第十九話 逃飛行


 何が起こっているのか、ランには少しも理解出来ていなかった。

 皓皓コウコウが此処へ残ることを決めて、エンが宴を開いて、胡琴こきんを奏でて。

 朝起きて、スウに招かれた朝食の席に着こうと、皓皓と共に中庭に出て、それから。


 それから?


 ぼんやりと思考を巡らせる。

 何故、飛べないはずの自分の体が宙に浮いているのだろう?

 中庭の、あの円卓の上で横たわっているのは、誰だ? 

 藍たちを見上げて高笑いを上げている彼の顔を、知っている気がする。


「ああ。やはり素晴らしい力だ」


 うっとりと狂気に満ちた笑顔を浮かべる宛が、一変して悲痛な表情を作った。


「誰か! 誰かいないか! 芻が、芻が!」

如何いかがなさいました? ……これは!」


 飛び込んで来た鷹順ヨウジュンが、中庭に広がる壮絶な光景に絶句する。


「芻様! これはっ……何故……?」

「藍が……」


 宛に示され空を見上げた鷹順は、瞬時に背負った弓を取り、矢を放った。

 矢は、宮の屋根を飛び越えるため高度を上げようとしていた皓皓の、右羽の付け根に正確に突き刺さる。

 ぐらり、と大きく姿勢がかしげた。


「おいっ……」


 何が何だかわからないまま、藍は皓皓に呼び掛ける。

 落とされることを恐れているわけではない。

 皓皓が必死で気力を手繰り寄せ、藍を掴む爪に力を込めるのがわかった。


 しかし、どうすればいい?

 背中に乗るならまだしも、こんな不安定な姿勢で飛び続けるのが無理なことは、鳥になったことのない藍でもわかる。矢が刺さったままの羽では尚更だ。


 その時だった。

 翡翠色ひすいいろの美しい鳥が、何処からともなく矢のように飛び込んで来た。


 藍と皓皓にその存在を訴えるように目の前を横切ってから、鳥はある方向を目指し始める。

 一瞬の判断で、皓皓はその後を追う。

 翡翠色の鳥は宮の屋根を飛び越えて、すぐに急降下を始めた。

 ぐんぐん降りて転がるように着地した先は、宮を囲む壁のすぐ内側。等間隔に並べられた倉庫の前。


「藍様、皓皓様!」


 着地と共に変化を解いた二人は、皓皓が懇意にしていた使用人の少女たちだった。

 皓皓も転がすようにして藍を地面に下ろし、人の姿に戻る。


「君たち、どうして?」

「お話している時間はありません。急いで!」


 藍たちを待ち構えていたように、倉庫の一つの扉が開いた。

 中から出て来たのは宮の使用人たち。


小翡ショウヒ小翠ショウスイ。早く!」


 後に続いて、二人、三人、いや、もっと。

 藍の前に姿を見せたことのない使用人たちが、慌ただしく集まってくる。

 そのうち一人が皓皓に駆け寄り、肩に刺さった矢を抜いて止血を始めた。


「おまえたち……」


 地面に座り込んだままの藍を、一人の男が助け起こす。


「言い付けを守らず、申し訳ございません」


 ――自分の前に姿を見せるな。


 藍が彼らに命じたのは、この十年間でたった一つ。それだけだった。

 それなのに、彼らは今日に至るまでずっと、求められずとも食事を用意し、着物を整え、部屋を掃除して、藍が何不自由なく暮らせるように仕えてきてくれた。

 その彼らが今、たった一つ下された命を破ってまで、藍の前に姿を現している。


「藍様、お逃げください」


 藍は、彼らに「自分を助けろ」と命じたことはない。

 だからこれは、彼ら自身の意思。


「状況を理解しているのか?」

「いいえ」


 彼はあっさりと首を横に振った。


「しかし、貴方様が追われているということだけはわかっております」

「……宛に逆らうことになるぞ?」


 この宮は兄皇けいおうからあてがわれたもので、主こそ藍という形を取ってはいるが、優先されるべきは宛の指示の筈。

 今、藍を捉えようとしているのは、他ならぬ宛である。

 ならば使用人たちは当然、宛に従い藍を捕らえるべきだ。

 宛に逆らうと言うことはすなわち兄皇に逆らうということ。

 反逆罪として問われ兼ねない。


「わたくしたちは、皆、ずっと藍様のことを見守っておりました。貴方様がどのようなお方か、よく存じ上げております。誰の御身を重んじるべきか、我々は我々で判断します」


 小翡と小翠が中身の詰まった布袋を運んで来る。

 皓皓が此処へやって来る時に持っていた、僅かばかりの荷物らしい。


「皓皓様。藍様を連れて行って差し上げてください。この宮の、籠の外の、広い世界へ」

「どうか、どうか。藍様をお護りください」


 ぎゅっと抱き付く少女たちの頭を、皓皓が左右の手でそれぞれ撫でる。


「……任された」


 誰かがはっと顔を上げた。

 空にぽつり、ぽつりと鳥の影が現れ、こちらに向かって来る。

 宛の臣下たちに違いない。


「行ってください。この場は、我々が」


 使用人たちは各々対になり、鳥の姿を纏って、空へと飛び立って行く。


「藍様をお願い致します」


 皓皓の手当てを終えた彼は、隣の女官の手を取って、鳥の姿を纏った。彼女が彼のつい片割かたわれらしい。


「……行こう。藍」

「だが、」


 皓皓に促されながら、まだ躊躇ためらいが残る藍の背中を、また別の使用人が押した。


「皓皓様。藍様を、お願い致します」


 皓皓が頷いたのを見て彼は駆け出し、追い付いて来た別の使用人と共に、鳥になって、空へと舞い上がる。


 叫びたいのに、声が出ない。

 彼らが、藍が六つの時、初めてこの宮にやって来た当時から仕えてくれていた使用人たちであることを、藍は知っていた。

 彼らの名前も、本当は知っている。


「藍!」


 再び鳥になった皓皓が、その背中に藍を乗せて舞い上がる。

 まだ怪我は痛むのだろうに、皓皓は構わず羽ばたいた。


 後ろの方で、激しく羽を打つ音が、ぎゃぁ、という鳴き声が上がる。

 振り返ろうとする藍をさえぎって、背中から回り込んで来た翡翠色の鳥が、皓皓と藍の両脇を守りながら滑空かっくうした。

 追って来ようとする宛の臣下たちは、全て宮の使用人たちの決死の突撃に阻まれている。


 宮を囲む壁を飛び越え、二羽と一人は紅榴山こうりゅうさんの木々の上空へおどり出た。


 外の世界に焦がれる気持ちは、いつだって藍の心の中にあった。

 あの夜、皓皓が連れ出してくれた時の、胸踊る感覚も覚えている。

 それなのに、今は、どうだ?

 こんなに広い空を飛びながら、どうしてこんなに息苦しい?


 宮から離れるにつれ、山の標高は高くなっていく。

 合わせて、鳥たちも高度を上げた。


 今日の空は雲が多い。

 籠の鳥がうた雲だ。


 速く、速く。

 高く、高く。

 遠くへ、遠くへ。


 ひたすらそれだけを目指し、飛んで行く。

 上空の風は冷たい。そうだ。もう冬が近い。


 震える手で掴んだ皓皓の背中だけが、今、藍が唯一縋り付ける温もりだった。


 そして、とうとう、山頂へ辿り着いた時。

 その向こうに開けた景色は、果てのない草原。


 其処はもうこの国ですらない。


 見届けた翡翠色の鳥が速度を落としながら、皓皓と藍の周りを大きく旋回する。


(藍様を、どうか)


 聞こえないはずの声が聞こえた気がした後、彼女たちはゆっくりと二人から離れて行った。


 皓皓はそのまま真っ直ぐに飛び続ける。

 後に残して来た全てを、振り切るように。


「……芻」


 唇からその名前が零れる。


 ぽつり、と。


 雨が、落ちてきた。

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