第八話 交流


 机の上にどかりと置かれた資料を前に、ランはここ半月で何度目になるかわからない溜め息を吐いた。

 資料は全国からエンの元に集められた物だ。それがそのまま藍の所に横流しにされてくる。


 宛があの皓皓コウコウという庶民を宮に連れて来てから、もう半月になる。

 なんとかして彼を家に帰してやろうと、説得のための手紙を何度も宛に送ってはいるのだが、返事はない。

 そのくせこうして仕事はしっかりと押し付けてくるのだから、つくづく身勝手だ。


 遠くない所に他人の気配がする。そんな生活は此処へ来てから初めてで、藍はこのところ、ずっと落ち着かない気分だった。

 いきなり見知らぬ場所に連れて来られた彼に至ってはさぞや不安に違いない。

 と、それとなく観察していれば、初めの数日こそ迷子の子供のように泣きそうな顔で彷徨さまよい歩いていたのが、いつのまにか使用人の少女たちと親しくなったらしい。

 恐るべき順応の早さで、今や彼女たちと共に草を摘んだり、洗濯をしたり、時には料理にまで手を出しているようだ。

 お陰様でしばしば遠くに聞こえるようになった笑い声には閉口するが、結局のところ、藍には関係のないことだった。


 広げた資料に目を通しながら思う。


(大体、俺に何が出来ると言うんだ)


 宛から送られてくるのは、ある熱病についての資料だった。

 発祥地、患者について、症状の詳細などが纏められた報告書。

 それが十数年前から年々、いや、日々増え続けている。


(こんな資料を此処に集めて、それで何になる?)


 宮から一歩も外に出られない藍に出来ることといえば、渡された資料を分析して纏め直すことと、今いるこの書庫に収められている膨大な蔵書を紐解いて、この原因不明の熱病と似た症例が過去の何処かにないか調べること。それだけだ。


 藍が新たな報告書を前に、自虐的な思考に沈んでいた時だった。


「わぁっ……!」


 扉の方で声がした。

 それに驚きもしなくなってしまったことに、また溜め息が零れる。

 好奇心旺盛な雛鳥は、とうとうこの書庫まで探り当てたらしい。

 宮の中でもとくに広く天井の高い部屋を選び、入るだけの書架しょかを押し込められて作った書庫。どの書架にもぎっちりと本が収まっていて、溢れ出た分が机や床まで侵食している。

 声の方へ向かってみれば、皓皓が手近な本棚から、一冊を抜き取ろうとしているところだった。


「おい」

「ひゃっ!」


 跳び上がった皓皓が手から本を取り落とす。

 貴重な本だ。丁重に扱え、と思う。

 藍からの無言の非難を感じ取って、皓皓は慌てふためいた。


「ご、ごめんなさい!」


 拾い上げた本が傷付いていないことを確かめて、棚に戻そうとした彼の手が止まる。


「これ、医学書?」


 その棚に並んでいる本は全て医学や薬学関連の物だ。

 藍は意外な思いで皓皓の手の中にある本を見た。


親字しんじが読めるんだな」


 鳳凰之国ほうおうのくにでは音だけを表す表音文字の『子字しじ』と、一文字に意味まで含まれる表意文字の『親字』、二種類の文字が用いられており、用途によって使い分けられている。

 庶民が読み書きのほとんどを子字のみで行う一方、親字は専門的な学問や、戸籍などの正式書類に使われる。また、外交や貴族の嗜みとしても必須であるため、学者や役人、貴族皇族の間では、むしろ子字より親字の方が親しまれていた。

 一応は皇族に籍を置いている藍はどちらも使いこなせるが、片田舎の庶民である皓皓に親字の心得があるとは意外だった。


「少しだけ、です。父と母が薬師で、そういう本が家に沢山あったので」


 なるほど。

 馴染みのある言葉が並ぶ棚に手を伸ばしたのも、無意識のうちだったのかもしれない。


「すごい量の本ですね」


 圧巻の蔵書を見渡して、皓皓が呟く。

 その表情はどこかうっとりとしていた。


「本が好きなのか?」

「好きと言うか……本を読む以外に、娯楽がありませんでしたから」

「本なら一人で読めるからな」


 図星を指された顔が藍を見る。


 年に数回従兄姉いとこたちが訪ねて来る以外、藍はずっと一人で過ごして来た。まるで牢獄のように出入り道を塞がれた、この宮の中で。

 遊び相手なしでも暇を潰せる方法だけは、嫌と言うほど身に付いている。

 彼もまた、そうなのだろう。


「……読みたいものがあるなら、持って行っても構わない」


 そんな彼に、どういうわけか気まぐれで、情けを掛けてみたくなった。


「いいんですか?」

「見られて困るようなものは一般人には読めないように書いてある」


 皓皓の目がきらめく。

 藍の前で初めて見せた明るい表情だった。


 やはり薬師という職業柄なのか、簡単な読み物ではなく、先程手を伸ばしたのと同じ医学書の棚を熱心に物色し始める。

 と思えば、不意にこちらを向いた。忙しい奴だ。


「藍様は医学に興味があるんですか?」

「何故?」

「庭に沢山薬草がありましたし……医学に関する本が多いようですから」

「暇潰しの、独学だ」


 目敏い。

 皓皓が見上げている棚の横には、以前に宛から送られてきた資料も積まれたまま。そちらにも興味があるようで、ちらちらと横目で伺ってくる。

 秘匿情報というわけでもない。

 別に構わないだろうと許可すれば、興味津々な様子で報告書を読み始めた。

 面白い内容でもないだろうに。

 好奇心に輝いていた顔が、資料を読み進むにつれて曇っていく。


「やっぱり流行っているんですね。熱病が」

「やはり?」

「知り合いの医師に聞きました。原因不明の高熱が続く病が流行っていると」


 里の診療所の息子からの情報らしい。となると、ほぼ確実な情報だろう。


「そうか、もうこんな辺境まで広まっているのか」

「もう?」


 一枚の紙を拾い上げ、皓皓に渡す。

 国全体を描いた地図で、点々と赤い印が打ってある。藍が書き込んだものだ。

 赤い点は都を中心に密集しており、辺境の里の方は比較的数が少ない。


「同じ熱病の報告があった場所を記録してある。

 古い例だと十七年前。ここ二、三年で急増している。最初は皇都おうとや大都市ばかりだったのが、やはり数年前から全国に散り始めているんだ。

 都の医師たちも対策に取り組んではいるが、何しろ症状以外に共通項がなく、原因らしい原因が見付からない。感染症なら歯止めを掛ける方法の模索も出来るが……被害は拡大し続けている」

「藍様は、その流行病について研究しているんですか?」

「研究なんて大層なものじゃない」


 いくら本を読み知識を蓄えたところで、医師でも薬師でもない藍に専門的なことはわからないし、実際の病を診察出来もしない。

 全てはこの広いようで狭い宮の中だけで行われている、児戯じぎに等しい紙の上の四苦八苦だ。

 本を読むのも、庭に薬草の種を撒くのも、手慰みだ。


「十七年前、か。そんな昔から……」


 食い入るように地図を見詰めていた皓皓が、「あ」と声を漏らした。


弟皇ていおうの所に忌子が生まれた頃だな」


 彼が言いかけて飲み込んだ、その先を藍は自ら口に出す。

 すぐさま具体的な数字を挙げられるのは、それが自分の年齢と同じ数字だからだ。


「自分のせいだと、思っているんですか?」


 随分と単刀直入な問いだった。

 答える気も失せてしまう。


 答えは、是。


「……貴方のせいじゃない」


 自然と漏れてしまったような、飾り気のない言い方だった。

 同情でもなければご機嫌取りのためでもない、素直な言葉。

 そして、そこには根拠もなく、何の慰めにもならない。

 あまりにも薄っぺらで、跳ね除ける気にもなれない空虚な言葉。


「ごめんなさい」


 おまけに脈絡さえなく、突然謝られた。


「何が?」

「僕、藍様のことを勘違いしていたから」


 皓皓が言う。


「藍様は、優しい人なんですね」


 一瞬虚を突かれた。

 何処で入れ知恵されて来たか知らないが、およそ自分には似つかわしくない形容詞に寒気を覚える。

 だから他人と関わるのは嫌なのだ。

 勝手に作り上げた幻想に藍を当て嵌めて、自分の思いたいような人物に藍を仕立て上げる。

 それがどんなに実際と違っていたところで、彼らにはどうでもいいことなのだ。


「……もう行け」

「はい……あ、本、借りて行ってもいいですか?」


 好きにしろ、と手振りで示すと、皓皓は分厚い薬草図鑑と医学書を数冊抱え、一礼して書庫から出て行った。


「まったく……」


 宛が再び訪ねて来るまで、まだあと半月もあるのか。

 その間、あの本で大人しくしていてくれればいいのだが。


 よりにもよって特別難しいのを選んで持って行った。

 いくら多少の知識があるといっても、簡単に読める内容ではない。


 流行り病についての資料の分析を一旦止め、藍は何処かにあるはずの親字の辞書を探し始めた。

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