残された者
天養2年(1145年)4月26日
朝からずっと雨だ。
雨の日は、嫌なことを思い出すから好きじゃない。
庭先を眺めながら懐紙を取り出し広げる。
中に入っているのは僕の大事なものだ。
-母さまの髪
もう一緒に寝られないし、勉強を見てもらえることもない。
隣に座っている小狼たちも、心なしか元気がない。
ぱたぱたとこちらに走ってくる基盛の姿が見えた。
「あにうえー、ははうえがもうすぐ出発するってー。」
「あ、待ってー。今行くー。」
基盛と一緒に、僕もぱたぱたと走って行く。
あの日、僕と小狼たち・・・いや、ほとんどこの子たちのおかげで僕は何もしていないけど・・・。とにかく僕たちは、母さまのまわりにはびこっていた小鬼を退治することに成功した。
とはいえ、母さまの症状が劇的に改善したわけではない。
回復魔法など無い世界だ。・・・いや、知らないだけか?
まあそれはともかく、母さまの回復には1月ちかく時を要した。
「重盛ちゃん、ありがとね。」
もう、ずいぶんと回復してきた頃に、母さまは感謝の言葉とともに切り出してきた。
「うち、落飾するわー。」
「えっ?
母上は「わかってないな-」と言うかのように首を横に振る。
「重盛ちゃん、そのルビは良うないで。出家やなくて、
違いがよく分からない。
「女性が儚はかなくも、髪を落として、この厳しく悲しい世を離れるのが落飾やー。出家は世俗を離れて仏門に入ることやな。」
母さまが何やらくねくねと身をよじらせる。
ふと、母さまの脇に置いてある本が目にとまった。
-源氏物語
母さま・・・、物語の影響を受けすぎです。
「で、髪を全部、切り落としてしまうのですか。」
「あー、それなー。」
うーん、と母さまが眉間にシワを寄せる。
「さすがにそこまでは決心できへんわー。肩でそろえるようにするわー。」
朧月夜や藤壺ほどの心境には未だ無いらしい。
とは言え、愛する幼子(決して僕のことではない。断じてない。)を残して落飾するのだ。今回の病のことが母さまには相当こたえたのだろう。
ここは気持ちよく送り出してあげよう。
さて、場面は基盛と共にぱたぱたと邸宅前に走ってむかったところに戻る。
邸宅前には牛車がとまっており、清盛パパが母さまに傘を差し掛け、楽しそうに話している。
どうやら僕らの足音で、こちらに気がついたようだ。
「ようやっと来たな。」
走ってきたから、息がはずんでしまった。泥はねもひどいものだ。
膝に手をつき、息を整える姿勢のまま、顔だけ上げて母さまを見る。
「たまには遊びに行きますから。」
「ぼっ、ぼくだって!」
基盛が負けじと言う。「あらあら。ではご飯を用意して待っとらんとなー。」
母さまが服の裾が濡れるのもいとわず、しゃがみ込んで、僕たち2人をぎゅっと抱きしめてくる。
「元気でね。風邪ひかんように、体を大事にな。」
「「はい」」
僕と基盛もぎゅっと、母さまに抱きついた。
このままの時間がずっと続けばいいのに。
そう思うものの、別れの時間はやってくる。
母さまは、僕と基盛を抱きしめていた手をそっと離す。
母を乗せ、やがて進み出した牛車を見送る僕の顔が濡れていたのは、蕭々と降り続く雨のせいだけではなかったのかもしれない。
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