「じゃあ華月かづき、また明日ねー」

「んー」

 途中で未来みきと別れた。

 予定より部活が長引いてしまい、既に暗くなった帰路を急ぐ。

 私は羽衣石ういし 華月かづき、高校二年生。髪は先生に怒られない程度の茶髪、今は後ろでまとめてポニーテールにしている。ずり落ちてきたハーフリムの眼鏡を指で直す。

 イマドキ門限なんて、とは思うよ。幸い大きな満月が夜道を明るく照らしてくれている。たしか六月の満月って<薔薇月ローズムーン>っていうんだっけ。

 まあ、親の心配もわからなくはないんだけど。


 私には左の耳たぶがない。

 小学生くらいの時に一度、誘拐されたことがあって。

 犯人からは何の連絡もなかったし、私は無事に——というとちょっと語弊ごへいがあるけれど——帰ってきた。

 公園で眠らされていたところを発見されたんだ。

 、ね。

 止血はしてあったし、麻酔も打たれていたそうだから——誘拐犯人は医療に関係した人物だろうということになったけれど、現在まで捕まっていない。

 私はその時の出来事をまったく思い出せずにいる。

 カウンセラーには恐怖で記憶が抜け落ちたんだろう、一種の防衛本能だよって言われた。本能がそうしたんだから無理に思い出すことはないって。

 ただ、ひとつだけ覚えてる。


 あの時も、こんな満月だった。


 まあそんなわけで、両親が心配するのもわからなくはない——というか、そうなんだろうな、とは思う。

 ただそのせいで細々こまごまとしたことまで口を出してくるのには閉口するけど。

 私はもう高校生なのに。


 なんてことを考えてると、ちょっとした違和感に気づく。

 おかしいな。

 暗くなったといってもそこまで遅い時間じゃない。なのに、周りに歩いている人が誰もいない。

 まるで世界中で私ひとりだけ、満月の下で歩いているよう。

 


 いや、ひとりではなかった。

 話し声がする。

 二人……かな。

 前方に、何かモメているらしいご様子。


「嫌っ!!」

「ちょっと、亜美あみ……暴れんな。痛っ」


 泣きながら女性がこちらに走ってきて、そのまま逃げて行った。私の横を通った時に顔をちらりと見たけれど、なかなかの美人さんだったように思う。

 なに、痴話喧嘩ちわげんかですか?

 あれ──ひょっとして、刺されてる?


 もう一人の方は月光の当たる側の壁へよろよろと出てきて、もたれかかった。

 てっきり男性だと思ってたけれど。

 女性だ。


 ショート丈のデニムから細い脚がすらりと伸びている。パンクみたいな格好してるくせに、モデル並みに小さく整った顔。ベリーショートの赤毛はアシンメトリーで、右目を隠している。耳にはいくつものピアス。

 左の二の腕には小さい包丁——果物の皮をむくような、ペティナイフ?——が刺さっていた。

 量は多くはないものの、血も出ている。

 満月を背景バックにして。蒼褪あおざめたかお。それなのに唇は紅く。

 眼を離せないほどアンバランスで。


 とても綺麗だった。


 あ。怪我。

 少しの間フリーズしていた私、とりあえず近寄って——。


「あの、救急車呼びましょうか?」

 そばに寄るとまた、迫力のある人だ。少しビビってる、私。

 彼女は赤の他人の申し出に驚いたようだった。

 困ったように微笑む。その女性ひとが言った。

「不用心だね、きみ。他人の厄介ごとは避けておくものだろう」

「でも、血が……」



 全身に鳥肌が立った。

 私、この人を知ってる気がする?

 息苦しいほどに心拍数が上がる。



 気のせいだろうか。

 雲もない夜空から、遠い雷の低い唸りが聞こえた。



「ちょっとあたしの部屋まで来て、手を貸してくんないかな。あたしはリルカ」

 差し出されたむき出しの手。


 この手を取ったらどうなるだろう。

 世界のすべてが変わる——そんな妄想めいた予感がする。

 でも、私は変わることを望んでいたはず。退屈だ、つまらないと思っていたはずだ。

 

 リルカの手に触れた。ひんやりした、冷たい手。

「私は華月かづきです。歩けますか?」

「うん。すぐそこだよ」








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