太陽と月の輪舞曲

第12話

「椎子さん。起きていますか?」


 ベッドから身を起こすと、倉橋美月は隣のベッドで横になる長谷川椎子に呼びかけた。

 窓の外には月が輝いている。随分と遅くなってしまった。本来ならばもう帰らなくてはならない時間だが、どういうわけかまだ身体が思うように動かない。

 椎子のことを思うと、あの時、垣間見た心の闇が脳裏をよぎる。その暗さ、その禍々しさに身体が怯え、まるで動くことを拒否しているかのようだ。

 彼は一端教室に戻っている。色々とゴタゴタしていたため、後片付けがまだ残っているようだ。手伝えない自分が不甲斐ない。


 目が覚めた時に最初に飛び込んできたのが彼の顔だった。


 ほっと胸を撫で下ろす仕草。


 そう、いつもそうだ。倉橋美月の正体になんかとっくに気づいているはずなのにずっと側にいてくれる。本当に馬鹿な人……


 視線を隣に移す。長谷川椎子は答えなかった。仕切りが邪魔でここからでは見えないが、本当に眠っているのかもしれない。


 静寂が辺りを支配する。

 

 よく考えるとこの子が自分の意見を口にしたことを今まで見たことがない。どういった人間なのかと問われると首を傾げたくなるくらいだ。


 ずっと喜多沢ひかりの後ろで頼りなく笑っている人。

 ただそれだけ……それ以上の印象はない。

 顔のない顔。喜多沢ひかりという太陽の影に隠れる月……それが長谷川椎子。

 

 そう……あの時触れたこの子の心はとても……


「起きていないのなら、これは私の独り言です」


 そう断りを入れた上で、


「はっきり言って、私はあなたが嫌いです」

 

 本当にはっきりと言ってやった。ビクリと隣の空気が震えるのを感じる。


「ひかりさんの後ろに隠れて、いつも周りの顔色を窺っている。そんなあなたが、私にはとても見苦しく見えました。自己主張をせず、ただ流されるだけ。なんて情けないひとなのだろう。そう思っていました。ですが……」


 少し間をおき、軽く息を吸う。一体何を話そうとしているのか……


「ですが、とても羨ましいとも感じました」


 吐き出すように言った。


 何故、こんなことをこんな子に話そうとしているのだろう。こんなことは誰にも話したことがない。彼だって知らない。知られたくもない。


「知っていますか?私は望まれて倉橋の家に生まれてきたわけではありません。私の母親は、今の当主が気まぐれで手をつけただけの女です」


 その母親は、幼い美月を倉橋家に押し付けて何処かへ行ってしまった。残ったのは当たり前のように批難の目に晒される地獄のような日々。


 下賎な生まれ、どこの誰とも知らない女の子供。


 新しい母親も、実の父親さえもが蔑み、疎んじ、ただ遠ざけるだけ。誰にも愛されず、誰にも望まれない存在。


「……不安でした。どうしていいのかわからず、泣いてばかりいました。誰も私を認めてくれない。誰にも必要とされない。死んでしまいたいとさえ思いました。ですが、その勇気も私にはありませんでした。本当に、情けないかぎりです……でも本当に、どうしていいのかわからなかったんです」


 隣のベッドから身じろぎする気配が伝わってくる。


 この子は今何を思っているのだろうか……


「ですけど、そんな私に声を掛けてくれた人が居ました。みっともない。泣くくらいなら見返してやればいい。僕が教えてやるよと、それが兄、倉橋陽一郎でした」


 目を瞑ると今でもそのときのことを鮮明に思い浮かべることができる。忘れられるはずがない。それは弱く幼かった日々に光を与えてくれた。大きな勇気を与えてくれた。そして希望を与えてくれた。


「本当に、嬉しかった……」


 思い出すだけで胸が熱くなる。


 差し出された兄の手は、とても小さかったけれど、とても大きく見えた。

 幼い美月はその手を取った。しっかりと、離さないように……


 その時から、倉橋美月は、倉橋陽一郎の妹になった。


「私は兄と共に生きようと思いました。このひとが居てくれるならちゃんと生きていける。他には何も要らないとさえ思いました」


 その気持ちは何処か恋にも似ていた。周囲の人間は、倉橋美月を全く認めようとはしなかったが、それでも構わなかった。兄だけはちゃんと見ていてくれた。妹の手を取って導いてくれた。


 そして何より愛してくれた。


 だからこそ、その兄に応えようと思った。

 だからこそ、どんな努力も厭わなかった。

 

 兄のように……

 兄に相応しい妹で居られるように……


「やがて、私が倉橋家に……兄の妹に相応しい人間になるにつれ、周囲の人間も徐々に私のことを認め始めました。倉橋家の、倉橋陽一郎の理想の妹として……」


 それはとても喜ばしいことだった。何故ならば、これで誰の目を憚ることなく堂々と兄と一緒に居られる。それまでは周囲の目を盗んで密かに会っていた。だが、そうなれば何の気兼ねをする必要もない。それは倉橋美月がずっと望んでいたもの。ついにそれを勝ち取ったのだ。


「……ですが何故でしょうね?」


 そう、何故なのだろう。

 何かが変わったわけではない。自然とそうなってしまったような気がする。


「……いつしか兄もまた、周りと同じように、私に理想の妹を強く求めるようになっていました」


 目を閉じる。


 かすかに木々がざわめく音が聞こえてくる。風が出てきたのだろうか。


 月の綺麗な夜。時間だけがゆるゆると静かに流れていく。


 本当に馬鹿だ。一体何のためにずっと努力してきたのだろう。どんなに辛くとも、どんなに苦しくとも我慢できたのは、そこに確かにそれがあったからだ。だから頑張ることができた。だからあんなにも満たされていた。そのはずだったのに、いつの間にかそれは……


 そして……


「私もまたその役割を受け入れました」


 もう、それしか残っていなかった。


「これが、あなたがたの知る倉橋美月という女です」


 やることが変わったわけではない。そう振舞えばよいだけのこと。そこに違いはない。だけど、やはり何かが変わってしまった気がする。兄も、そして自分も……それが何なのかはうまく言えない。それはかつてあったもの……でも、今はもう見えない。


「だけどね椎子さん。勘違いしないで下さいね。私は、兄を敬愛しています。私が兄の妹であることをとても誇りに思っています」


 そう、それは確かだ。


「あなたのように後ろに隠れて震えているだけの存在ではなく、兄の為ならば何でも出来る。だからこそ私は私で居られた」


 そう、それが倉橋美月、倉橋陽一郎の理想の妹……それこそが私……


「ですが……」


 シーツを握る手に力がこもる。何故だろう。とても悔しい。


「ですが、あなたがひかりさんから与えられたようなものは、私にはもう決して得ることが出来ない!」

 

 何故、自分はこんなことを語っているのだろう。陽一郎に認められること。それは至上の喜びだったはずだ。それを否定するなど自分を否定するようなものだ。


 だが、もう駄目なのだ。それはとても息苦しい。


 理想の自分、倉橋陽一郎の理想の妹、違う。そこに私は、倉橋美月は居ない。決められた理想のカタチがあるだけだ。


 心が押し潰されてしまいそうだった。


 こんなもの、望んではいなかったはずだ。もっと別の何かを……


 空気が揺れた。別の気配が伝わってくる。この気配は……

 

 そうか、そうだった……

 

 なかったのではない。気付かない振りをしていただけだ。

 理想と言う殻に閉じこもり、失ったものを嘆きながらも、そこから踏み出そうとしなかった。


 何故ならば、それはとても怖かったから……


 臆病で、卑怯で、それは幼かったあの時と全く変わらない。弱いままの自分。誰かが手を差し伸べてくれるのをずっと待っていた。


 何故ならば、それは楽だから……


 これは罰なのだ。


 ずっと気付きながら気付かない振りをしていたその報いを今、倉橋美月は受けている。


 ならばもう全てを曝け出そう。


 倉橋陽一郎の妹など今はもうどうでもいい!


 私――倉橋美月は立ち上がる。


 足元が覚束ない。まだうまく動けないようだ。


 足がもつれた。床に転倒する。


 気配が動いた。


「来なくていい!」


 息を飲む気配が伝わってくる。そう、それでいい。これは私の役目。他の誰でもない私自身のやるべきことだ。


 這うようにして、椎子のベッドに到達する。


 椎子は怯えているようだった。


 何て顔。そう。いつもこんな顔ばかりだ。


「あなたが、ひかりさんに何をしたのかは知りません。ですが、大方の見当は付いています」


 椎子が震える。泣き出しそうな顔、深い後悔の色。


「あなたがそれを放棄すると言うのなら、私がそれを奪い取るまでです」


 パンと頬を張る。乾いた音が響いた。


「もう、あなたをひかりさんに近づけたりはしない。何故ならば、あなたがそれを望んだから、そして私は、私になかったものを手に入れる。これは必然というものです」


 椎子の顔に浮かぶのは恐怖。そして―


「イヤ!」


 私は思い切り突き飛ばされた。


「そんなのイヤ!それじゃあ誰もわたしを見てくれなくなる!」

 

 ……そう。その通り。


 私は、再び椎子に飛び掛った。よろめく。思ったように身体が動かない。でも……


「何を言っているのです!あなたとひかりさんは関係ありません。そんなものはあなたの勝手な妄想です!」


 私は、椎子を組み伏せる。私自身を切り刻みながら……


「違うもん!だって、みんなわたしを見てくれない。みんなひかりちゃんを通してしか、わたしを見てくれない。お母さんだって」

 

 ……そう。全くその通り。本当に……苦しくて、痛い。


「だから恨んだ。だから消えてしまえばいいと思ったのですか!?」

「そうよ!だってみんなひかりちゃんしか見ない。わたしはここにいるのに、誰も見てくれない!」


 上に下に、私と椎子がベッドの上を転がる。この子は私の鏡だ。とても忌々しく、そしてとても愛しい……


「それに……」


 それに?


「羨ましかったんだもん!だってひかりちゃんは誰ともすぐ仲良くなれる。わたしだって、本当はみんなと仲良くなりたかった。ひかりちゃんみたいになりたかった。ひかりちゃんは大好きだけど、ひかりちゃんさえ居なければっていつも思ってた。でもそんな自分もキライ!大キライ!」


 ああ、本当に……なんて、苦しいのだろう。息が出来ない。


 本当になんて醜い。そしてなんておぞましい……だけどなんて愛しい……


 そう。だからこそ、あんなに気になったのだ。あの強さ。あの輝き。そこには倉橋美月にないもの。私が渇望してやまなかったものがある、


 あはは、もう駄目だ。もう立てない。私はズタズタに切り裂かれてしまった。かつて私だったものが悲鳴を上げている。


 本当に苦しい。苦しいけれど……すこし心地よい。

 

 今、長谷川椎子が息を荒げながら倉橋美月を組み伏せている。他人が見たらどう思うだろう。本当におかしなことをした。私は狂ってしまったのだろうか……

 

 だけど、最初からこうすればよかったのだ。


「ねぇ、椎子さん?」

「え?」

「お友達になりましょう」


 キョトンとする顔。


 何て顔をするのです。私だってこんなことを言ったのは初めてです。恥ずかしいではありませんか。


 そして、椎子は今度こそ本当に、顔をグチャグチャにして、私の上で泣き崩れた。

 

 ……そう、この子はずっと、ひかりを通してしかものを見ることが出来なかった。いえ、ひかりを通してものを見ることに慣れてしまった。


 だけど、理想は理想。人は決して他人にはなれない。


 だからこそ求める。

 だからこそ苦しむ。

 

 でも答えはひとつとは限らない。

 少しだけ踏み出す勇気さえあれば、また手に入れることだって出来るものなのだろう。

 

 だから……


「もういいですよ。宏樹さん」


 視線を移す。そこにはとても大切な人。ずっと抜けがらの私に付き添ってくれていた強く、優しい私のもう一つの太陽。


 彼が近寄ってくる。ゆっくりと身を起こす。


 だからもう素直になろう。私はあなたを――

 

 コツン!


「きゃん」


 突然頭を小突かれた。


「な、何を?」

「あまり俺を困らせないでくれ美月」

「え?」

「お前はいつだってそうだ。いつだって傍若無人に俺を振り回す。そのくせいつだって自分で何でもやろうとする。それが俺をどれだけ苦しめたかわかるかよ。わからないだろうな。そりゃそうだ。ずっと見てきたんだ。お前がどんな奴かなんて知っている。知らないのはお前だけだよ。何でそんなに不器用なんだよ。何でそんなに馬鹿なんだよ。ああもう、本当にどうしようもない馬鹿だよお前は。この大馬鹿」


 むか、何ですかその言い草は?


「だけど、今気づいた。いや違うな。ずっとわかってたさ。そうだよ、俺は、そういうところもひっくるめてどうしようもなく、馬鹿で馬鹿で仕方がない倉橋美月が好きなんだ。だからもう――」


 ふわりと抱きしめられた。


「泣くな」

「あ……」


 だめ、そんなの反則。そんなの耐えられない。


「そして、ゴメンな美月」


 ああ、もうだめ。ずっと我慢してきたものが流れ出していくのがわかる。

 

 悔しい。泣くなと言われて泣く馬鹿が何処に居る?


 でも私は泣いた。彼の腕の中で。


 夢見ていたような少女趣味の展開ではなかったけど、これはこれでとても心地よい。


 だけど覚えていろ宏樹。いつかきっと私からも一矢報いてやるから。


 でも、今はずっと包み込んでいてほしい。ずっと……

 

 ひとしきり泣いたあとのこと。


「あ~、お取り込み中のところ済まない少年少女たちよ」


 と声がした。いつの間にかそこにいた長い髪の超能力者は困ったように頭をかきながら、


「すこし厄介なことになってしまっていてな。出来れば君たちの力を貸してほしい」


 口調とは裏腹に真摯な瞳で私たちを見据えた。

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