆっくりだ」


 そっと流し込まれる冷たい水を、こくり、こくり、と飲み込む毎に、意識と身体の感覚が鮮明になっていく。

 一杯分全てを飲み干す頃には、皓皓が水を飲みやすいように上体を抱え、椀を支えてくれている相手の顔を認識出来るまでに、視覚も戻っていた。


「気分はどうだ?」


 そうして皓皓に水を飲ませてくれていたのは、見知らぬ壮年の男だった。

 乱雑に伸びた髪を括りもせず、口元には無精髭が浮いている。


 体勢を正そうとして腹に力を入れた瞬間、右肩が激しく痛んだ。

 感覚が戻ったことで、痺れの違和感が痛みであることを体が思い出してしまったのだろう。


「良いわけないわなぁ。その怪我で気分が良かったら、その方が心配だって話さね」

「怪我……」


 首を巡らせて自分の右肩を見る。はだけられた着物の代わりに、包帯が巻かれていた。

 そうだ。怪我をしたのだ。弓で射られて。

 思い出した途端、前後の記憶が一気に蘇る。


 倒れた芻。

 刃から滴る血と、閃く着物の袖の、赤。

 広がる金の髪。

 慟哭どうこく

 芻の名前を叫ぶ声。

 放たれた矢が突き刺さる感覚。

 慌ただしい跫音あしおと

 小翡しょうひ小翠しょうすい、双子の必死な表情。


 肩の傷より余程酷い痛みに胸を突かれ、皓皓は声にならない叫びを上げた。


「落ち着きなさい」


 胸を押さえて丸めた背中を、男が撫でる。


「それはもう過去のことだ。一つのつらい出来事のために、何度も同じ痛みを味わう必要はない」


 ゆっくりと背中を上下する大きな手の温もりに、身体の強張こわばりが解け、詰めた息が吐き出された。


 どうやらここは洞窟の中らしい。

 土壁に覆われたほらは狭く、首を振れば全体が見通せる程度だったが、その中に求める姿が見当たらない。

 不安が過ぎる。


「藍は? 藍は無事ですか?」

「焦るな。連れの兄さんなら、今水を汲みに行ってくれている。怪我はしとらんよ」

「……藍」


 その名前を口にすると、胸の痛みは悲しみに形を変え、熱いものが込み上げてくる。

 固く目を瞑って涙をやり過ごした。


 どうにか気を落ち着けてから再び目を開け、今度は自分の置かれている状況を把握するために洞窟内を見回してみる。

 男の陰で焚き火が揺れ、更にその向こう、出口の穴には風除けの布が吊り下げてあった。

 皓皓が身に付けていた少ない荷物は、手を伸ばせば届く所に纏めてある。


 男が焚き火に向かい、木の枝を組んだ三脚台に引っ掛けた鍋の中に、何かの草を千切って放り込む。良く知る匂いが広がった。


「ああ、すまん。おまえさんの薬草、勝手に使わせてもらったぞ。手持ちが足りなかったんでな」


 皓皓の視線を受け、男が言う。


「貴方が助けてくれたんですか? 怪我の手当ても?」

「うむ。どうも近頃、国境の辺りの風がきな臭くてな。嗅ぎ回っていたら、丁度其処に鳥さんたちが落ちてきたんだ。これも風の導きだろうて」

「それは……ありがとうございます。お名前をお伺いしても?」

「名乗るほどの者でもないが、チノと呼ばれとる」


 チノ。変わった響きの名だ。


「おまえさんは、皓皓、で合っとるか? どうもあの連れの兄さんは、はっきり物を言わんでな」


 彼を包む不思議な空気。聞き馴染みのない音の名前。灰色の髪と焼けた肌。

 鳳凰之国ほうおうのくにではほとんど見られない、立襟たちえりが付いた衣裳。

 両腕にいくつも嵌めた腕輪と、広い袖ぐりに縫い止められた飾りは、どうやら動物の皮や骨、角や爪で作られた物のようで、彼が身動きする度しゃらしゃらと鳴る。


「貴方は……ここは『狼狽之国ろうばいのくに』なんですね」

「いかにも」


 それで多少は合点がてんがいった。

 無我夢中で飛んでいるうち、いつのまにか国境を越えてしまっていたらしい。


 このような時、このような経緯いきさつでなかったのなら、生まれて初めて国の外へ出たことに何かしらの感慨があったかもしれない。

 しかし今は、それどころではないことがあまりにも多過ぎた。


「戻ったようだな」


 言って、チノが皓皓の胸元を指さす。


「わしが言うのも何だが、連れの兄さんには見られとうないだろう?」


 一拍間を置いて、自分のあられもない姿に気付き、大慌てで着物を搔き寄せた。


「怪我の手当てをする上での不可抗力だからな。謝らんぞ」

「わかっています」


 わかっているから怒りはしないが、恥ずかしいことに変わりはない。

 すぐ側に畳まれていた帯を締め終わった時、風除けの布が押し上げられ、藍が入って来た。


「藍」


 手桶を下げた藍が皓皓を一瞥する。

 チノの言う通り、怪我をしてはいないようだ。

 少なくとも、身体的には。


「ご苦労」


 藍は手桶の水をチノの前に置くと、一言も発さないままくるりと背を向ける。


「藍?」


 皓皓の呼び掛けを無視して、藍はそのまま再び外へと出て行ってしまった。


「藍!」

「こら、急に動いたらいかん」


 激痛に襲われた皓皓を厳しくたしなめながらも、チノは手を差し伸べ、立ち上がるのを手伝ってくれる。


「体の傷ならわしでも少しはれるがな。こっちの痛みの程度は、計り知れん」


 彼は二本の指で自分の胸の真ん中をとんとん、と叩いた。


「それはおまえさんの方がわかってやれるだろう」


 チノが脱いだ自分の上着を皓皓の肩に被せる。

 土と煙の匂いが染み付いた布地を握り締め、皓皓は頷いた。


 外に出て初めて、今が夜も深い時間なのだと知る。

 思わぬ暗さと寒さに身を竦めた。

 洞窟の前には広大な草原が広がっていた。所々背の高くない木が生えているだけの、平坦な土地。

 国土の大半が山岳地帯である鳳凰之国ではまず見られない景色だ。


 藍はいくらも離れていない所にいた。

 黒いとばりが降りた空から、皮肉な程明るい月と、無数の星に見下ろされ、一人立ち尽くしていた。


「藍」

「……が、……った」

「え?」


 ぼそりと呟かれた言葉が聞き取れず、一歩側に寄る。


「俺が、死ねばよかった」


 言葉の悲痛さとは裏腹に、藍の顔には何の感情も宿っていない。


「芻ではなく、俺が死ぬべきだった。忌子いみこの俺が」

「藍!」


 与えられた言葉をただ読み上げているだけのような、淡々とした口振りが痛ましく、聞くに耐えなくなって、皓皓は藍の袖を引いた。


「誰も死ぬべきじゃなかった。芻様も、藍も」

「俺は……」

「芻様が亡くなられたのは藍のせいじゃない。エン様に、殺されたからだ」


 藍の体が震え出す。


「宛……芻……」


 血を吐く程の痛みをともなわせて、藍は彼らの名前を呼ぶ。


「どうしてっ……宛は、どうして俺ではなく、芻を殺したんだっ……」


 あの時、宛自身が語った動機など、この悲痛な問いかけに対し、少しも意味を成さない。

 藍が求めているのは彼の行動の理由ではなく、ただ芻の命が救われることだけなのだから。


「俺は、あいつの……宛や芻のためなら、躊躇ためらいなく死ねたのに」


 それが、全てだった。

 生まれた時から忌子とうとまれ、己の生まれを呪い続けてきた藍をいつくしんでくれた、藍が心を許したたった二人。

 藍から彼らに向けた想いは、それが全て。


「たった一言『死ね』と言ってくれれば、俺は喜んで従ったのに」

「藍」


 今日だけで何度名前を呼んだことか。

 それが一つも彼自身に届いていないことがむなしい。


 両手を伸ばし、藍の頬を包む。

 肩の怪我が痛んだが無視をした。


「それは、君が背負ったらいけない罪だ。

 全てを自分のせいにして、芻様を殺した宛様をゆるしてしまわないで」


 藍色あいいろの瞳が大きく揺らぐ。

 残酷なことを言っていると、わかっていた。


 誰かを恨むより己を憎んでしまう方が、手っ取り早く心を守れる時がある。

 自分を嫌い、彼らを愛していた藍には尚更。

 少なくとも自分で自分を傷付けている間は、他の痛みが気にならない。

 自ら突き刺す刃より、他人からわされる傷の方が痛いから。

 十分過ぎるほど傷付いている藍に、これ以上の痛みをしたくはない。


 それでも、彼は向き合わなくてはならないのだ。

 己に向けられた刃と、己が刃を向ける相手に。


「君は宛様の罪を憎まなくちゃいけない。そうでないと、芻様が救われない。

 だって、芻様は藍のことが好きだったんだから」


 膝が折れ、ずるりと崩れる藍の体を支えた。

 神に祈りを捧げるように、あるいは誰かに許しを請うように藍は地面に跪き、皓皓がその頭を抱く姿勢になる。

 胸に押し当てられた重みが、熱が、彼が生きていることを伝えてくれる。


「芻様は君のことが、大好きだったんだ」


 遮る物のない月と星の光が、憐れな彼に冴え冴えと降り注ぐ。

 冷たい夜の空気はぴんと張り詰め、何処か遠い所で獣が遠吠えをする声が微かに聞こえていた。

 異邦の地は鳥たちを優しく包んでくれることはなかったが、生まれ故郷の国のように二人を弾き出すようなこともなく、ただ密やかな夜がたたずんでいるだけだった。


 まるで彼の体の中の炎が悲しみを焼き尽くしてしまったかのように、藍は最後まで涙を流さなかった。

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