第十八話 『赤』


 翌日、皓皓コウコウが目を覚ましたのはいつもよりかなり遅い時間だった。

 慣れない酒のせいか、頭がすっきりしない。

 水差しの中のぬるい水を飲むと少しは目が覚めたが、まだ気怠けだるかった。

 のろのろと身支度を整えて部屋を出る。

 階下に向かう途中でランに出くわした。


「あ、藍。おはよう」

「ああ」


 藍の視線がそそがれている先に気付いて、皓皓は自分の髪を、そこにくくり付けられた赤い飾り紐を摘まみ上げる。


「これ? スウ様に頂いたんだ。不敬だとは思うけど、付けないのも失礼だから」


 ふと、藍が皓皓から目を逸らした。


「……いない、筈だったのにな」

「え?」


 藍が零した独り言に、皓皓は首を捻る。


「晴れたな」


 逸らした視線を廊下の窓の外に向けて、藍が言った。


「晴れていたら中庭で朝食にしようと、昨日、芻が言っていたな」

「あの中庭は、芻様が整えたんだってね」

「ああ。俺が移ってきたばかりの時は、乾いた土と石しかない日陰だった。あまりに殺風景だからと、芻が花の種を植えたんだ」


 それから、皇女が植えた花を枯らしては事だと、使用人たちが世話を始め、そのうち木が植えられ、東屋あずまやが立ったのだそうだ。

 だから彼処は彼女のための場所なのだ。


 相変わらず人の気配のしない宮を、藍と並んで歩く。

 此処へ来たばかりの頃のようなわびしさや不安は、もう感じなくなっていた。


「芻のことだからな。多分、はりきって準備しているぞ」


 言いながら、中庭へ続く扉に手を掛けた藍が、ぴくり、と肩を震わせて動きを止める。


「どうしたの?」


 藍の顔を覗き込んだ皓皓は、その色のない表情に底知れない不安を覚えた。


(何だ、この予感は?)


 例えば、後で食べようと持ち帰った餅菓子を、机に置いたまますっかり忘れてしまったことがある。

 思い出して手に取った時には、包みを開けるまでもなく、とっくに腐っていることが明らかだった。

 わかっていたのに開いてしまった包みの中、湧いたうじのおぞましさに思わず包みを放り投げた。


 決して良い時には働かない予感。

 わかっていて尚、開けて確かめずにはいられない。


 藍も同じ予感を覚えたのだろう。

 ごくりと唾を呑んで、扉を押し開ける。


 秋の花が咲く中庭の中心には、椅子と卓が置かれていて、芻がいた。


 いや。いた、と表現するのが正しいかどうかは難しいところだ。

 豊かな金色こんじきの髪が卓上に広がり、白く細い腕がだらりと垂れる。


 芻は、いつも彼女が手ずから整える卓の上で、仰向けに横たわっていた。


「芻?」


 張り付いた上下の唇を無理矢理剥がすようにして、藍がその名を呼んだ。


 ――こんなところで居眠りなんて行儀が悪いだろう?


 そんな皮肉を言えば、起き上がって「そうね」と笑うだろう、と。

 そう期待しているかのように。


「……藍」


 だが、皓皓は気付いていた。

 藍に見えていない、あるいは意図して見ないようにしている――


 芻の胸を貫いて卓に突き刺さる、片刃かたはつるぎ


 目の前の光景を受け入れられない頭が、その場に足を縫い止めてしまう。

一歩も動けずいる皓皓の隣で足を踏み出す藍を、どうしても、止められなかった。


 藍が卓の前に立ち、芻を見下ろす。

 考える余地があったはずもない。

 そうするのが当然だと言わんばかりに、藍は芻に突き刺さった剣の柄に手を掛け、


「藍、駄目だ!」


 我に返った皓皓が叫ぶのとほぼ同時に、それを引き抜いた。


 赤い色が散る。

 芻の着物より、髪を飾る紐より、もっと赤い色。

 火の神の羽だって、きっとこんなに赤くはないだろう。


 息を呑む音の後。

 絶叫が響き渡った。


 後にも先も、あんなに悲しい声を、皓皓は聞いたことがない。


 藍の体がその場に崩れ落ちた。


「藍!」


 もつれる足を叱咤しったし駆け寄って、今頃気付いた錆びた鉄の臭いに息を詰める。


 胸の真ん中に穴を開けて、芻は絶命していた。


 陽の光が反射して、銀色の刃が鈍い赤色に光る。

 こぽり、と溢れた血が元から赤い着物を更に鮮烈に染めて、卓上に出来た血溜まりから雫が滴った。

 長い睫毛に縁取られた瞼を閉じ、薄く開かれた唇はまだ艶やかで。


 美しく、ただ眠っているだけのようで。


 本当にそうだったなら、良かったのに。


「やぁ、おはよう。藍」


 この場に不釣り合いな爽やかな声がした。

 卓の向こうで、エンが足を組んで椅子に腰掛けている。軽い調子で片手を上げた。


 目の前の光景が見えていないはずがないのに、見えていれば作れないはず笑顔で、宛は其処にいた。


 あちらとこちらの間に境界線があって、へだたれた別の世界をぎされているのかと、そう思ってしまうほどちぐはぐな


「お、まえ……」

「そうだよ。僕がやった」


 宛が言う。嘘のように、呆気なく。

 藍が力なく首を振った。


 そんな答えを聞きたかったわけではない。

 そう言うように。


「僕が芻を殺した」


 宛が椅子から立ち上がり、卓の上に体を屈め、事切れた芻の頰を撫でた。

 その仕草は無邪気に眠る双子の片割を愛おしむそのもので、言葉と行動の噛み合わなさが気持ち悪い。


「これで、僕は両羽りょうはねの力を手に入れられるのかな? ねぇ」


 向けられた顔が芻とそっくりであることに、吐き気がした。


「皓皓。君が教えてくれたんだ。

 『死んだ対の相手の亡骸なきがらを借りれば、一人きりでも鳥になれる』と。

 そうだろう?」

「あ……」


 喉から漏れた音は意味を為さない。


(どうして、それを?)


 決まっている。

 聞かれていたのだ。藍に打ち明けた、自身の秘密を。


 誰にも気付かれず宮を抜け出すなど、出来るはずはなかった。

 あの夜、誰か――おそらくは宛の息がかかった者に、後を付けられていたのだ。そして、皓皓が藍にだけ打ち明けたつもりの話を聞いていた。


 どうしてずっと秘密にしてきたか。

 何より、これを恐れていたからなのに。

 不用意な自分の舌を、噛み千切ってしまいたくなる。


 頭では理解していても、心の何処かではまさかと思っていた。

 まさか、力欲しさについ片割かたわれを殺める人間がいるはずはない。

 そう思っていた。


「こんなこと、許されるはずが、ない」


 この国において、対の相手を殺めることは重罪だ。

 単なる殺人とは比べるべくもなく、深く、呪わしい罪。露呈すれば重い罰が科せられる。

が、実際に対殺しの罪で罰せられた例を、皓皓は知らない。


 罪と罰以前の問題。

 倫理が、必然が、魂が、許さないはずの禁忌。

 決してありえない、あってはならない過ち。


「『一人きりで生まれた弟皇ていおうの皇子は、従姉いとこの皇女を愛していた。

 しかし、忌子いみこである彼は彼女に拒絶され、逆上し「手に入らないのならばいっそ」と皇女の胸に刃を突き立てる。

 残された皇女の対の片割は嘆き悲しみ、涙を流しながら彼女の仇を討つ』

 陳腐だが、なかなか悲劇的で、大衆受けしそうな筋書きだろう?」


 旅芸人が朗々と台本を読み上げるように、宛が自らの計画をつまびらかにする。


「なぁ、藍。僕は知っていたよ?

 芻は君のことが好きだった。君も芻のことが好きだったろう?」


 藍の肩がびくりと痙攣する。


「芻と結ばれて皇家に舞い戻り、弟皇の座に着いて僕と共に国を治める。口では否定していたけれど、君は、そんな未来を思い描いていた。

 でも、わかってもいたはずだ。そんなこと出来るわけがないと。


 だって、君は片羽かたはねの『忌子』なのだから」


 藍は剣を握り締めたまま、呆然と宛を見上げた。


「僕はね、君のことが嫌いだった。ずっと、嫌いだったよ」


 淡々と吐き出される悪意で塗り固められた言葉。

 だが、藍を切り刻んでいるのは、彼に向けられるさげすみではない。


「忌子でありながら僕より優秀で、役にも立たない籠鳥ろうちょうのくせに、芻から愛されて。そんな君が表舞台に立った時、僕はどうなる?」

「俺は……」

「知っているよ、藍。それでも君は芻と、僕を愛している」


 世界でたった二人だけ。

 親にさえ捨てられた己の存在を認め、愛してくれた人。

 その片方が失われ、奪ったのが、もう片方であるという事実。


「だから、君は僕を憎めない。そうだろう?」


 宛は藍の正面に立ち、手にしていた短刀の鞘を払う。


「さよなら、藍。僕に芻の仇を取らせてくれ」


 振り上げられた刃が振り下ろされる前に、皓皓は藍に跳び付いた。

 押し倒された藍の首の代わりに、皓皓の頰が切り裂かれる。

 ちりっ、と熱が走り、遅れて痛みがやってきた。


「おまえ、」

「藍! 藍、しっかりして!」


 力なく地面に転がったまま、藍の目が皓皓に向けられる。

 何も映さないよどんだ暗い瞳。

 ぞっとした。


「おや? 君が邪魔をするのかい? 他でもない、僕に神の力を手に入れる方法を教えてくれた、君が?」


 宛の言葉に、心臓が破裂しそうに痛んだ。

 だが、揺らいでいる場合ではない。

 藍の力になる。そう決めたではないか。


「藍、お願いだ。起きて!」


 皓皓の必死の懇願も届いていない様子で脱力していた藍が、不意に、弾かれたように跳ね起きた。


「皓皓!」


 先程と立場が入れ替わり、藍に強く腕を引かれた皓皓のすぐ後ろで刃が空を切る。


「ああ、そうだね。君にもいなくなってもらわなくてはいけない。皇家の悲劇に、必要のない役だからね」

「どうして……」


 淡々と述べる宛に、問わずにはいられない。


「どうして貴方は、僕を此処に連れて来たんですか?」


 こんなことになるのなら、どうして?


「だって、あのまま芻が藍と結ばれていたら、面白くないだろう? 君という玩具を与えられれば、藍が大人しくなると思ったんだ。

 でも、結果的にもっと劇的な方法を教えてくれたのだから、連れて来て正解だったな」


 喉の奥に詰まった息を震えながら吐き出す。


 覚悟は、決まった。

 首から下げた鳥籠の飾りを開き、骨の欠片かけらを噛む。


 一瞬で鳥に変化した皓皓は、猛禽類が獲物を捕らえるように両足の爪で藍の着物の帯を引っ掴むと、空へと羽ばたいた。

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