17 終わりに
「轢き逃げの犯人、見つかったって」
デスワの片隅の、ひなぎく柄のソファに座る本村は言った。
「そう……」
晴れないようすで、小林アリスはソファのそばに立ち尽くしていた。
「俺らさっき、花屋の前を通ったんすけど」
同じくひなぎく柄のソファに座る池脇が言った。
「ああ、うん……」
アリスは少しうつむいた。
フラワーショップ『サクラタチバナ』の店舗は、壁に落書きや張り紙がされ、窓ガラスが割られ、ゴミが撒き散らされていた。「直道さんがやったことは許されることじゃないけど、でも、あれはないよ……」
「直道さんの、お母さんは?」本村はたずねた。
「分からないの。一応、お店は休業中ってことらしいんだけど……」
「そっか」
「直道さんが逮捕されたあと、いろんなことがあってね。明日見ちゃんの轢き逃げや、杉之谷さんって人の事件のことまで、直道さんがやったっていう噂が流れたの。でも、美希子ママが頑張ってる。あっちこっちで、〝真実〟を広めようと活動してるから」
それって噂話がしたいだけじゃ————。池脇は思った。
「そういえば————」
不思議そうに、アリスは言った。
「天使の館が突然閉店したんだよね。何かあったのかな?」
「ったくよぉー」
サクラタチバナの外壁に張りつけられた紙を、津久茂啓朗は乱暴に破り取った。「法も秩序もあったもんじゃねーっつーの」
啓朗の後ろで、バケツとモップを手にした大隅武夫は、肩を丸めて黙り込んでいた。
啓朗は振り返った。
「じーさん?」
「私の、せいだったのかなぁ……」
「え?」
「私が、美羽音ちゃんと親しくしていたから、直道君は文句の一つも言えずに、こんな————」
「ばかばかしい」
背後からそう言われ、武夫は振り返った。
洒落たエプロンと、ゴム手袋を身につけた多賀見ハツ江が、冷めたまなざしを向けて立っていた。手にはゴミ袋を携えている。「自分にそれほどの影響力があると思い込むだなんて、自惚れもいいとこですよ」
「こ、このババア!」
「なんですかジジイ」
ハツ江は武夫の横を通り過ぎると、店先に向かい、散らばったゴミを淡々と袋に詰めはじめた。「人というのは、自分が道を逸れかけている最中には、そうだと気づけないものなんですよ。あなたがタチの悪い女に貢ぎものをし続けていたときみたいに」
「バ、ババアその話は——」
「もういいってー。ケンカするエネルギーあんならちゃっちゃとやっちまおーぜ。おいじじい、合鍵」
啓朗は手を伸ばした。
武夫は不服そうな面持ちを浮かべながら、のしのしと扉の方へ向かった。
遠くから、そのようすを見つめていた和泉真由が、バケツとブラシをにぎりしめ、歩き出した。
「てことでー。これ、今日ね、初お披露目だから」
ドーナツホールのステージで、スカプラのヴォーカル、パニが、ロングヘアをかきあげながら言った。
「まだネットにも上げてないし。今日ここにいる人だけ」
オーディエンスから、悲鳴のような歓声があがった。
「でね、この新曲は、なんとリヒトが作りました!」
「リヒトォー!」
「りっちゃーん!」
「どだった? リヒト」
パニは後方に立つリヒトの方へ歩み寄り、マイクを向けた。
「え? 頑張ったよ?」
リヒトは照れくさそうに笑った。
「初? 作曲」
「フルは初。作詞とかも」
「出来栄えは?」
「えぇ……。ちょっと不安」
「やめろよーこれから演んのにー」
ワカメが言った。
「反応悪かったらぁ、リヒトのせい」
アンリが言った。「もうこの曲封印ね」
「エー」
「ヤダー」
「どういうきっかけで作ったん?」パニは言った。
「んー。やぁー。ね。ヤなことって、いっぱいあるでしょ? しんどいこととか、ぶっちゃけ死にたいなぁとか。ね? あるよね? あるでしょみんな」
「あるー」
「あるー」
「俺らね、みんなのことは大事だけど————大事だよね?」
リヒトが問いかけると、アンリはわざとらしく首をかしげた。
「ひどーい」
「死んじゃーう」
リヒトはブーイングをなだめた。
「——大事なんだけど、でも、マジでヤバいときに、それを完全にどうにかしてあげることは、できないっていうか…… 。音楽聴いただけで、ね? 何か解決するわけじゃないし、次の日から世界が変わるわけでもないし。でも、ちょっとでも支えになったり、気持ちが楽になってくれたらいいなって」
「リヒトォー」
「りっちゃーん」
「そんな感じで。ね。はい。え、言っていいの? じゃ。ね。はい。演ろうと思いまーす。はーい。『
「どうもお世話になりました!」
アーチ型の門の前で、にやにやしながら、大貫矢弦は言った。
「何笑ってんの?」
幸坂四葉は言った。「別れの挨拶くらい、ちゃんとしてよ」
「ふ。ごめ」
矢弦は含み笑いを手で覆い隠した。
「行ってしまうのね」
工藤律子は言った。
「律子さん」
真剣な顔つきで、矢弦は言った。
「俺がこの世の素晴らしさに気づけたのは、マカロニ・エンジェルのおかげです。本当に、感謝しています」
「また、いつでも来てよ」
藍澤えるは柔く微笑んだ。「ここで待ってる」
「矢弦さんには、わたくしたちがついています」
おっとりと、成願寺星来は言った。「どんなに遠く離れていても、わたくしたちは同じ空のもとで、矢弦さんのご健闘を祈っていますわ」
矢弦は静かに頷いた。
「みんな、今までありがとうございました」
それから、決心したように大きく息をついた。
「そんじゃ、いってきます」
矢弦は、振り返って歩き出した。
バックパックのポケットから、まさゆきが顔を覗かせていた。
えるたちはアーチ型の門の前で、穏やかに手を振っていた。
矢弦は振り返らなかった。
見慣れた道を、軽快に歩き進んだ。
「え? 何?」
「うん、そうだなぁ……」
ぼんやりと、矢弦は考えはじめた。
「やりたいことは、ほとんどやったし」
「行きたい場所にも行ったし」
「会いたい人にも会ったし……」
「ねえ、なんにも話さず、プレゼントも贈らず、お祈りもしないとしたら」
「人間は、どうやって人を幸せにするのかな?」
「ただそこにいるだけで、人を幸せにすることができるのかな?」
「え?」
矢弦は肩越しに後ろを見やった。
「ほんとに?」
矢弦は歩き続けた。
ふわりと、風が舞った。
天使になる方法 @pkls
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