第五話 弟皇子(三)


 翌朝、目が覚めると、皓皓コウコウは毛布を体に巻き付けて床に転がっていた。

むくり、と体を起こし、見慣れない部屋の様相で、今、自分の身に起きていることを思い出す。

 昨日は結局、エンに引き止められ、此処で一泊することになってしまった。

 何故床で寝ていたのかと言えば、あてがわれた部屋の寝台が柔らか過ぎて、布に溺れるような感覚が据わり悪く、夜中、這い出てきてしまったからだ。


(やっぱり僕なんかじゃ、ふりでも皇子様にはなれないなぁ)


 窓に下がったすだれの隙間から窺えば、外はもうすっかり明るい。日頃は朝日と共に起き出す生活をしている身としては、少々寝坊気味の起床だった。

 借り物の寝間着を脱ぎ、用意された別の着物を着る。

 昨日とはまた違う一着で、同じくらいきらびやかな衣装だった。惜しげもなく皓皓に貸してくれるくらいだから、きっとこんな着物が何枚も余っているに違いない。

 部屋を出て、昨日案内してもらった記憶を頼りに、階下に向かってみる。

 あわよくば、そのまま出て行ってしまいたかった。


 途中で「おや?」と思う。

 いやに静かだ。

 廊下で誰かと擦れ違うこともなければ、前を通った扉が開くこともない。それどころか物音一つない。人の気配も感じられない。


 とにかく宛に会って、流れてしまった昨日の話をきっぱり断り、早くおいとまさせてもらおう。と、彼の姿を探して階段を降りて行く。

 階段を下りきった広間にランの姿を見付け、目的の相手ではないにしろ、ほっとした。

 本当に誰にも会わないので、いよいよ不安になり始めていたのだ。

 昨日のことを考えると気が引けたが、止むを得まい。


「おはようございます」


 皓皓が声を掛けると、藍は手にしていた書面から弾かれたように顔を上げた。

 暴言を吐く時でさえ顔色を変えなかった彼が、ひどく動揺している様子だった。


「宛を見なかったか?」


 掴み掛かってきそうな勢いの藍に、慌てて首を振る。


「今朝はまだお見掛けしていません。僕も探しているのですけれど……」

「あの野郎!」


 皇子らしからぬ罵詈ばりと、昨日の淡々とした態度とは別人のような怒声。

 ただならぬ雰囲気に不安を覚えた皓皓は、恐る恐る尋ねた。


「何があったんですか?」


 突き付けられた拳に、思わずびくっ、と身を震わせる。

 が、藍が向けてきたのは拳そのものではなく、そこに握られていた紙だった。

 皺だらけのそれは、宛からの書き置きらしい。宛名あてなとして、藍と皓皓の名前が書かれている。

 内容は以下の通りだった。


 ――昨夜の話について、僕は至って真剣だ。だから二人にも、前向きに検討してもらいたい。

 そのためには、互いをよく知る時間が必要だろう。皓皓はしばらくの間、この宮で藍と共に過ごしてみるといい。

 ひと月後、また様子を見に来るよ――


 宛はこの書き置きを残した後、皓皓たちが目覚める前の早朝、臣下たちを引き連れて皇都おうとに帰ってしまったらしい。


 藍が乱暴に頭を掻き毟った。


「あいつは昔からこういうところがあるんだ。自分がこうと思ったら、他人からどう言われようが構わないところがな」

「僕、帰ります!」


 宛の書き置きなど関係あるものか。

 この際、皇子からの命令だろうと関係ない。


「あなただって、嘘だとしても、僕なんかが片割になるのは嫌でしょう?」

「当たり前だ」


 藍は即答して皓皓を睨め付ける。


「だが、お前はもう此処から出られない」

「……どういう意味ですか?」


 藍の焦りに満ちた表情に、皓皓は不安に駆られ、外へと続く扉に駆け寄る。

 一人で開けるには重いものの、扉が開かない、などということはなかった。


 一体、藍は何をそんなに慌てている?


 外へ出た皓皓は、昨日と何ら変わりのない前庭の様子に首を傾げた。

 敢えて気になることを挙げるとしたら、空に灰色の雲が掛かっていて、これから天気が崩れるかもしれないことくらいなものだ。雨さえ降らなけば、空を飛ぶのに支障はない――


 そう考えて、ようやく思い至った。昨日感じた違和感の正体にも。


 跳ね橋は「谷の向こう側へ」畳まれている。


 つまり、跳ね橋を上げることで遮断したいのは外から内への侵入経路ではなく、内から外への逃走路。こちらから向こうへ渡ることが出来ない仕組みになっていたのだ。


 そもそも鳳凰之国ほうおうのくにの民であれば、橋などなくても谷を渡れるわけで、跳ね橋を上げて陸路を切ることには何の意味もない。


 ただ一人の対象。

 鳥になれない、藍を除いては。


 いつの間にか皓皓の隣に並んでいた藍が、同じく谷の向こうの跳ね橋を睨んだ。


「向こう側からでないと橋は掛けられない。宛のことだから、宮の連中には橋を降ろさないように、徹底して命令を下しているだろう」

「で、でも、橋以外にも、外に出る道は……」

「宮の裏手は塀で囲まれている。とても登れるような高さじゃない」


 塀。それもまた、羽を持つ者にとってはなんでもなくとも、藍の動きを制限するには十分な効果を発揮する障害だ。

 前には深い谷。後ろには高い壁。

 わかってしまった事実に、皓皓は戦慄する。


 この宮は、藍が一人で外に出られないように造られている。


 宛は藍を「この宮に閉じ込められている」と言っていた。

 それは比喩でもなければ精神的な話でもない、身体的な幽閉を意味していたのだ。


「そんな……そんなの、監禁じゃないですか」


 忌子いみことはいえ、一国の皇子がそのような扱いを受けていることが信じられない。

 呆然としている皓皓に、藍が言う。


「他人事のような顔をしているがな。おまえも同じ状況なんだぞ?」

「僕も?」

「おまえだって、一人では飛べないだろう」

「あ……」


 皓皓は、一度胸元にやった手を下ろし、体の横で拳の形にして握った。

 皓皓にとって「弟皇の皇子は片羽である」という事実より隠し通さなければならない秘密が、そこにある。


「他の人に協力してもらえば……」

「宮の使用人たちは、俺より宛の命令を優先する。宛が『おまえを外へ出すな』と命令して行ったのなら、誰もおまえが外に出るための協力などしない。俺が命令しても、だ」


 確かに、昨日もそんなことを言っていた気がする。

 まるでもぬけの殻のようだった宮の中。人の気配がまるでなかった。

 はっと気付いて振り返る。そうだ、昨日は扉の前に控えていたはずの門番の姿さえ、今朝は見当たらない。


「でも、この宮の主は貴方でしょう?」


 宮に使える使用人たちが主の言うことを聞かないなんて、そんなことがあるのか。

 藍は諦めたように首を振った。


「俺にとってこの宮は鳥籠で、俺はただの籠鳥ろうちょうだ」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る