第2話

 老田家で暮らしはじめて一週間が経った。

 目的もなくただ漠然と日々を過ごす事に藤吾自身は慣れないと思っていたが、何かにつけて働き続けていた日常から解放されると信じられないほど体に馴染んだ。

 老田も琥珀も藤吾に「何をしろ」と言うことは一切無かった。二人ともそれぞれの生活をそれぞれに行っていて、藤吾には入り込む余地も無かった。やることもなくただのんびり過ごす日々は強烈に新鮮だった。

 綺麗に色付く緑の山脈を眺めてぼんやりとする時間は経験してみてやっと得難いものだと知った。大空に浮かぶ大きく悠々とした白い雲は心に不思議な余裕をくれた。茹だるような暑さも夏の日差しも日陰と言う優しさを孕んでいると気づかされた。

 藤吾は居心地を探す猫のように移動して、ぼんやりとゆっくりと過ごしていた。ただ生きているだけでも今は楽しく思えた。

 そして少しずつ同居人二人について知っていることが増えてきた。琥珀は19歳で高校生、一年事情があって留年して高校3年生だ。大人びた見た目から年齢が想像できず藤吾はそれを知った時驚いた。普段の琥珀は天真爛漫そのもので、藤吾が喋れなくともよく話しかけコミュニケーションをとった。変わって老田は必要最低限のこと以外喋らない無口な男だった。しかしよく気が回り困り事は何も言わず手を貸して解決する不言実行の体現者であった。普段は配送ドライバーとして働いていた。見た目に迫力と威圧感があるがその優しく細やかな性格に藤吾は心地よさを感じていた。


 藤吾は身支度すると庭へ出た。畑で野菜の世話をするためだ。

 ご飯で出される野菜があまりにも美味しくて琥珀に訪ねたところ、庭の畑で作っていると案内された。藤吾はこの家のために何か出来ることがないかと探していたので、老田に畑の雑事をさせて欲しいと頼んだ。老田は「好きにしていい」とだけ言って、物置から麦わら帽子を出してきて藤吾に渡した。

 それから藤吾は畑の草むしりを始めた。野菜の手入れのしかたは知らなかったが、雑草の処理ならできると考えた。気温が高く中腰の作業は堪えたが、彩りをつける野菜に囲まれて土いじりをする事が楽しくて苦にならなかった。

 しばらく作業を続けていたら、玄関先の方から「おーい」という大声が聞こえてきた。

 来客だろうが家には今藤吾しかいない、対応していいものか逡巡したが留守を預かる身として行動しないわけにはいかなかった。

「は、は、は、あい!」

 はいと声を出そうとしたのに緊張で噛んでしまった。

「おーよかったよかった居たか!」

 玄関先で待っていた男はガッハッハと笑って満面の笑みで藤吾に近寄っていった。

 派手な柄のサングラスと派手な柄のアロハシャツを着て、恰幅のいい体は日に焼けて浅黒く、大口を開けて笑うと白い歯がよけいに白く見える。

「志郎に米持って来たんだけどよ運ぶの手伝ってくれ」

 その男に手招きされるままに連れられて藤吾は米袋を家に運びいれた。藤吾は一袋を抱えて運んだが、アロハシャツの男は二袋を両肩に担いで軽々と運んだ。

「手伝ってくれてありがとよ!俺は志郎の友達で相田勝雄だ」

 相田勝雄(あいだ かつお)と名乗ったその男は藤吾の手を取ってぶんぶん振って握手するとガッハッハと笑った。

「藤吾ちゃん志郎から話は聞いたぜ、畑仕事教えてやるよ」

「あ、あ、えあ」

 藤吾が言葉に詰まっていると相田は皆まで言うなと制した。

「事情も少しだけ聞いたよ、無理しなくてもジェスチャーだけでいいぜ、俺が畑仕事を教えてもいいか?」

 相田の問いに藤吾は何度も首を縦に振って答えた。どうすればいいか何も知らない藤吾にしてみれば願ったり叶ったりだった。

「そうかありがとよ、さっそく行こうか」

「あ、あ、あ、あの」

「どうした?」

「よ、よ、よろ、よろしくお、お願いします」

 言葉を待って相田は微笑み優しく藤吾の肩を叩いた。


 それから藤吾は相田から様々なことを教わった。

 水やりの仕方や、それぞれの野菜の手入れ方法、何かあった時の対処等知りたいことはすべて教えてもらえた。途中からノートを持ち出してつぶさに書き取った。

「藤吾ちゃんは真面目だなあ、俺が親父から教わった時はもっと適当に聞き流してたよ」

 藤吾はノートを手にしていたので筆談に切り替えた。

『相田さんは農家さんですか?』

「俺は米農家だけどな、それでもよ親父は土いじりが天職の人だったから大体のことは知ってたしやってたよ」

 休憩にしようかと相田の提案で二人は日陰に腰を下ろした。

『すごく勉強になりました。ありがとうございます』

 それを見て相田は嬉しそうに目を細めた。

「こんなことならいくらでも聞いてくれよ、真面目で真剣に聞いてくれるから俺も楽しかったぜ」

 ガッハッハと笑い楽しそうに藤吾の肩を叩く、声は大きく見た目にも迫力があるが明るい性格と朗らかな笑みは無二である。

「でもよ藤吾ちゃん、そんなにメモ通りに作業しなくてもいいからな、人に食わせるもんでもないし気負うなよ」

『枯らしたりしてしまったらと思うと気が気でなくて』

「そうだよな、でもよ野にあるもんは強いぜ、大抵のことは自分で解決する。少し手助けしてやるくらいの気持ちでいいんだ」

『そんなものですか?』

「そんなものだよ、自由でいいんだ俺たちも野菜たちも。取って食っちまうけどまた生やすんだ、そうやって一緒に生きてるんだ」

 親父の受け売りだと言ってまたガッハッハと笑った。

『老田さんは何て?』

「志郎に畑を教えてやったのも俺だからな、藤吾ちゃんに教えてやってくれって珍しく俺に頼んできたよ」

 藤吾は老田にそこまで気を回してもらって、嬉しいような申し訳ないようなむず痒い気持ちになった。

「しかしこんな色男に教えることができて俺も楽しいぜ、真面目で働き者だし、志郎のとこじゃなくてうちに来るか?」

「え、あ、あ、あの」

 藤吾が慌てていると相田は冗談だと言ってまたガッハッハと笑った。

「だけど何時でも頼って来てくれよ、友達になろう藤吾ちゃん、俺のことはかっちゃんって呼んでくれ、志郎以外の友達は皆そう呼ぶから」

 相田から差し出された手を藤吾は躊躇いがちでも確かにしっかりと握り返した。友達になりたいと思わせてくれるそんな人だったからだ。

「あ、あ、あの、よ、よろ、よろしく、お願いします」

 藤吾の振り絞った声を聞いて、相田の嬉しそうな笑い声は一際大きく響いた。

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