第十一話 診療所


 里の様子を見てみたい。

 それがランからの「頼み」だった。


 いざこれから、と言うにはあまりに遅い時間だったため、出掛けるのは翌朝にしようと、その日は皓皓コウコウの粗末な家で夜を明かしてもらった。

 不遜な態度の割に、薄い布団に文句の一つ、嫌味の一つ言わないあたりが、彼の性根が本当はどうあるのかを表しているのだろう。


「その着物は着替えた方がいいと思います。里では目立ちますから」


 皓皓の助言に、黒い長衣ちょういを見下ろして、藍は無言で頷く。

 黒い着物が民間でも奇抜に映ることは承知しているらしい。


 そういえば、藍はどうしていつも黒い服を着ているのだろう?

 皇族は皆エンのように、赤い着物を着るものだと思っていた。

 何故わざわざ好きこのんで忌色いみいろを?


(だから、か)


 その意図を悟り、皓皓は尋ねるのを止めた。


 藍は民衆の前に姿を現したことは一度もないという話だから、里を歩いても皇子だと気付かれることはないだろう。

 しかし、だからこそ万が一ばれたら大事だ。ただでさえ面白くない噂話に尾羽が付いてしまう。悪目立ちさせないように用心した方が良い。

 背の高い藍に見合った丈の物が見付からず、裾の足らない若干みっともない着こなしになってしまったが、喪服よりは幾分かましだろう。


 途中までは昨夜のように皓皓が背中に乗せて飛び、里に近くなってからは二人で歩いた。

 人目のない夜の山中であればまだしも、誰かに見られる可能性のある所で変化をしたり解いたりしたくはない。


「それで、里の何を見たいんですか?」

「何を、というわけでもない。ただ人里がどういうものか知りたいだけだ」

「それなら、まず診療所に行ってみてもいいですか? 知り合いがいるので」

「構わない。任せる」


 鷺信ロシン先生の診療所は里の中心近くにある。

 木の杭に縄を張って囲われた畑では、いつも薬の原料になる草花が育てられていた。

 通りすがりに覗き込んでみると、まだ草木が立ち枯れる季節でもないのに、土の上に顔を出している緑に勢いがない。鷺学ロガクが不作だと言っていたが、これ程とは。


診療所は里でも有数の大きな建物なのだが、藍からして見ればそれでもこじんまりとして見えたことだろう。

皓皓でさえ、あの宮で過ごした後となると、その大きさと威厳に、いつも通りの感嘆の息を吐くことは出来なかった。


 その入り口の戸を開けた皓皓は、思わず絶句する。

 待合室は人で溢れていた。

 里中の人が集まっているのではないか、とすら錯覚してしまいそうな程に。


「いつもこんなに病人がいるのか?」


 藍が驚いたように尋ねてくるが、これは異常だ。

 子供の頃から何度もこの診療所を訪れている皓皓も、こんなに多くの人が詰めかけているのを見たことはない。

 そして更に異様なのは、診察を待つ人々が皆一様に顔を赤くして呼吸を荒くするという、高熱の症状を見せているという光景だった。


「皓皓。皓皓じゃないか」


 聞き覚えのある物静かな声にはっとして見れば、診療待ちの患者のための長椅子で連れの体を支えているのは、織物屋の福小父フクおじだった。彼にもたれ掛って苦しそうに息を吐いているのは――


栄小母エイおばさん!」


 いつもなら皓皓の姿を、まして見慣れない男を連れている姿を見れば、意気揚々として跳び付いてくるはずの栄小母が、今は顔を上げることも出来ずに夫に肩を抱かれている。

 それでも皓皓が駆け寄ると億劫そうに瞼を開き、無理矢理に微笑もうとした。


「おや、皓皓。アンタも風邪かい?」


 胸が潰れそうな思いで、皓皓は栄小母の手を握る。

 栄小母の手首の内側には、赤い湿疹が浮かんでいた。

 思わず「あっ」と声を上げると、藍も気付き、無遠慮に栄小母の着物の袖を捲り上げた。

 湿疹は肩まで広がっており、皮膚はただれたように赤い。

 こうして手を握っているだけで、熱が酷いことも伝わってくる。


「これ」

「間違いないな」


 例の流行病だ。

 書物庫で見た国の地図に散らばった点と、栄小母の腕に浮かぶ湿疹が重なって、腹の中に冷たいものが落ちていくような恐怖を感じる。


「皓皓!」


 大きな声を上げながら駆け寄って来た相手に、皓皓はほっと肩の力を抜いた。


「鷺学」

「まさか君も熱病……じゃ、ないみたいだな」


 鷺学は皓皓の姿を見て、一瞬安堵と喜色が浮かべた顔を、患者の前だと引き締める。


「外で話そう」


 皓皓は頷き、藍を伴って診療所の裏へ回った。


「聞きたいことはいろいろあるけれど、とにかく元気そうで良かった。

そちらの方は?」


 鷺学に目を向けられると、藍はしれっと顔を背ける。

 人見知りをしているのか、単に面倒臭がっているだけか、ともかく自分で説明する気はないらしい。


「藍っていうんだ。なんというか、その、知り合いで」

「知り合い?」


 適当に誤魔化そうとしたところで、皓皓にろくに知り合いがいないことを、鷺学はよく知っている。


「あ、えっと……父さんの」

「じゃぁ、薬師の?」

「まぁ、うん、そんなところ」


 鷺学が先走って憶測を進めてくれたので、もうそういうことにしてしまおう。


「忙しいのに、邪魔してごめん。遅くなったけど、これ、頼まれていた薬草」


 皓皓は布で包んだ荷物を鷺学に差し出した。


「ネツサマシか! 待ってたよ!」

「あと、他にもいくつか持って来た。必要かい?」

「助かる。あれもこれも足りなくて困っていたんだ」


 何不自由なく過ごせていた宮での暮らしの中で、一つ、気掛かりだったこと。

 藍を連れて宮を抜け出す前、大急ぎで庭で摘み集めた薬草を包んで来たのだ。もしも診療所に寄ることが出来れば、そうでなくとも自分の家に書き置きと共に残してくれば、いつか鷺学が気付いて持って行ってくれるのでは、と。


 一抱えもある薬草の山を受け取って、鷺学は「ありがとう」と疲れた様子で微笑む。

 目の下に薄く隈が浮いている。頰も少しやつれたように見えた。


「あの後どうしていたんだい? けいお……あの方に連れて行かれたきりだったから、心配していたんだよ。家を訪ねてもずっと留守だし」

「ごめん。色々あったんだ」


 言葉を濁す皓皓に鷺学は釈然としない様子だったが、とても今だけで全てを説明することなど出来ない。

 それ程、色々なことがあったのだ。


「忙しいの? 診療所」

「ああ。あれからまたどんどん患者が増えている。皆同じ症状だ」


 鷺学が「実は」と重い息を吐いた。


「とうとう死人が出てしまった。周爺シュウじいさん、皓皓も知っているだろう?」

「あの大きな畑の?」


気の良い農夫の老人は、まだ皓皓が幼い時分、学校帰りに畑の前を通り掛かればいつもいだばかりの野菜を持たせてくれたものだ。

 唐突な訃報ふほう眩暈めまいがした。


「もう結構な歳だったし、元々持病をわずらってはいたんだけどね」

「治療法は進んでいるのか? 薬は? 足りているのか?」


 出し抜けに口を挟んできた藍に、鷺学が不審の目を向ける。


「未だに原因が見付からない。今は解熱剤で症状を抑えるしかない状況だ」

「対処療法では駄目だ。根本の原因から取り除かないと、被害は拡大していくばかりだぞ」

「だからその原因がわからないと言っている」


 鷺学はあからさまにむっとした表情を見せた。

 疲労が溜まっているのだろう。初対面の相手にこんな刺々しい態度を取るなど、快活でお人好しな彼らしくない。

 鷺学の苛立ちもわかるが、一方で、皓皓には藍が黙っていられない程に焦っている理由も理解出来てしまう。


 熱病の流行は皇都おうとを中心にして広がっているという話だった。

 都から遠く離れた里でここまで事態が深刻になっているとすれば、それはすなわち国全体が危機にひんしていることになる。


 藍は難しい顔で口を閉じる。


「なぁ、皓皓。この前の話なんだけど……」


 鷺学が意を決したように皓皓へ向いた。


「里で暮らさないかって、あの話」

「こんな時に……」

「こんな時だからだ」


 その目は至って真剣で、真っ直ぐだった。


「うちへ来て、一緒に診療所を手伝ってくれないか?」


 いつもの世間話の延長とは違う。

 本気が伝わってくる口調だった。


「僕はただの薬売りだ。役に立たないよ」

「皓皓には医学の心得がある。勉強熱心だし、気も利くし、医師としても十分やっていける」


 そう言って、皓皓の両手を強く握る。

 鷺学の手は、患者から熱を貰ってきてしまったみたいに熱かった。

 それが鷺学の熱意の証だと、わかってしまう。

 

 里での暮らしに憧れたことがないと言えば嘘になる。

 鷺学ならば、鷺信先生や鷺朔ロサクならば、皓皓が片羽かたはねであっても気に留めず接してくれるし、養父母から受け継いだものを大切にしたい皓皓の意志も尊重してくれる。

 鷺学が今差し出してくれているのは、願っても無い申し出で、皓皓にとっての最善の未来に違いない。


 わかってはいる。

 でも、皓皓にはまだ先のことなど考えられない。

 少なくとも、このまま藍を放って此処に残るわけには――思ったところで、いつのまにか藍の姿が見えないことに気が付いた。


「藍? 鷺学、僕の連れの人は?」

「あれ? 本当だ、いつのまに?」

「……僕、行かなくちゃ!」

「皓皓!」


 鷺学の手を振り解いた皓皓を、必死な声が呼び止める。


「ごめん、鷺学!」


 ここで走り出すことは、熱に苦しむ里の人や、恩のある鷺学たちを裏切る行為なのかもしれない。

 だが、今、頭を占めているのは「藍を一人にしてはいけない」という考えだけだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る