第九話 恋雲


 この宮へ閉じ込められて何日目だったか、数えるのが面倒になってきた頃の、ある夜。

 前庭で摘んだ薬草と一緒にいくつかの道具も部屋に運んでもらい、夕食後、皓皓コウコウは摘みたての野草茶を入れた。

 青臭く懐かしい香りが、毎食の豪華な料理でもたれつつあった胃に染み込み、ふっと落ち着いた気分になれる。

 思った以上に沢山摘み取ってしまった薬草たちは、小さな束に分けて窓辺に吊るした。こうしておけば水分が抜けて、日持ちするようになるのだ。


 夜風に草の匂いが混じる。

 昼間日向でせっせと動いている時には汗ばむくらいの気温だったのに、日が沈んだ途端風が冷たくなった。もう秋も半ばだ。


 この国の守り神である鳳凰は、火をつかさどる神だ。

 火の勢いが最も盛んになるのは夏。

 冬は神が沈黙する季節であり、民もまたつつましく暮らさねばならないと言われている。

 今はその中間、夏の恩恵の熱を、冬籠りに備えて蓄える時期。

 皓皓がついせっせと薬草の収穫に勤しんでしまったのは、そんな毎年の習慣のせいもあるのかもしれない。


 此処での暮らしにもすっかり慣れてしまった。

 庭で薬草を摘み、仲良くなった小翡ショウヒ小翠ショウスイの手伝いをして、書庫から借りて来た本を読む。

 適当に選んだ本は難しくて読み進めるのに手間取ったが、いつのまにか部屋に差し入れられていた辞書の助けを借りると、なんとか少しずつ理解出来るようになった。


 最近、まだ養父母が生きていた頃のことを思い出す。

 あの頃と今とでは、何もかもが違うのに。


 開け放った窓の側で秋の夜に浸っていると、そのうち、風に混ざるものが薬草の匂いだけではないことに気が付いた。

 何かの音。

 夜の鳥の鳴き声? いや、これは。


「……音楽?」


 いつもこずえのさざめきしか聞こえない静寂しじまの夜の宮に、細い旋律が響いている。

 皓皓は少し迷ってから、昨日、小翡と小翠が差し入れてくれたばかりの、毛織の肩掛けを手に取り、誰にとがめられるわけでもないのに忍び足で部屋を抜け出した。


 旋律は頭上から聞こえてくる。

 ともすればか細い音色が掻き消されてしまいそうな気がして、足音すら殺して階段を登った。

 最上階の廊下の突き当たり。そこにある扉が開いたままになっている。

 夜の不思議のせいか、旋律が導いているように感じられて、自然とその扉を通り抜けていた。


 扉の外は欄干らんかんで囲まれた広い露台になっており、明るい時であればさぞ景色の良い場所だろう。

 が、今は木々の陰がおぼろげに見えるだけで、夜空の上に浮かんだ雲の上に立っているような、頼りなく、不思議な感覚に陥る。


 なんとなくの予感の通り、其処にいたのはランだった。

 片膝を立てて床に座り、欄干にもたれて、抱えた楽器を弾いている。

 いつもより緩く結んで溢れた黒髪が乱れ掛かった白い頬。目を伏せ、かすかに開いた唇は拍子を取っているのか、声の無いまま小さく動く。

 細い手の片方で弓を引き、もう片手の指が代わる代わる弦を押さえる。


 しばらくの間立ち尽くしていた。

 見惚れていた、と言ってしまってもいい。


 静寂を震わせる音楽を奏でながら、どこまでも静かな人。

 一人きりの鳥。


 演奏を終えて手を止めた藍は緊張から解き放たれたように息を吐き、そこで初めて皓皓の存在に気付いて、驚いた顔をした。

 大きく開かれた彼の目が、扉の内から漏れてくる灯りを宿して、皓皓が覚えていたよりも青く見えた。

 初めて見た時は、もっと暗い色をしていたと思っていたのに。


胡琴こきんですか?」


 筒状の胴と長い柄に弦を張り、弓で擦って奏でる楽器だ。

 そうと比べて場所を取らず持ち運びが容易なため、貴族だけでなく庶民の間でも一般的に親しまれている。祭や宴の席で演奏されているのを見たことがあった。


 藍が仏頂面で楽器を床に置く。

 皓皓が勝手に立ち入ったことを怒っている、というより、見られたくない姿を見られてばつが悪い、といった様子だった。


「綺麗な音でした」

「噓を吐け」


 褒めているのに何故だが一層機嫌を損ねて、藍はそっぽを向いてしまう。


「昔少し教わったきり、後は独学だ。上手いはずがない」

「僕は好きです」


 世辞ではなく、気を遣ったわけでもない。

 いつも張り詰め見えた彼が、音楽まで完璧であったならば余計に近付き難かっただろう。少しぎこちないくらいで、皓皓の耳には心地良い。


「誰から教わったんですか?」

「母上だ。胡琴以外も、大抵の楽器が上手い人だった」


 藍の母。弟皇ていおうの妃といえば。


「……早くにお亡くなりになったと聞きました」

「俺が六つの時だ。だから少しの間しか教われなかった。お陰で、俺はこの程度の腕しかない」


 嫌でも小翡と小翠の話が思い出される。

 藍は今でも、母親の死を自分のせいだと思っている。

 二人はそう言っていた。


「お前の親は?」

「父も母も他界しています……あ、でも」


 語るべきか一瞬悩み、悩む程のことでもないと思い直した。


「生みの親はまだ健在のはずです。里で普通に暮らしていると聞いています。会ったことはありませんが、弟だか妹だかもいて、普通に、平和に暮らしているそうです」

「お前、」


 生まれて間もなく、生みの両親に捨てられるようにして、養父母の元に預けられた。

 理由は当然、皓皓が一人で生まれてきたからだ。


 山奥で薬師を営んでいた養父母には、子供がいなかった。それで皓皓を引き取って育てることにしたのだと聞いている。

 養父母は信心深い人たちだったが、片羽かたはねが災いを呼ぶ忌子いみこであるとは思っていなかった。

 あるいは思っていたのかもしれないが、それでも皓皓を実の子のように慈しみ育ててくれた。


 二人は様々なことを教えてくれた。

 山の中で暮らす方法。狩りの仕方。薬草の見付け方や煎じ方。文字の読み書き。天気の読み方。

 いずれ皓皓が一人でも生きていけるように、と。

 そのお陰で、養父母を亡くした後も、なんとか生きてこられたのだ。


「だから、」


 片羽を生んだからといって、その親が死ぬわけではない。

 そう言おうと思って始めた話だったはずなのに、喉が詰まって先を続けられなかった。


 高い場所にあるせいか、此処は他より風が強く吹く。身を任せれば空へと舞い上がっていけそうな風。 

 少し肌寒い。飛ばされそうな肩掛けを掻き寄せた。

 上着も羽織らず、いつもの黒い長衣ちょういだけの姿が心配になる。


「ずっとこんな所にいて、風邪を引きませんか?」

「此処は空に近いからな」

「え?」

籠鳥ろうちょう雲を恋う、だ」


 黒髪が風に乱されるのに任せ呟く藍に、どきりとした。

 欄干の間から闇しかない景色を見詰める横顔は、彼が自身で揶揄やゆした通り、籠の中の鳥そのもので。


「空を飛びたいと、思いますか?」


 気付けば尋ねていた。


「思ったところでどうなる?」


 きっとこの国で唯一の飛べない鳳凰は、皓皓の問いに顔を背ける。


 どうして打ち明ける気になったのかわからない。


 皓皓は着物の合わせの間に手を入れて、夜着の時でさえ肌身離さず持ち歩いている、鳥籠の形の首飾りを取り出した。

 何事かと見ている藍の前で籠の中の白く小さな塊を口に入れる。かちり、と奥歯でそれを噛んだ瞬間、全身に熱が回った。

 突如現れた鳥の姿に、藍が目を大きく見張るのが見えた。




 おそらく皓皓は、鳳凰之国ほうおうのくにで唯一、相方を必要とせず変化出来る人間だ。

 首から下げた鳥籠の細工。その中に入れ、肌身離さず持ち歩いている、白い欠片。

それは死んで生まれた双子の片割の遺骨だった。

 皓皓は生まれた時から一人であったが、生まれる前から一人であったわけではない。

 双子の片割の兄弟が、母のはらの中にいるうちに死んでしまったのだ。

 遺髪すら十分に切り取れるほど生え揃っていなかった赤ん坊には、他に形見として遺せる物がなかったから。

 養父母はそう言って、火葬の際に焼け残った骨を一欠片、皓皓に託してくれた。


 亡き片割の一部に触れることで、一人きりでも鳥の姿に変化出来る。


 そうと気付いたのは、まだ分別も付かない幼い頃だった。

 何気なくもてあそんでいたそれを強く握り込んだ瞬間、自分の身が形を変えたことに、誰より驚いたのは皓皓自身だ。


「このことは誰にも言ってはいけないよ」


 皓皓の身に起きた異常を知り、養父母は言った。

 決して誰にも明かしてはいけない、と。

 皓皓に良くしてくれている里の皆、福栄フクエイ夫婦にも、鷺学ロガクにも、この秘密について喋ったことはない。


 二人がついになることで、神の加護を借り、人間は瑞獣ずいじゅうに変化する。

 この国の、この世界の絶対のことわり

 ただでさえ『忌子』として疎まれるべき存在の自分が、その理を揺るがすことは許されない。

 それははっきりと自覚していた。


 とは言え、手にした便利な力を使わずいられるほど、山での暮らしは容易ではない。

 人のままでは踏み入れない場所でも、鳥の姿なら足場を気にすることなく飛んで行って、薬草や山菜を集めることが出来る。

 他人の目のない山の中でだけ、皓皓は自由に飛び回った。

 不便な山中でも、なんとか一人で暮らしていけているのは、養父母の教えとこの力のお陰であった。


 しかし、自由の喜びの反面、悠々と空を飛んでいる時にはいつも、後ろめたさのようなものが皓皓の心に引っ掛かっていた。

 漠然と「これは良くないことなのだ」と感じ取っていたから。




「お前、どうして」

「誰にも言わないと約束してくれるなら、僕があなたを空へ連れて行きます」


 変化を解いて、皓皓は言う。

 風は冷たいとすら感じているというのに、亡き片割の遺骨を握った掌に、じわりと汗が滲む。

 僅かに動いた唇が、風に負けそうな音をつむいだ。


「……連れて行ってくれ」


 囁く声は、夜の闇に響き渡る胡琴の旋律より尚か細くて、胸を締め付ける切なさを帯びていた。

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