宝物

「おにい、笑って!」

「お、おう」

「だめだめ! ほら、手のひらに人って書いて飲み込まなきゃ!」

「わ、わかった」


 ついに、笹森さんからお誘いを受けた日になってしまった。昨日から俺はずっと緊張しっぱなしだ。

 それを見かねたであろう妹が、アドバイスしてくれる。有り難いが、効果はない。


「1人じゃだめっぽいね。もっと人書いて……、そうだ! 群集とか書いた方がよくない? いや、待って。人は書かないと意味がないかも……」


 落ち着け。

 まだ自宅を出てもいないのにこんなに緊張してどうする。

 しっかりしろ!


 妹が悩み始めたが俺はそれどこではないので、無視する。


「あっ! 閃いた! 人が群がるって書けばたくさん飲み込めるよね!? あとさ、むらがるとか、むらがるとか、画数多い方がお腹いっぱいになりそう!」

「全部むらがるにしか聞こえねーから、違いがわかんねーよ!」


 お腹いっぱいになるってなんだよ!?


 目的がいつの間にか変わっていて、思わずつっこんでしまった。

 しかし同時に、俺の緊張も解けた。いつものやり取りをしたからこそだろう。こればかりは妹に感謝だ。


「もう大丈夫だ。行ってくる」

「えっ!? ちゃんと食べてないのに大丈夫なの!?」

「お前の言葉でお腹いっぱいだよ」


 驚く妹の頭をぽんぽんと叩けば、ぱっと笑顔になった。俺の緊張うんぬんではなく、お腹いっぱいになった事が嬉しいのだろう。でも、訂正するのも面倒なので、笑い返すだけにしておいた。


 ***


 笹森さんと待ち合わせをして、知っているはずの道を歩く。彼女の家は駅を挟んだ向こう側。子供の頃は探検していた気がするが、用がなければ行かなくなるものだ。


 休日に2人きり。今だけは浮かれておこう。

 それにしても笹森さん、今日はさらに可愛い!


 隣を歩く笹森さんの格好は、くすんだピンクのブラウスに、明るめのこげ茶色をしたワンピースを着込んでいる。その上から、アイボリー色の厚手のカーディガンを羽織っている。


「笹森さんの今日の服装って、なんかマカロンとか、お菓子みたいな色合いで可愛いね」


 あ、やべ。


 浮かれすぎて微妙な褒め言葉を伝えてしまったが、笹森さんは嬉しそうな顔をしてくれた。


「谷川くん、鋭いね! あのね、今日食べ物とかいらないよって言ったのは、私が作ったお菓子を用意してあるからなの。だから服の色も合わせてみました。なんてね」


 奇跡だ!

 それに手作り!!

 神様、今日という日に感謝します!


 失敗したかと思ったら、笹森さんの意図を感じ取れていたようだ。俺達、相性が良すぎるんだ。そうに決まってる。

 小悪魔っぽい笑みを浮かべた笹森さんに心臓を射止められながら、手土産を持つ手に力を入れる。


 笹森さんには気を遣わなくていいからと念を押されたが、手ぶらなんて考えられない。

 だから食べ物ではなく、いちごの緑茶と紅茶にしてみた。一緒に買いに行った妹が言うには、人気で普段なら売り切れだそうだ。

 でも手に入れられたのは、神様が今日という日を最高のものにしようとしてくれている、はずだ。


「谷川くんはなんだか大人っぽいね」


 始まったばかりの休日に感謝していれば、笹森さんが首を傾げるように覗き込んできた。


「黒だから、かな?」


 笹森さんの歩調に合わせながらも、自分の服を見る。


 カーキ色の長袖フリースの上から黒のジャケットを羽織り、下も黒のズボン。

 彼女の両親への挨拶だから、制服で来ようか本気で悩んだ。結果、ちょっとだけきちんとした服装に見えるようなコーデになった。


 大人だったらスーツでいいんだろうけど……。


 それを考えたら、緊張してきた。結婚の挨拶でもないのに、変に意識してしまう。


 余計な事は考えるな!


 このままだときちんとした挨拶ができない。そう喝を入れ、深呼吸した。


 ***


 俺、ちゃんと挨拶できたんだよな?


 笹森家に到着すれば、まずは爽やかくんが飛び出してきた。しっぽがぶんぶん振られている錯覚までした。

 そんな大歓迎に戸惑いつつも、抱きついてきた爽やかくんを落ち着かせるのに必死だった。


『ついにお義兄さんが僕の家に! 記念に写真を撮りましょう!』


 笹森さん以上に喜んでいる爽やかくんが、そう言ったのまでは覚えている。そのあと、笹森さんのご両親が出てきてからの記憶が曖昧だ。

 そのまま、笹森さんの部屋にお邪魔した。爽やかくんもなぜか一緒だが。


 衝撃の美しさだった。


 爽やかくんも輝いて見える時がある。今がそうだ。笹森さんも綺麗で可愛い。

 でも、綺麗よりも美しいという言葉がぴったりなご両親の顔は、輝きすぎて太陽でも眺めるように目を細めてしまった気がする。


 あれは同じ人間なのか?


「うちの両親を見ても態度が変わらなくて、驚きました。最初は様子がおかしくなる人ばかりなのに、さすがお義兄さんです!」


 爽やかくんはまるで、自分の婚約者を見る目は間違いなかったとでも言っているようだ。しかも、頬を染めて微笑んでいる。俺の真横で。

 だから、複雑な気分になった。


「そ、そっかな。俺、挨拶ちゃんとできてた?」

「もちろんです! 目元がキリッとしていて、最高にクールでしたよ!!」


 恥ずかしい!!


 爽やかくんの口から変換された俺の姿を想像して、消えてしまいたくなった。だから思わず、うつむいて両手で顔をおおう。


「どうかしましたか?」

「い、いや、なんでもないです……」


 爽やかくんに事情を説明しても、きっと理解してもらえない。だから気を取り直して、彼と会話を続けるために横を向いた。


 俺、今、好きな人の部屋にいるんだ。


 ようやく諸々の動揺から立ち直ったが、隣には笹森さんがいてほしかったなと、もの悲しくなる。


 笹森さんの部屋は全体的に優しい色合いで、俺と爽やかくんが座っている2人掛けのソファも白に近いグレーの色だ。

 隣にはクリーム色の勉強机が並ぶ。その上には、アロマキャンドルや木製の小さなスタンドライト。

 そして、俺がホワイトデーに贈ったティントリップが置かれていた。


「あ、気付かれましたか? お義兄さんからもらったものだからって、中身がなくなっても飾ってるんですよ」

「えっ。そうなの?」

「宝物だからって、綺麗に洗っていました。今でも眺めているのをよく見かけます。それだけで元気になるそうです」


 宝物って……。


 今でも笹森さんは同じティントリップを使っている。俺が選んでくれたものだからって。

 でも、まさか使い終わったものがそんなに大切にしてもらっていたとは知らなくて、一気に顔が熱くなった。


「姉さんの気持ち、よくわかるんです。やっぱり好きな人からもらったものは全部が大切で、どんなお守りよりも頑張る力をくれるって思います」

「……それは、俺もわかる」


 好きな人からのものは、すべてが特別だ。

 物だけじゃなくて、言葉も。

 そんな風に想ってもらえる事が幸せで、胸がぎゅっと痛んだ。嬉しすぎて、なんて言葉にしたらいいのか、わからなくなった。

 そこに、階段を上る足音が聞こえてきた。


「あ、準備できたみたいですね」

「準備?」

「今日、お願いがあるって姉さんから聞いていませんか?」

「それは聞いたけど、内容は知らないんだよな」

「内容は知らなくて大丈夫です。お義兄さんなら出来ますから」


 出来る?


 笹森さんから事前に、『家に誘ったのはね、谷川くんだけにしかお願いできない事があるからなの』と言われていた。でも当日まで内緒で、詳細はまだ知らない。

 そして今も待っていてほしいと言われ、笹森さんの部屋で待機している状態だ。


「あとですね、姉さんは今日、朝の5時からお菓子を作り始めたんですよ」

「5時!?」

「そうなんですよ。すごく張り切っていて、谷川さんもきっとこんな風にチョコ作り練習しているのかな? とか思っちゃって、僕まで幸せな気分になりました」

「あ、そ、そうだよな。うん。笹森さんの努力はしっかり受け止めるから……」


 笹森さんの行動力に驚きながらも、嬉しくてむず痒い気持ちになる。

 けれど、うちの妹はなにも練習していないのを伝えられず、良心が痛んだ。

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