いくつかの奇跡
紀 聡似
いくつかの奇跡
~ 1 ~
あの時までは、なんとか搭乗時間には間に合いそうだったのに。
そう、あの少女に出会わなければ・・・。
大阪で画廊を営む私が、わざわざ東京へ十五号の洋画三点を直々に納めに出向く事になったのは、七月上旬の一本の電話からだった。
大手製紙会社社長の彼とは、過去色々な展覧会で顔見知りとなり、主にヨーロッパから絵画の買い付けをしている私を贔屓に、時折無理やりに出張を申し付けてくる。そう、たった一本の短い電話の、こんなやり取り。
「やぁまたロートマイルの油彩を二、三点頼むよ。うん、玄関用とリビング用にね。そうそう・・・分かるね?じゃ、八月十二日の十四時頃にね」
その「分かるね?」の一言に一苦労するというか、ある意味で私の腕の見せ所になるというか、要するに、玄関とリビングに合う絵画をお任せで注文をしてくる訳である。
大きな会社の社長ともなれば、会社でも普段から自分なりの解釈を簡略化した言葉で指示を出し、部下や側近を困らせているのが日常的で当たり前なのだろう。
私は彼がこんな人なのは百も承知で、それに彼のお屋敷に何度も伺っている私にとって、彼のイメージに合った絵画を用意するのは、それほど難しい作業ではなかった。
八月十日はお盆休みの少し前もあって、東京行きの新幹線の中は満席ではあったが、東京駅はそれほど混雑はしていなかった。
電車とバスを乗り継いで、東京にある額縁屋を数軒まわりつつ、春に仕入れてきた絵画の額装を決める。東京出張の一日目は大体こんなものである。
二日目は古くからの知り合いのT君と正午近くに、ある馴染みのカフェで待ち合わせをしていた。
私が東京へ出張する際は、大抵は予め彼に一報を入れておく。彼は東京で画商をしていて、いわば情報交換の良い相手。たまに掘り出し物などをお互いに融通し合って双方で利益を上げるなどしている。つまりビジネスパートナーと言っても違いがない間柄なのである。
待ち合わせのカフェは最寄りの駅より少し離れた場所あるので、そこそこ歩いたためか、カフェに着いたころには、もう背中には汗が流れ落ちる感触がしていた。
カフェの扉を開けてカランコロンとベルが鳴ると同時に、出迎えに来た店員にアイスコーヒーをひとつ注文し、奥の席で煙草をふかしている彼の方を指差して「待ち合わせだよ」という事を知らせた。
「やあ、実は僕もついさっき着いてね」と彼が言う通り、彼の手元にあるアイスコーヒーのグラスには、それほど結露は付いていなかった。
「そうか、なら良かった。しかし今日も暑いなぁ。この店、クーラーの調子でも悪いのか。もう少し効かせて欲しいなぁ」と私はシャツの胸元をパタパタさせた。
「そりゃあ君、アレを売りつけようって魂胆だろう」と言いながら彼が吸う煙草が差したその先に、なんの変哲も無いそこらの子供が描いたようなカキ氷の挿し絵があって『カキ氷各種500円』と書かれたA四サイズくらいの紙が、無造作に四つ角をセロハンテープで止めて壁に張り付けられていた。
「カキ氷各種ってなんの種類があるのだか。あの絵の調子じゃイチゴ練乳は間違えなくありそうなもんだがね」
気が付けば私の汗は背中だけでなく、胸から腹のあたりまで滴り落ちていたが、こんな変哲の無いカキ氷の描写であるにも関わらず、この暑さから逃れるためか、私の乾いた喉はそんなカキ氷でも大いに渇望していた。
「まぁさ、絵の効果なんてそんなものだろう。我々が取引している絵画だって、正直この絵のどこが良いのだろうと思う時があるだろう。人間の美的感覚なんて曖昧なものさ。ようは見る者の欲求に訴えかけられさえすれば、一円の価値も無い絵も、たちまち百万円の価値にもなる」
「はは、違いない」と、届いたばかりのアイスコーヒーを流し込んだ私の喉は、あっという間に潤されて、カキ氷の渇望なんぞは刹那の間に消え失せていた。
「ところで君、明日には大阪に戻るのかい?例の製紙会社の社長宅のあとに?」
「そうだよ、夜の便でね。帰りは飛行機。十三日に祖母の法事があるのでね。十二日の・・・明日の内に大阪の実家に戻っておきたいんでね」
「そういや君は大坂の人なのに、全然関西弁が出てこないね」
「母方が大坂で、商いも大坂でしてるってだけで、私自身はほとんど東京で育ったもんだからね。関西弁は母親と話す時くらいじゃないかな」
「へぇ、そうだったかい・・・と、そろそろ本題に入ろうか」
すると彼は、まだ半分くらい残っている煙草をいそいそともみ消して、私に顔を近づけて囁くようにこう言った。
「実はな君、レオンハールの新作が発見したって話をもらったんだがね」
「え?まさか。レオンハールの作品は全部で二百点は超えるが、新作なんて埋もれているはずはないだろう・・・ガセじゃないのか?果たして本当に本物なのか?」
「僕も最初はそう思ったさ。だがね、その話を僕に持って来たのは知人のフランス人の画商なのだが、それが今東京に来ているんだ。僕に見せに、その新作を持ってね」
そう言うと、彼は手元のアイスコーヒーを一口だけ含み、また慌てたように煙草に火をつけ、ふぅと煙をひとつ吹いてこう続けた。
「今度やる美術館のイベントの話は電話でしたよな。もしそれが本当にレオンハールの新作だったならば、これは脚光を浴びて注目されるのは間違いないだろう。その画商は明後日にはフランスへ発っちまう。そうなるともうその絵は別の誰かの物さ。だからね、君にも明日一緒に見てもらいたいのだが、どうだ」
「明日?・・・明日の何時に、どこでだい?」
「いやいや、君の用事の済んだ後で良いんだ。用が済んだらそれ次第、品川のグランドホテルに来られないものかね」
私は少し考えた。もしそれが本物のレオンハールの作品であるならば、美術界にとって大きな新発見となって私と彼にとって大きなビジネスチャンスになる。が、この世界、偽物も数多く出回っているのが自然であるので、我々画商には「鑑定」というスキルも必須なのであり、見極めが必要になる場面は多々あるのだ。
私も手元のアイスコーヒーをガブリと飲み、結露でビッチャリと濡れた左手をシャツで拭い「ああ分かったよ。ちょっと時間的に厳しいが、品川からなら羽田も近い。なんとかなるだろうよ」と快諾した。
快諾した、は嘘になるかも知れない。
正直、私は幼少の頃から物事が時間通りに進まないことが嫌いなのだ。なので時間に追われたり、せかされたりハラハラさせられることが苦手なのである。
苦手な理由のひとつを紹介すると、そうなると決まって尿意をもよおす感覚にとてもよく似た現象が起きてしまう。またそうなるとトイレにも立ち寄らなくてはならなくなるかも?という、余計な心労までもが発生する。
なので必ずと言ってよいほど、時間にはゆとりを持って行動したいと心に決めているのだが、こんなイレギュラーも致し方無いという迷いも快諾の中に紛れ込んでいた事を追記しておく。
レオンハールの新作かも知れないという好奇心と期待感、併せて生まれた不信感と猜疑心が、帰りの飛行機に乗り込むまでの私のゆとりの時間を削ることに、その時かなりの抵抗があった事も感覚的な事実なのである。
~ 2 ~
翌日も快晴で猛暑日。十五号の油彩が額装された額縁三点を一つに束ねて、大汗をかきかき、電車とタクシーを乗り継いで高級住宅地にある製紙会社の社長宅へ着いたのは、約束の十四時よりも二十分ほど早かった。
早く着いたのは、この後の予定が頭から離れず、気の焦りがあったのかも知れない。
自分で日時を指定しておきながらも社長は不在だった。
しかしこれは案の定で、毎回ほぼ奥さんが対応してくれるのだ。
そう、毎回来る度に関心するのが玄関の大扉である。大邸宅の玄関ならでは、高さが三メートル近くある分厚い木製の扉を、奥さんは軽々と開けて出迎えてくれる。どんな材質の木材で、この扉は何キログラムあるのか。どうしてこれが、こうも軽々と開閉できるのであろう。いっぺん聞いてみたいのだが、いかんせん奥さんやお使いの方では話は分かるまい。
そもそも私はこの疑問を社長本人自らが得意げになって説明してもらいたいのだ。有頂天に解説する彼の表情を見て、私は内心できっと、そんな彼を蔑むに違いないだろう。意地汚い金の亡者めと。
手っ取り早く、早々に手っ取り早く私はこの仕事を片付けようとしていた。
その為の段取りも完璧にしていた。段取りとは、玄関とリビングに飾る額縁は、あれとこれと予め決めており、それには絶対の自信があった。
先に説明した「彼のイメージに合った絵画を用意するのは、それほど難しくない」という意味は、あくまでこれまでの私の画商としての経験則によるものでもあったが、本心は、ある程度の物さえ用意しておけば、大抵の人間は「美しい!」とか「素晴らしい!」とか「この場にピッタリだ!」と簡単に感激してしまうものだからである。
私は芸術作品を多く取り扱い慣れすぎていた為か、いや、芸術作品に簡単に魅了されてしまった人間たちの取り扱いに慣れすぎてしまったのだろうか。
自分で言うのもなんだが、この業界も長くいると、あまり褒められた性格とは言えない人間になってしまった感は自分自身でも否めない。
「ふーん、これがあの人が気に入る絵なのかしらね。私には芸術というのは、サッパリわからないから」
「奥様には、この絵はお気に召しませんか?」
「いえ、この絵はここの・・・そう、このリビングには合うと思いますけど。さっきの玄関の絵は私、ちょっと合うのかしらと思うわ」
「なるほど。ではもうひとつお持ちしております額縁を、ご覧になって頂けますか?」
そう言って私は、玄関用とリビング用とは別の、もうひとつの額縁を差し箱から取り出して私の片膝に乗せた。
そして、奥さんの方に額縁の正面を向けて、マジシャン気取りの手付きで黄袋を両手でずり下げた。
「あら!この絵は素敵ね!これこれ、これを玄関の方に飾ってはどうでしょう!」
「きっとお合いすると思いますよ」と、したり顔を晒してしたであろう私の表情なんぞ見向きもせず、奥さんはズイズイと玄関の方へ向かってしまった。
これが私の目論みなのである。
「ああ!やっぱりこの絵は玄関にお似合いだわよ。私はきっとこの絵の方が良く思えますわよ」
「ではこちらに致しましょうか。ただ、こちらの絵はロートマイルの晩年の作でして、ちょっとお値段が張ってしまうのですが・・・」
「??・・・値段のことなんて下世話なこと、私に聞かないで頂戴な」
ふんと言った様子で、露骨に嫌味な態度を示した奥さんだったが、それもその通り。
大金持ちに『お金が余分に掛かってしまいますよ』という言葉は、プライドを傷つける意味が含まれている言葉であるからして、この言葉を金持ちに試すのは実に面白い。
まぁ貧乏人に対しても深層心理は真逆になってしまうが、その効果は同じに違いないのだろうが。
「失礼致しました。ではこちらで決めさせて頂きます。この後、社長のご意見などがございましたら何なりとお申し付けください」
そう、完璧にことは運んでいた。
私の思っていた通り、高額の方の作品を売ることができた。
そしてレオンハールの新作を拝みに行く時間も捻出できたのだ。
私は、気を良くした奥さんのお茶のお誘いを丁重に断って、品川のグランドホテルへ向かったのである。
~ 3 ~
ホテルのロビーではもうT君が待っていた。
「やぁ、待ちわびたよ。もうお目当ての物は彼女と一緒に部屋にあるよ」
「え、フランス人の画商って女性だったのかい?」
「意外かね?僕にだって外国人の女性の知り合いの一人や二人いたって不思議はないだろう」
私が驚いたのはT君に外国人女性の知り合いがいることではなく、以前に耳にした噂が頭をよぎったからである。
ホテルの十一階の部屋に着くと、慣れたようにT君はドアをノックした。
すぐに待ち構えていたかのようにドアを開けた「F」と名乗るフランス人の女性は、私が脳裏で想像していたのと、まったく同じビジュアルをしていた。
スラリとした長身で、ボディラインがわかるブラッドカラーのスーツ。
くっきりとした紅白と言えるほど彼女の素肌は美しく白かった。
大きな瞳の色はオーシャンブルーで、思わず引き込まれそうになったが、ファンデーションで隠しきれていないソバカスの量をみると、歳は三十歳前後か、その美貌は完璧ではなかった。
「Bonjour・・・」ある程度のフランス語しか分からない私は、適当に挨拶だけを済ませた。
部屋の奥へ入ると、ホテルの窓下から大都会東京の光景が広がっている。
私はこの光景を見て「私は今、日本に居る。決してFのテンポに乗ってはならない」と心の中で繰り返していた。
それはなぜか。
そう、さきによぎった噂とは、偽物の絵画を売りつける詐欺を働く外国人がおり、その多くが色仕掛けを罠につけ込んでくるものだった。
実際、Fのスーツのピークドラペルからは、その大きな胸の谷間が強調されており、淡いピンク色の下着の縁にある、薔薇柄の刺繍すらそこから見え隠れするほど、それは大胆不敵なものだったからである。
私が「日本語はわかるのかい?」と問うと、彼女は「う~ん、少し・・・だけね」と大きな口で笑顔を作った。
そうか、これでは私はT君に堂々と「これは流行りの詐欺じゃないのかい?」と聞くのは難しい。軽く探りを入れても良かったが、それよりもまずはレオンハールの新作とやらを拝ませてもらうことが最優先事項であった。
「君が到着する前に、もう僕は先に見せてもらったのだが、さあさあ、君も見せてもらい給えよ」
タイミング良く、T君が本題を切り出してくれた。
Fは眉を上げ、うんうんと作り笑顔で頷きながらソファに向かい、立てかけてある紺布張りのタトウ箱から、臙脂色の布袋に入った額縁を取り出そうとした。
その時もしっかりと、ギリギリ下着が見えそうなくらいに短いスカートから、大きな尻を突き出していたが、彼女の左のふくらはぎのストッキングが数センチ伝線していたのには、私は一瞬幻滅した。
が、もしやこの伝線までも確信犯なのか!と、ますます警戒心を強めたが、この時点で私は自分の意志が早くもFによって、ぐらつかされていることに、自分自身にも幻滅してしまった。
それよりも、今はレオンハールの新作かの確認を急ごう。
彼女が額縁をソファの座席に立てかけた。
少しアンティークがかっていたが、そこまで古い額縁には思えなかった。
問題の絵画は、印象派であるレオンハールらしく、厚ぼったく絵の具をキャンバスに叩いて、青空に浮かぶ雲を、より立体感を浮き立たせた、奥行きのある風景画であった。
一見、レオンハールの作風で間違えはなさそうだった。
左下に必ず入っているサインも、レオンハールそのものであった。
先に説明した通り、レオンハールの作品は油絵の具を多めに使い、雲であったり、木々の葉であったり、時には人間の鼻や、女性の胸などにも立体感をつけるように絵の具を盛る、そんな特徴が強かった。
この作品にも、そんなところが多々見受けられたのである。
「どうだい君。僕が最初に見たときは、こいつはレオンハールの新作ではないかと直感したがね」
T君は私の後ろで、しゃがみ込んで腕を組み、やや興奮気味に煙草の煙を鼻から口からモハモハと吐き出していた。
私はいつも持ち歩いているルーペをポケットから取り出して、光がよく当たるように額縁の正面を窓側へ向けた。
片目を閉じて、額縁のガラス面に、吐息の曇りが起きないギリギリの近さまで顔を寄せた。クーラーの効いているホテルの一室に居るにも関わらず、私の額には、もう粒々の汗が噴き出していた。
何やらT君とFが私の後ろで会話をしている。
翻訳すると多分だが、Fは「これを手に入れるのは大変だったわ」と、それに対して「こんなのどこに眠ってたんだい?」とT君。
「どこかは内緒よ」
「今度、僕のイベントの時にはこいつはメインディッシュだよ」
気の早いT君は、もうそんな段取りをして、Fとクスクスと笑い合っているようだ。
そんなT君に、振り返って私はこう言った。
「これはレオンハールの作品ではないよ」
T君は絵に描いたように両目をまん丸に見開いて、煙草を持った右手をプルプルと震わせ、聞いたこともない甲高い声で「おいおい。どうしてだい!これは偽物だとでも言うのか?」と馬がいななく様に言った。
「あぁ、残念ながら、これはレオンハールの絵ではないよ。サインは真似ているから、こいつは偽物って事になる。悪意のある偽物だよ」
日本語が少ししか理解できないFでも、我々二人の様子を見れば、我々がどんな会話をしているかくらい、そこそこ認識できただろう。
「君、根拠があるのかい?これがレオンハールの偽物だという・・・」
「ああ。Fにも同時通訳してくれないか?お二人とも、こいつをよく見てくれ」
T君はともかく、その時のFの眉間には深々と険しい縦じわが何本も入って、そこに派生して生まれた目尻にも、無数の細かいしわが刻まれていた。
半開きの口元から大きめの前歯が見えた。コーヒーか紅茶の飲み過ぎなのか、それとも煙草の吸い過ぎなのか分からないが、色白の彼女だから余計にそう見える様に、その歯はえらく黄ばんでいた。
先程に出会ったときの色気のある艶やかさは、彼女からもう失われて見えた。
「いいかい。君たちはレオンハールの作品にある特徴を知っているかい?・・・いや、私が聞いているのは彼の筆のタッチであるとか、色使いであったりとか、作風とか、そういうことではないんだ」
「??・・・一体どういうことだ?」
T君は同時通訳することを忘れ、折れかけている煙草の灰の存在も忘れ、私の顔と絵を繰り返し繰り返し、餌を待つ小鳥のように首を伸ばしながら、キョロキョロと往復していた。
Fはというと、わりと筋肉質な筋張った腕を組んで、左手を頬に当てて、先程とは更に険しい顔つきで、真っ赤な口紅をへの字に引きつり曲げて、ただただ絵を睨みつけていた。
「レオンハールの作品には欠かせないものが必ずひとつある。だがそれがこれには無いんだよ」
と私が言うと、通訳をされていないにも関わらず、Fが「ハッ!!」と大きい声を上げた。
それに驚いたT君が、ついに煙草の灰を絨毯に落としてしまった。T君が慌てて絨毯に落ちた灰を手でパンパンと叩きながら「ど、どど、どうした??何のことだか僕にはサッパリだ」と私とFの顔を絨毯に這いつくばりながら見上げていた。
Fは、真っ白で大きな手を使って口を覆い、オーシャンブルーの瞳が小さく見えるほどに、大きく両目を見開いて白目をむき出していたが、間髪入れず絵を指差し、もの凄い早口でT君を罵るようにフランス語を浴びせかけた。
と、その瞬間、T君は絨毯に跪きながら「あ・・・・」と一言だけ声を発した。
「もうお二人ともお気付きだね。そう、簡単なことだよ。レオンハールは必ず絵のどこかに、筆ではなく、自身の指を使って何かを描く。それが彼の作品に欠かせない特徴なのを、お二人はお忘れだったようだな」
千八百年代半ばの印象派画家レオンハールは、後世に自分の作品を遺すことまでも考えており、偽物や贋作が出回ることを極端に恐れた。
そこで唯一無二である自分の指紋を、全ての作品に何らかの形でもってそれを記していた。
そう、レオンハールのことを知っていれば、こんなことに気付くのはごく簡単なことだったのだ。
まるで憑きものが落ちたかのように、T君とFは疲れ切った表情で、ひとりは跪き、ひとりは呆然と立ち尽くしていた。
するとFが、今度はケタケタと大笑いをしながら「上手くレオンハールを安く買うことができたと思ったのに!完全に早まったわ!」と、言っているようだった。
T君も、それを聞いて、自分の早合点を恥じらうように苦笑いを浮かべてへたり込み、お姉さん座りをしながら、また煙草に火を点けた。
Fがどこの誰からこれを上手く売りつけられたのか知らないが、恐らくFにこの絵を売った者は、これが「レオンハールの偽物」とは知らなかっただろう。
かたやFは、その者がこの絵を「レオンハールの新作」と気付いていないと思い違いをし、通常の相場の価格でこれをしめしめと買ったに違いないだろう。
どうしてこんなことに気が付かないかねぇと、少し探偵気取りだった私は二人を小馬鹿にしかけた途端、私の目前に、無情に時を刻んでいる壁掛け時計の存在に気が付いた。
~ 4 ~
「あっ!マズい!もうこんな時間!飛行機の時間にギリギリじゃないか!私はもう失礼するよ!」
その後、彼らがどんなやり取りをしたとか、レオンハールの偽物がどうなったとか、そんなことは問題ではなかった。
今日中に大阪へ戻らなければならない。
脱兎の如く、私はホテルから飛び出し大急ぎで駅まで走り、空港行きの電車に飛び乗った。
進む列車の車窓から、猛暑日であったが夕日がだいぶ傾いており、遠くに見える空港を照らしていたが、それがこの時ばかりは本当に遠くに思えた。
離発着する旅客機がキラキラと銀色に瞬いていた。
私も無事に、あんな風に瞬いて帰路に着けるのだろうかと更に不安が頭をよぎった。
やっぱり、こう気が焦ると決まったように、私は尿意をもよおしてくることは先に説明済みだったが、こうなるのが嫌だから、私は予定外に用事を入れることが嫌なのだ。
今さらながら私はT君をやんわりと恨んだ。それとFもである。
下腹部の鈍痛に堪えながら、全身からはジンワリと脂汗が出ていた。
空港の駅に着いたときには、もう本当に出発時間の間近であり、とにかく走った。
その時に、製紙会社の社長宅に持った予備の余った額縁ひとつをT君とFのいるホテルに忘れてしまったことに今更気が付いた。が、もうそんなことはどうでも良くなっていた。
兎に角、飛行機に間に合えば良い。ただその一心で、お盆期間の人混みでごった返すロビーを、駒回しの駒のようにクルクルと軽快に人を抜いて走った。
と、突然、人混みの波間にポッと、ちょこんとしゃがみ込んでいる女の子の背中が現れた。
危うく私の足が彼女の背にぶつかりそうになったが、寸前でブレーキを効かせたが、片足で踏ん張ったせいで、つんのめりそうになった。
「危なかった!ごめんね!」
そう言って、また走り出そうとしたが、どうやら彼女は泣いているらしかった。
両手で瞼を擦っており、頬も耳も真っ赤っかに、思えば彼女の洋服と同じような、紅色に染まっていた。
迷子だ。
すぐに直感したが、それよりも当然、私は搭乗口を目指さねばならない故に構っていられない状況だったが、迷子の彼女は私の両眼を凝視したまま、うるうると大きな黒目を揺らしていた。
「どうしたんだい!?お母さんはどこに?はぐれたのかい!?」
やや語気を強めに言ったが、もしかしたらもうすぐそこに彼女の親が、彼女を探し歩いているのではないのかと、そんな期待も半分に、私は少し大きめの声で、彼女の親にも届くように問い掛けた。
が、そんな私の思いも裏腹に、彼女は意外な反応を見せたのである。
彼女はなんと、今度は可愛げが溢れるかのような笑顔を見せたのだ。
持ち上がった丸いほっぺに押し出されるように、ぽろぽろと大粒の涙が頬を転げ落ちた。
なぜ、彼女が笑ったのか分からなかったが、笑っているのなら大丈夫だろうと、なんの根拠もない安心感を一瞬だけ私は抱いた。
「到着ロビー・・・」と彼女は呟いた。
「到着ロビー?ここは出発ロビーじゃないか。到着ロビーはこの下の階だよ」
年齢は五、六歳か、幼稚園児の年長か小学校低学年ほどの少女である。
この混雑の中、放っておくことはできないが、私にだって用事がある。なんとしても、この便で帰らねばならない理由もある。人は大勢いる。彼女を助けてくれる人は私だけでなく、いくらだってこの場には救世主は居るはずだ。
「いいかい。到着ロビーはこの下の階だ。この先にあるエスカレーターを。ほらそこのエスカレーターを下に降りるのだよ。いいかい?」
こう言うと、彼女は笑顔から、不安げに表情を曇らせた。が、時間の迫っている私に彼女の気持ちや状況に責任を持ってやる事など、もうどうでもよくなっていた。
「もう一回言うよ!到着ロビーへは、この先のエスカレーターを下に降りるだけで良いんだ。分かるね?」
こう突き放す様に言い放って、私はまた駆け出した。彼女にはしっかりと指を差して方向を示した。私がやってあげられることはここまでだ。冗談じゃあない。私だって、泣きたいくらいに飛行機に間に合いたいのだ。
しかし、ただ一点だけ。最後の「分かるね?」と彼女にかけたその言葉に、私は自分の中にもあった、あの社長と同じで嫌味な所があるのだと痛感してしまった。
気が付けば、私は少女の手を引いて到着ロビーに居た。
と、急に彼女は遠くの人混みよりも遠くの方に手を振って、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
私には一体、どこの誰に向かって手を振っているのか察しもつかなかったが、彼女のおかっぱ頭が、私の前腕あたりでフサフサとバウンドしているのに、何だか可笑しくなってしまった。
彼女はパッと私の手から離れると、くるりと私の方に振り返り「ありがとうございました。どうかお気を付けてご帰宅ください」と、意外にもしっかりとした礼をして、深々とおかっぱ頭を下げ、まん丸とした笑顔を置き土産に、人混みの中に颯爽と消えて行ってしまったのである。
やや呆気にとられてしまった私は、ハッと我に返って大慌てで出発ロビーへ激走し、手荷物検査場へ飛び込んだ。
その場に居た空港係員に声を掛けたが、私に返ってきた言葉は案の定、無情なものだったのである。
予約していた便に間に合わなかったのだ。
あの少女から子供のクセに丁寧なお礼を貰って感心していた私であったが、とうとう飛行機に乗り遅れてしまった現実に、どうにも気持ちのやり場がなくなって、ただただ困り果ててしまっていた。
すると、さっき声を掛けた空港係員が私に寄って来た。
「西日本航空であれば、もしかするとキャンセル待ちが出ているかも知れません。お問い合わせしてみてはいかがでしょうか?」
「あ、その手があったか!どうもありがとう!!」
私は疲れを忘れて西日本航空のカウンターまでひた走った。
金と時間は余計に掛かったが、結果オーライだった。
迷子の子の面倒を見たことに神様が労をねぎらってくれたのだろうか。
いや、そもそも少女を無視していたら、なんとか予定の飛行機には間に合っていたはずなので、結局は私だけが損をしてしまった形になり、恩を仇で返された様な複雑な気持ちになってしまった。
そんなくだらない事を考える余裕がようやく持てた頃、私は西日本航空機の座席でシートベルトを掛けていた。
もう夜に入っている時間なのに、飛行機の窓の外に見える薄ら暗いグレーな雲が、まだ少しだけ暮れなずんでいる夕日のせいか、紫色に縁取られていたのが印象的だった。
細かい話になってしまうが、どうしてあの空港の迷い子は、私が「帰る」ということが分かったのだろうか。
「出掛ける」という見方をされなかったのには、なにか理由があったのだろうか。
そもそもあの空港の迷い子は、誰とはぐれたのだろうか。
到着ロビーで誰かと再会できたのだろうか。
彼女からは「到着ロビー」という言葉しか聞いておらず、彼女が今現在、ちゃんと無事でいるのかどうかと、急に不安に襲われた。
するとまた、例の症候群が私の下腹部を刺激してきた。
さすがにこの時ばかりは迷う事無く、機内のトイレに駆け込んで用を足した。
~ 5 ~
当初の予定よりも二時間近く遅れてはいたが、ようやく伊丹空港に到着することができた。
これならば、車を飛ばせば今日中に実家へ着くことが可能だろう。
やけに伊丹空港のロビーは人々で騒がしかったが、お盆休みの最中であるからして、大して気に留める事もなく、私は車が停めてある駐車場へ一目散だった。
空港から家路に至るときに必ず聞くショパンの楽曲集のテープを回しながら、東京での出来事を思い返しつつ、熱帯夜の中、高速道路のオレンジ色の外灯を何度もくぐっていた。
実家に着く頃には、もう日付が変わりそうな時刻ではあったが、明日の祖母の法事にも間に合うように、なんとか無事に帰ることができた。
実家前には既に親戚の車が数台、広い庭先に無雑作に散らばっており、親戚一同で久しぶりの再会で宴会でもしているのか、熱気すら感じられる煌々とした黄色い光が、すぐそこの窓から放たれていた。
私の到着など知るよしもないだろうと、急に気楽になって玄関を開けた。
「ただいま、遅くなりました!」
玄関にある大量の靴に戸惑いつつ、私はなるべく元気に大声を張った。
奥の居間が、一瞬静まり返ったと思ったのも束の間に、ドドドドドっと、廊下を母が走って来た。
後から思うと、あんなに全力疾走をしている母を見たのは、私が小学生だったころ、塾をサボって公園にいる所を母に見つかり、逃げる私を山姥の様な鬼の形相で追いかけて来た。あれ以来な気がしたが、それよりも、このときの母は山姥ではなく、今にも泣き出しそうな、迷い子が母親を見つけたときのような、そんな顔をしていた。まぁ、それはそれで不気味だったのだが。
「お兄ちゃん!!(私には妹がいる為、子供の頃からこう呼ばれている)無事やったんか!!」
母が私の両腕をガッシリと掴むと、その握力は相当なものであり、私は何がなんだか分からず「はぁ?どないしたん」と返事をする頃には、母の後ろから、おびただしく親戚たちもドヤドヤと押しかけて来た。
「良かった良かった!!無事やったんかいな!!」「あぁほんまに、肝冷やしたわぁ!」と、次から次へと私に安堵の言葉を投げかけてくるのだが、私は更に何がなんだか困惑をする一方だったが、母が本当に泣き出したのを見て、私も、いよいよ尋常ではない事態が何かあったのだろうと予感ができた。
「おかん!一体なにがあったん?」
「なんもかんも、お兄ちゃんが乗っとるはずの飛行機が落っこちたんよ!!今もテレビでずっとやっとるやさかい!!」
「いやぁ皆でえらいこっちゃ思うて、今の今まで生きた心地せぇへんかったんよ」と、続けざまに叔父さんも私の肩をさすりながら、自らの乱れた息を整えるように言った。
つまりこういう事だった。
私が搭乗予定だった東日本航空の三二一便がレーダーから消え、どこかの山に墜落したらしいという臨時ニュースがテレビで繰り返し流されていたのだ。
母を含めた私の親戚一同は気が気じゃなく、ましてや宴会どころでもなく、皆で神妙になってテレビでアナウンサーが繰り返し読み上げる搭乗者の名前に、私の名前が含まれてやしないかと、固唾を飲んでいたらしかった。
結局この墜落事故は、五百名以上の尊い命が犠牲になる空前の大惨事となった。
その晩の私は、親戚たちと酒を呑んでも呑んでも酔うことはできず、ただただ足がガタガタと震えていたことを憶えている。
私は様々な奇遇からこの旅客機の搭乗を回避したことで、命を生き長らえたということになる。
もし、搭乗時間に間に合っていたら。
もし全てが、私の思い描いた計画通り、段取り通りスムーズにことが運ばれていたならば、私はもうこの世に居なかったのかも知れない。
そんな風に冷静に思い返せるようになったのは、ごく最近の話である。
この翌日、無事に祖母の法事を済ませることができた。
実家前のだだっ広い庭先から、親戚たちが乗って来た車がちらほらと減っていくのを、私は縁側でボーっと眺めていた。
きっと気が抜けたような顔をしていたに違いない。
遠く、山の向こうには大きな入道雲が背を伸ばしていた。
ギラギラした太陽の光が、庭先の砂利道を白つかせている。
けたたましい蝉の鳴き声が、私の鼓膜には都会の喧噪の様に響いていたが、それが妙に心地良かった。
「あらまた随分と古い写真。こんなん初めてみたわ」
母と叔母(母の妹)は、私が座る縁側のすぐそこの居間で、叔母が持って来たやけに古い紺色の布で作られた薄く古めかしいアルバムをめくっていた。
なんの気無しに私は団扇を片手に覗き込んで見た。
強い夏の日の光に当ててしまうと今にも消え入ってしまいそうな、相当年季の入った白黒の写真だった。
所々白く擦れていたり、黄色い染みが点々と落ちていたが、そこには古風な日本家屋の玄関前に、家族写真であろう数人が並んで写っていた。
「これはおっかあよ。お爺さんもお婆さんもまだ若いわぁ。おっかあも、こんな可愛い時代があったんね!」
私も、祖母の子供時代の写真が存在していたなんて思ってもみなかったので、今度は身を乗り出して首を伸ばした。
「あら、お兄ちゃん。これこれ、これお婆ちゃんの子供のころの写真よ。めっちゃ古い写真。こんなんよく残っとったわ」と母は、覗き見る私に向かって、写真に写っている少女時代の祖母を指差していた。
へぇ、お婆ちゃんって子供のころってこんな子だったのか。
と、眼を細めて、よくよく私はその写真の祖母に目を凝らしてみた。
「あれ?」
私の疑問符に、母と叔母が私に顔を向けた。
そこには、恐らく眼をまん丸くしていて、呆然としている私が居ただろう。
その古びた写真に写っている少女時代の祖母のその姿は、昨晩に私が羽田空港で遭遇した迷い子そのものであったからだ。
え?あの少女は、おばあちゃんの幻?生まれ変わり?・・・バカな、まさかそんな訳ないだろう。
いやしかし、やけに丁寧なお礼だったし・・・いやいや、非現実的過ぎる。
でもあの少女と出会わなければ、私は墜落した飛行機に間に合った訳で・・・。
いや待て、これは一体どういう事なんだ、サッパリ分からなくなってきた。
この後、私は何にも考えられないなってしまい、母と叔母が横から私になんやかんや何かを言っていた様だったが、私の耳には全く入って来ず、這うようにして縁側へ戻った。
ややあって気を取り戻すと、多数の車があった広い庭先は、とっくにがらんどうになっていた。
縁側でうなだれていた私は、ヒグラシの鳴き声がなんだか優しくて、嬉しくて、ポタポタといつまでも落涙が止まずにいた。
おわり
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この物語はフィクションであり、実在の人物・企業とは一切関係ありません
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いくつかの奇跡 紀 聡似 @soui-kino
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