第13話

「ひかりさんが消えてしまった?」

 

 戸惑いがちに美月さんが顔を曇らす。宏樹ちゃんと顔を見合わせると、宏樹ちゃんもまた首を横に振って、


「それはどういうことだ?」


 とやはり戸惑った顔でそう言った。わたしにもよくわからない。どういうこと?


「どう……と言われても、言葉通りの意味だが……いや済まない。正直を言うと私もあまりよくわかっていない。概念的には理解しているんだが現実にそうなると説明がやや難しい。要するにだ。彼女は今、並行世界に身を置いている」


 並行世界?再び顔を見合わせる。頭の中に浮かぶのは沢山のクエスチョンマーク。


 やっぱりよくわからない。どういうこと?


「ああもう、何て説明すればいいんだ。つまりだ。どうやったかはわからないが彼女は、この今ある世界とは全く別のもうひとつの世界を構築し、そこに閉じこもってしまった。『天の岩戸』だ。そしてもう、この世界にはほとんど存在が感じられない。今はまだいい。だが、そのうち完全に消えてしまうだろう。そうなったら手の打ちようがない。いや、恐らく、手を打とうとすら感じないだろう。存在の完全な消滅は最初から居なかったことと同意だ。つまりはだ……」


 そこでわたしを見る。直情的な黒い色の瞳。その瞳に嘘はない。


「私も、君も、そして誰もが彼女のことを忘れる。つまり最初から居なかったことになる。これが恐らく最悪の、そして現状では最も確率の高いシナリオだ」


 あとは君次第。覚悟を決めろ。その瞳はそう語っていた。

 シン、と水を打ったように静まり返る。わたしがすべきことは……


「わかりました。それでわたしは何をすればいいんですか?」

「椎子?」

「美月さん。この人が言うことは本当だと思う。この人は、厳しいけれどとても優しいひと。わたしにはわかるもの。だからこそわたしは信じられる」

「俺もそう思うな」


 と、宏樹ちゃん。昔は怖かったけど、今はとても頼もしい。


「このひとは何処となくひかりに似ている。いや、ひかりが似ているのか……その言葉に嘘はない。とても筋が通った人間だ」


 その言葉に美月さんは、少しだけ顔を曇らせると、


「そうですね。あのひとが居ないと寂しがるひともここにいますしね」


 ふてくされたように言った。


「何だよそれは?」

「別に……どうせ私は嘘ばかりの人間ですから」


 プイと顔を背ける仕草。ふふ、なんだかとっても可愛い。


「それと椎子。その呼び方はやめてくれません?せっかくお友だちになったのですから、美月と呼んでください。でないと私は協力できません」

「うん、わかった美月。一緒にひかりちゃんを助けよう」

「ええ当然です椎子。ひかりさんには言いたいことが山ほどあります。こんなところで居なくなってしまわれたら困ります」

「……だそうだ。教えてくれ。俺たちは何をすればいい?」


 有希子さんは、うむ、と一言満足げにうなずくと、


「なかなかいい顔になったな。何があったか知らんが、どうやら迷いは晴れたか」


 結構結構と、快活に笑った。


「では説明する。私はこれから、私の力を全力で解放する。君たちはそれに同調しろ。なに難しく考える必要はない。君たちの知っているひかりちゃんのことを思い浮かべればいい。強く思うんだ。そしてひかりちゃんを感じろ。私はそれを導きの糸にしてひかりちゃんを探す」


 何か質問は、との言葉に躊躇いがちに美月さん……美月が手をあげる。


「ひとつだけいいでしょうか?」

「無論だ。この際、迷いの元となるものは取り除いておかなくてはならない。私が答えることができるものならば全て答えよう」


 美月は軽く頷くと、その疑問を口にした。


「私たちはともかくとして、何故あなたはひかりさんのことをそんなに必死になって救おうとしてくれるのでしょう?あのときもそう。やはりひかりさんとお知り合いなのでしょうか?」


 それはここにいる誰もが抱いている疑問だった。


「なるほど、当然の疑問だな。確かに私はあの子のことを知っている。それは確かだ」


 だが同時にその質問はとても無意味だ。と有希子さんは続けた。


「それは何故?」

「私は教師だ。それ以上の理由が何か必要か?」


 まさに圧巻。美月は開いた口が塞がらない。


 すごい。なんて強い。なんて圧倒的。そうだ。この人はずっとそうだった。あのとき、敵わないと感じたのは何も力の強さだけじゃなかった。だって、この人はわたしをどうにかしようと思えばいつでもできた。でも、最後までわたしやひかりちゃんを信じ、わたしたちの判断に委ね、そして道を踏み外した時、大きな声で叱ってくれた。


 敵わない。だけど同時にとても憧れる。わたしもこんな風になりたい。


「他に何か質問はないか?」


 もう誰も何も言おうとはしなかった。


「ないなら始めるぞ」


 有希子さんはひとつ頷くと、静かに「力」を解放する。瞳の色が淡い紫色に変わっていく。


「いいか。心に描くのは、いつも君たちの側に居た小さくて元気な子だ。今彼女はとても深い闇の中をさまよっている。イメージしろ。君たちの知っている彼女の姿を。今彼女は何処に居る?何処に感じる?心を重ねろ!そこに必ずひかりちゃんは居る!」


 ひかりちゃんのことを思う。いつもそばにいてわたしを励ましてくれたちっちゃいけれど、とても強い光。温かくて優しくて、だけど本当はとても泣き虫。一緒に映画を見に行ったときなんかいっつも泣いていた。あんなの泣くことないのに。

 ああ、そうだ。なんでこんなこと忘れてしまっていたんだろう。一緒にいるだけであんなに楽しくて、わたしを満たしてくれていたのに……わたしは本当に馬鹿だった。


 だから今度はわたしがひかりちゃんを助ける。もう、間違えたりしない。絶対に。


 見えるのは公園。とても寂しくて暗く冷え切った世界。

 

 その片隅でひかりちゃんは、蹲り、


 ひとりで泣いていた。


 あともうひとつ。これはたしか……






 そこはとても冷たい世界だった。何もない空間に、あるのは公園だけ。そして、その片隅にポツンと小さなひかりちゃんだけが、ひとり静かに佇んでいる。


「驚いたな」


 と有希子さんがつぶやいた。本当、わたしもそう思う。


「はい。わたしも驚きました。本当にここがひかりちゃんの世界なのでしょうか?こんなに寂しい世界がひかりちゃんのものだなんて信じられません」

「いや、そうではなく、君がここに存在することが、まず大きな驚きだ。あたしならともかく、君がこの世界で形をもって存在していることに驚きを覚える。いや待てよ」


 紫色の瞳が動き、わたしの姿をとらえる。


「そうか、これは同時に君の世界でもあるんだろうな。だからか……」

「どういうことですか?」

「いや、まぁいい。とにかくだ。まずは成功した。ここは恐らく、ひかりちゃんの内面にある小さく巻き上げられた次元に浮かぶ世界だ。自省の思いが極大化した結果、極小化した自我が裂けて反転した。簡単に言うと、彼女は今、すべてをリセットしてやり直そうとしている」

「え?」

「見るがいい」


 有希子さんの指がさししめす先、そこには男の子たちに苛められている女の子の姿。あれは……わたし?


「そう、全てはここから始まった。ひかりちゃんは今、こう思っている。あのとき自分が彼女を助けたりしなければ、彼女も後にあんなに苦しむことはなかったのではないだろうか、それを思い、立ち止まっている。決めかねている。だから世界はここで停滞し、これ以上広がっていかない。そこでだ」


 有希子さんはわたしの前に何かを差し出した。それは……プラスチックのバット?


「君が決めてやれ。いや、君しか出来ない。君が望めばひょっとしたら未来を変えられるかも知れないぞ。ひかりちゃんに出会うこともなく、強く生きた自分。そんな未来が待っているかも知れない。だからここから先は君に委ねる。行け。そしてどうするかを決めろ」


 わたしはひとつ頷くと、バットを受け取った。そしてひかりちゃんの元にゆっくりと近づく。


「どうしたの?」


 わたしが言うと、小さなひかりちゃんは驚いたようにわたしを見る。そして、


「うん。あいつらどうしても許せないんだ。あんなの間違ってると思う。だけど……」

「だけど?」

「怖いんだ。だってあんなに大勢いるし……それにどうしてか、あの子のことを思うと、このままの方がいいんじゃないかって思う。あたしなんかが手をださなくたって、きっとあの子はちゃんとやれるんじゃないかな?」


 ズキンと胸が痛む。そう、これはわたしの罪。だからわたしが受け止めなくてはならない。


「そんなことはないと思うよ」

「え?」


 そう。何度やりなおしても同じだ。わたしはこの道を選びたい。この先、それがどんなに苦しくても、わたしはそれを引き受けていかなくてはならない。それにもう、ひとりじゃないんだから……


「あの子も絶対それを望んでると思う。わたしにはわかるの。あの子はあなたとお友だちになりたがっている。だから……」


 わたしはそっとバットを差し出す。


「これであの子を助けてあげて。これは魔法のバット。どんなことにでも立ち向かうことのできる勇気の証し。きっとあなたの助けになる」

「うん。ありがとう。じゃあ行ってくるよ」


 小さなひかりちゃんがバットを手に駆けていく。それは10年前の光景。そしてその時本当にひかりちゃんの側にいたのは多分……


 わたしはその人の姿を見る。


「よかったのか?あれで?」

「うん。これでいいの。だってわたしは今、心からそれを望んでいるから……」


 バットを持って、男の子たちに挑みかかる小さなひかりちゃん。その姿を見ながら、急速に広がっていく世界を感じ、わたしたちは光に包まれていった。

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