第1話
どれだけの時間が過ぎたのか、藤吾が顔をあげた時には空は茜色に染まっていた。背中にはまだ女性の手があった。
「落ち着いたかな?」
ぽんと背中を叩かれて二人は立ち上がった。頷いて泣き止んだ事を肯定すると、女性はにっこりと笑った。
「私の名前琥珀って言うの、あなたの名前も教えてくれる?」
琥珀は先程とは違うノートを藤吾に渡した。
『源田藤吾です』
「じゃあ藤吾さんって呼ぶね、これから私に着いてきて欲しいんだけどいい?」
藤吾は力無く頷いた。これでこの旅も終わり、目的は果たされなかった。落胆と諦念の気持ちが入り交じる。
「そんな暗い顔しないの!別に怖いところじゃないよ、顔が怖い人はいるけど大丈夫」
琥珀は手を取って歩き始める。されるがまま引かれて歩く藤吾は、久々に感じる手のひらの温かさにまた少し涙が込み上げた。
琥珀が手を引いて連れてきた所は広く大きな家だった。見るからに古い日本家屋だが、堂々とした佇まいはどこか気品を感じさせる。
「おいちゃんただいまー!」
玄関で琥珀が声をあげると奥から低い声で返事があった。その迫力ある声色に藤吾はたじろいだが、繋がれた手は強く握られ構い無くその声のもとへ連れていった。
「おかえり」
そう言って座っていた老齢の男は恰幅よくガッチリとしていて、短く刈り込んだ髪と無精髭に鋭い目付きで、どの場面で出くわしても強面としか言い表せない見た目だった。
「おいちゃんこの人藤吾さんって言うの、秘密の場所で会って連れてきたの、ご飯食べさせてあげるけどいいよね?」
おいちゃんと呼ばれるその人はゆっくり頷いた。
「藤吾さんこの人老田志郎って言うの、だから私はおいちゃんって呼んでる」
老田志郎(おいだ しろう)と呼ばれた男は藤吾を一瞥すると軽く会釈した。琥珀は藤吾に座って待つように言い付け、老田には先程の藤吾の事情が書かれたノートを、藤吾にも筆談ができるようにメモ帳とペンを渡した。それだけ済ますと台所へと行ってしまったので、居間には二人が取り残された。
藤吾はどうにも居心地が悪かったが、流れるままにすることにしていた。これからの事を考える力も涙で使い果たして無かったからだ。目の前では老田がノートに目を通している、沙汰を待つ囚人のような気持ちだった。
「兄ちゃん声はどうした?」
老田の問いに藤吾は返せる言葉が見つからなかった。
「説明しにくいことか、ならいい無理はするな」
『ありがとうございます』
藤吾はそう書いた後深々と頭を下げた。
「兄ちゃん帰るところはあるのかい?」
力無く首を横に振るのを見て老田は「そうだよな」と呟いた。
「あのな兄ちゃんその命もその人生もあんたの物さ、他の誰の物でもねえから好きにするべきだ、とやかく言う筋合いは誰にもねえんだ、だがよもし兄ちゃんが良ければしばらくここに住まないか?」
藤吾が驚いて顔をあげる、老田の目は真剣そのものだ。
「兄ちゃんには迷惑だったかも知れねえが、命を繋いだ琥珀に免じて頼まれちゃあくれねえかな」
藤吾は困った。まさかそんな提案をされるとは夢にも思っていなかったからだ。
「飯と寝床しかねえけどよ、どうだい?」
『ご迷惑かけたくありません』
「おいおい俺は迷惑なんてかけられてねえよ、だがよ兄ちゃんにどんな事情があるにせよ、死にたいほど悩んで帰るとこすらないやつを放っておいたら、それこそ寝覚めが悪いってもんだよ」
その老田の言に藤吾はぐうの音もでなかった。確かに自分の身に置き換えて考えてみると老田の言うことはもっともであった。
「身の振り方が固まるまででもいいからよ、何も考えずに頼みを聞いちゃあくれねえか?」
そう言って頭を下げるので藤吾は慌てた。少なくとも老田は伊達や酔狂で言っているようには見えない、藤吾はどうするか決めきれなかったが、ペンを取って紙に文字を書いて老田に渡した。
『お世話になります』
それを見ると老田は少しだけ表情を緩めて「よろしく」と言って席を立った。藤吾は自分がとんでもない判断をしてしまったのとはないかと考えていた。絶望して死に場所を探し、たどり着いた先で出会った人に連れられ、招かれた家の家主から同居を求められるなんて想像もしていなかった。藤吾は自らが客観的に見て怪しいと思っていたし、そんな人間を迎え入れる老田と琥珀も理解が及ばなかった。
しかし同時に藤吾の目的は死に場所を見つけるためで、もう帰る場所も財産も何もかも捨て去ってしまった。そして今目的すらも見失ってしまった。ならばもう流されるままにいてもいいかも知れない、どのみち退路も未練もない、今はただ流されるしかないと思った。
「あれ?藤吾さんおいちゃんは?」
台所から顔を出した琥珀に「あっあっ」と藤吾が口ごもっていると老田が戻ってきた。
「おいちゃんご飯できたからお皿運んで、藤吾さんこれで机拭いてね」
藤吾はホッと胸を撫で下ろした。ここで一人残されて用意されるのを待つのだけは忍びない、受け取った布巾で机を綺麗にすると、二人が料理を運んできた。
「いただきます」
老田の声に二人も続いた。藤吾は蚊の鳴くような吃り声だったが、誰かに用意してもらった家庭料理を目の前にしたらか細くとも敬意を払わずにいられなかった。温かい食事と楽しそうに話す琥珀に寡黙ながらも調子よく相槌を打つ老田、食卓の幸せそうな雰囲気に、不思議な安心感と疎外感を同時に覚え、背中が少しむず痒くなった。
「そうだ琥珀、今日から藤吾は家で預かるからよ、後で案内してやれ」
老田の言葉に琥珀は目を輝かせて喜んだ。
「ああよかった!藤吾さんありがとう、ありがとうね」
琥珀が藤吾の手を取って喜ぶ、過剰なまでの反応に藤吾がどうにも出来ず固まっていると老田が「やめてやれ」と言った。
「ごめんね藤吾さん、改めてこれからよろしくね」
「よろしくな藤吾」
二人からの歓迎に藤吾は顔がカッと熱くなった。
「よ、よ、よろ、よろしくお、お願いします」
藤吾が声を絞り出すのを二人は黙って待った。この日から老田家での生活が始まるのだった。
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