第十話 夜空


 ランは緊張に身を固くした。

 人の姿の時は藍より一回り小柄で少女のような体型の皓皓コウコウが、鳥の姿を取るとこうして平然と藍を背中に乗せて飛べるのだから、神の力とははかり知れない。

 宮殿と外界を隔てる深い谷を悠々と越えて、藍を乗せた鳥は飛んで行く。

 徐々に肩の強張りが解けて景色を見渡す余裕が出てくると、それを感じたのか、皓皓も気を良くして速度を上げた。

 藍を連れ出すのを建前としていたが、皓皓も久々に宮を離れ、言葉通り羽を伸ばせる自由が嬉しいのだろう。

 眼下がんかに広がるのは黒々とした山林の影ばかりで、ここまで上っても星はまだ遙か頭上にある。


 焦がれた青空とは程遠い。

 しかし、今、確かに空を飛んでいる。


 夜風に髪をたなびかせながら、藍はその事実を強く噛み締めた。


 あてもなくただ夜間飛行にきょうじていたかのようでいて、どうやら皓皓には目的地があったらしい。

 しばらく効かない夜目をらして何かを探していたかと思うと、やがて、一点を目指して下降を始めた。

 降り立ったのは山中の一角。

 木々を伐採して拓いた僅かな土地に、粗末な小屋が一軒建っているだけの場所だった。


 藍が背から退くと、変化を解いた途端、皓皓は大きくふらついた。


「おい。大丈夫か?」

「大丈夫です。少し休めば」


 鳥になる時、普通は二人が一組になる分、力も二人分がそなわるものらしい。

 だが、皓皓の場合は一人で変化するため――魂に宿った神の恩恵で人の姿でいる時以上の力は発揮出来ても――他の鳥たちと比べて負担が大きいのかもしれない。

 藍を乗せてあれだけ飛び回ったのだから、消耗して当たり前だ。


「此処は?」

「僕の家です」


 突然連れ出され、そのまま帰れなくなってしまったとあっては、さぞ気掛かりだったことだろう。

 外へ出られたついでに立ち寄りたい、という皓皓の気持ちは察するにあまりあったので、藍は大人しく彼に従った。


 案内された家の中は、半月と少し留守にしていた分なのか、片付いている割には埃臭い。

 一旦扉と窓を全て開いてから、皓皓はかまどに火を入れた。


「汚い所ですみません」


 と言いながら卓の上を拭き、湯を沸かしているかと思えば、手早く茶の用意が出来ていた。


「冷えたでしょう? 体が温まるお茶です」


 振舞ふるまわれた薬草茶を、一口飲んでみる。

 普段口にしている煎じた葉で入れる茶より、青くて爽やかな香りと味がした。不味くはない。そして皓皓の言う通り、体が芯からじんわりと温まった。


「何故、今まで逃げ出さなかった?」


 藍は茶杯を両手で包みながら、換気を終えた窓を閉めている皓皓に疑問を投げかける。


 あの宮は藍にとって、出口のない絶対の牢獄だ。

 しかし、皓皓には違った。


「こうして一人で飛べるのなら、すぐにでも出て行けただろう」


 陸路がないというだけで、監視が付いていたわけでもない。

 どうせ一人ではどうしようもあるまい、と思われているからだろう。そのあたりの管理は甘いのだ。

 空を行ける人間ならばいつでも逃げだせたはずだ。

 それなのに、彼は今日の今まで大人しくとらわれたふりをしていた。何故?


「僕が一人で飛べることは、秘密なので」


 一人で変化するためには、死んで生まれた双子の片割の遺骨を使うこと。

 その不吉な方法が広く知れ渡れば誰かに悪用され、それこそ災いを招くかもしれない。だから誰にも言ってはいけないと、養父母にきつく言い聞かされたこと。

 皓皓は包み隠さず正直に、藍にそれを打ち明けた。


「質問を変える。だったら何故、今になって俺にその秘密を打ち明けた?」


 皓皓はゆるゆると首を振る。


「……自分でもよくわかりません」


 今までずっと、育ての父母以外には秘めてきたこの事実なのだと言う。

 それを明かすことは彼にとって、あの露台から飛び降りるよりもっと勇気のいる決断だったに違いない。

 衝動的な行動だったとしても、皓皓を突き動かしたものは気まぐれではない何かだったはずだ。

 その何かが何か、藍にはわからない。

 彼が秘密を打ち明けるのに選んだ相手が、何故自分だったのかも。


「今頃、宮は大騒ぎでしょうか? 藍様がいなくなって」

「こんな時間だ。まだ誰も気付いていないだろう。俺が部屋から出ないのも、書庫やあの露台に居座り続けて動かないのも、珍しいことではないからな。

 実際、いなくなっても二、三日くらいは気付かれないんじゃないか?」


 藍の言い分に、皓皓は唇を尖らせた。


「気付いていないんですか? 小翡しょうひが、小翠しょうすいが、他の使用人たちが、どれだけ藍様に対して心を配っているのか」

「……やめてくれ」


 毎日毎食用意される食べきれない品数の料理。

 塵一つ残さないように掃除された部屋。

 いつも新品のように整えられた衣服。

 全てが整った環境に、藍は慣れ切ってしまっている。

 いちいち使用人の気配など探さない。気にしない。

 そう思っていなければ息苦しくてやりきれないのだ。

 彼らの気配りを見逃せる鈍感さを持ち合わせていたのならば、もう少し楽だっただろうに。


「二、三日は言い過ぎとして……明日一日、いや、半日くらいなら誤魔化せるはずだ」


 使用人たちは宮の隅々にまで気を効かせているが、藍の部屋とあの露台には立ち入らない。そう命じてある。

 半日。夜眠りに就いてから、ひどい寝坊をして起きる昼まで。

 それくらいの間ならば、藍が食事を抜いて部屋に篭っていても誰も怪しまない。

 怪しまれるとしたらむしろ、皓皓の不在の方だろうが、彼への詮索は藍への監視程厳しくはないはずだ。


 茶杯を置く。


「頼みがある」


 何処かの誰かのような我儘だ。それを口にしてしまったのは、夜空を飛び回った興奮がまだ醒めやらずにいたからか。

 心臓が高鳴っていた。

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